マリリン

 自らを特定の社会的役割に押し込めることの悲劇。
 彼女の人生はまさしくそれです。
 マリリンは、どうしてノーマ・ジーンというただの女でいられなかったのでしょうか。
 
「頭の空っぽな金髪女性」をみごとに演じきった女性。
 彼女は、難しい本を読む自分の別の顔を周到に世間から隠していました。
 皆が求めるものが、彼女の美しい曲線美を包む白いドレス姿だけだったからです。

 彼女の姿が、現代を生きる、一見颯爽とした幸福そうな女性達の姿と重なって見えるのは私だけでしょうか?
 マリリンは、デフォルメされた現代女性の姿そのものです。

 黒髪でショートカットの女性が政治や経済を語ることは人々の神経を逆なでしません。でも、ブロンドでウエーブヘアのベビーフェイスの女が、何か賢そうなことを言うわけにはいかないのです。
 男女を問わず、世の中に広く受け入れられるためには、まず最初に「らしくなる」ことが必要とされます。
 
 人間が自分に与えら得られた社会的な仮面を逸脱した行動をとることは、周囲の人々の反発を招きます。ビジネスマンはビジネスマンらしく利潤について語り、主婦は主婦らしく子育てや野菜の値段を語らなくてはいけません。
 
 一旦レッテルを貼られたら、人間はその枠組みの中で生きることを余儀なくされます。
「生意気」というのは、すなわち「らしくない」ということです。「らしくない」ことをして、社会から拒絶されるくらいなら、功利的に、自分のイメージに沿った行動をとって成功をおさめた方が、ずっと賢いというものです。

 マリリンは、そうした賢さをもった女性でした。
 1950年代を生きる女性として、他にどういう生き方があったというのでしょう。

 女性が、社会で簡単で確実に成功する方法の全てがこの本にあります。
 どのように「女」という仮面を被り、男性社会に受け入れられかという技法については、時代が変わったとはいえ、これ以上の教科書はないでしょう。
 
 しかし勿論のこと、それを生真面目に(!)真似ることは、少々危険です。
 何故なら、マリリンの悲劇を自分に繰り返すことになるからです。


最新人気blogランキング!
 人間は本来多面体の存在です。
 与えられた役割を果たし続けることによる心理のゆがみというのは、測り知れないくらい大きいものです。マリリンの不幸もそこにありました。
 マリリンは、自分のブロンド美人と言う役割をいやいや演じていたというわけではありません。
 主体的に、成功の手段として楽しんで行なっていました。
 彼女は能動的な女性でした。
 プロの芸能人として自分のイメージを完全にコントロールしていたのです。
 
「本人が好きでやってるなら、問題ないんじゃない?」
「うまくいっているんだから、いいじゃない!」
 そう思うのは早計です。
 
 例え自分が望んだことであれ、本来の自分と異なった役割を演じ続けることのストレスと言うのは、本人の自覚している以上に大きなものなのです。
 実のところをいうと、成功したビジネスマン(ウーマン)、完璧に幸福なはずの家庭婦人、優等生などの社会の「勝者」が突然陥る、心の不全感の原因というのはその点にあるのです。
  自分という複合的な存在から、最も社会に役立つ部分だけを抽出して、後を捨ててしまうのは、一見合理的に見えて実は最も危険な行為です。
 人はそれを「贅沢病」と言いますが、それはあまりにも思いやりのない言葉です。

「専門外のくせに」
 分野外の人が何かを語る時、周囲の人が批判としてしばしば用いられる言葉です。しかし、考えてみれば、自分の体験や感情から出た言葉で語ることのどこがいけないのでしょう。
 たとえ稚拙でも、途中経過で結論が出ていなくても構わないのです。
 人間が何かを考えてその人なりの意見を言うことは、誰にも真似の出来ない切り口で物事を見るということです。
 自分と言う人間はこの世にひとりしかいないのですから。

 社会的に成功している大人達の間では、何かを「引用」しないとものを言ってはいけないという風潮があります。過去の経験や充分な学問的バックグラウンドがなければ何も語ってはいけないという考え方です。
 実のところは、成功者や専門家の言葉をそっくり借用て何かを語ると言うのは、愚かな行為です。下手をすると、語る人の人間性まで安っぽく見せてしまうことさえあります。
 人を説得する手段として「引用」というのは、極めて有効な手段です。
 自分が本当に感銘を受けたり納得のいった言葉を引用するのは当然の行為です。しかし、人を説得するために、多くの雑学を仕入れることにやっきになるのは少々馬鹿げています。知識や教養に悪いイメージがついている最大の原因はそこにあるのです。

 マリリンは、世間の心理が何を受け入れて、何を拒絶するのかをはっきりと承知していた頭の良い女性です。
 権威のある人が「引用」で知性をひけらかすのは更なる尊敬を集めます。例え間違っていても彼らの語る知識は世間に流布します。
 しかし、そういうイメージがない人が「引用」を用いて語れば、それがたとえ正しくても「浅知恵」と決め付けられる。
 だからこそ彼女は、自分が学んだことや読んだ本のことは一言も語ろうとしませんでした。

「経験」や「学問的裏付け」がないブロンド美人である自分が、何かシリアスなことを語っても受け入れられないことを充分に知っていたからです。
 本当は、自分の中で噛み砕いて消化した多くの考えをもっていた彼女ですが、それを語ることはしませんでした。
 自分の「容姿からくるイメージ」や「経歴」が、許容する範囲をわきまえていたのです。世間が身の程知らずをどれほど嫌うかを承知していたのです。
 ブロンド美人と言う役割を演じきることに徹した生涯でした。

 自分と言う仮面に知らず知らずのうちに固執している人は、とても多いもの。

 そうだとしたら、来年からは、自分と言う枠を自分の内面に合わせて修正し、
もっと生きやすい人生に変えていくようにしても良いのです。
 新しい自分になるということは、外部から何かを取り入れることにとどまりません。
 自分の中の、心の枠組みをはずしてみることなのです。
 
 そして、それはさなぎが殻をぬぐような行為ではありません。リセットではないのです。
 自分の内側にある自分の違った側面を、表に出している自分と融合させ続けていく行為なのです。

 矛盾に満ちているのが人間の内面というものなのです。
 その一見、統一性のない内面が自分という存在の中で見事につながっている…。そのことを否定しては決してならないのです。

 ノーマ・ジーン。別名、マリリン・モンロー。
 享年三十六歳。
 TVコマーシャルの言葉を真似れば、
「彼女が多面体の自分を出すことを許されていたなら、
 美しい老婦人になったマリリンに出会えていたかもしれません」

 美しいマリリンの写真の数々と、彼女の人生のギャップが、何度読み返しても胸を打つ本です。


この本を読み返したのは本当に久しぶりでした。何度読んでも多くの示唆に富む本です。クリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


元祖ブログランキング ほかのブログも見てみたい!