個人的な体験 大江健三郎著
 昔読んだ本 高校生編
 
 暗闇の中に閉じ込められた時、人はどうやってそこから光を見出すか?
 光は、私達が思っているように、正面からまぶしく差し込んでくるとは限らない。

 私達自身がまだ、暗黒の世界でもがいていると思っているうちに、
 まるでレンブラントの絵画の人物のように、
 背後から光が近づいて、ほのかに私達を照らす場合もある。
 それによって、私達の前方の道筋は突然はっきりと明るくなる。
 
 そして周囲の人の目からも、正面から光を浴びた時以上に陰影を帯びた存在として、私達の姿がくっきりと闇の中に浮かび上がるのである。

 「個人的な体験」はまさしくこのような小説である。

―想像を絶する苦悩が不意打ちに訪れたとき、人間はどのようにしてそれを受容するのか−

―青年期の人間が、モラトリアムにある日突如として別れを告げることを強いられた時に直面する心の葛藤―
 
 この小説は、いくつかの普遍的で、かつ直視したくないテーマを突きつけてくる。

   
 この小説を読んだ後、過去に経験した範囲での耐え難い苦痛に関しての、自分自身の「個人的な体験」の物語を、是非、考えてみたい。

 そして、その時に自分を襲った心の葛藤と正直に向き合ってみる。
 
 何事も突き詰めて考えれば良いというわけではない。
 しかし、問題に重みがある場合、そうした苦しみの過程を経ない限り、どのような「ポジティブ・シンキング」も、まるで安手の金メッキのような浅はかな考えに成り下がってしまう恐れがある。

 究極的な状況での希望は、多くの場合、苦しみからしか生まれない。
 愛や、その他のどのような物事でも、始まりの時点から「完成品」を求めるのは愚かではないだろうか?


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 私は、この本を高校生のときに読んだ。
 大江健三郎の作品の中では、今でも私はこの作品がやはり一番好きである。
 それは、この小説が、人間の変容というのをテーマにした作品だからである。
 無論、高校生の時と現在の私の視点は、多少は異なる。
 人間が耐えがたい苦しみを受容する過程に対して、現在の私は、当時とは違った興味でこの本を読まずにはいられない。

 E・キューブラー・ロス博士は、終末期医療に関する詳細な研究を行なった偉大な精神科医である。
 人間が自らの病と死を受け入れるということは想像を絶する苦悩を伴う。
 その著書
死ぬ瞬間―死とその過程については、自分が癌などの死に至る病であることを認識した人間の、心の葛藤と受容の過程を、克明に分析した、普遍的名著である。
 
 「自分が死ぬという確かな事実」そして「その瞬間まで生きていかなくてはいけないこと」は、人間にとって最も受け入れがたい事柄である。
 
 それを知った人間が、まず最初に感じる感情は、まず「否認」、次にやってくるのは激しい「怒り」である。
 
 この「怒り」の多くは、周囲の人々に対して他罰的に向けられる憎しみとして表現される。この怒りの過程は、多くの場合、医療従事者に矛先が向けられる。その怒りをいかに受け止めるかということから、ロス博士の研究はスタートしている。
 
 そして、何らかの犠牲や努力と引き換えに病から逃れようとする「取り引き」の虚しく短い過程を経て、長く苦しい「抑うつ」の状態に至る。

 この抑うつの状態は、いわば「怒り」が他者ではなく、深く静かに潜行して自己に向けられた状態ともいえる。
 そして、そうした全ての葛藤を減るまでは人は絶対に「受容」の段階に至ることは出来ない。

 ちなみに、この小説の主人公は、大きな試練が人生にやってきた時、まず徹底的にその感情から逃避してしまうような人間である。
 
 今現在、幸福である人の多くは、彼のことを「何と弱い人間」と嘲笑するかもしれない。しかし、実のところは、彼の行動は、ごくありふれた人間が陥る心の典型的な過程を、忠実に模している。

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 この物語の主人公である、27歳の鳥(バード)と呼ばれる男は、二十代の後半になっても、長いモラトリアムの真空地帯から抜け出せない人物だ。
 彼に予期せぬ耐え難い苦悩とは、妻の始めての出産で得た子が、重い障害をもって生まれてきた、という事実である。
 そして、それによって、彼の人生は文字通り一変する

 「バード」は「さる官立大学」の大学院に在学し、エリート人生を歩みかけていた。ところが、卒業を目前にして突如、「自分でも良く分からない理由」でアルコール漬けになってしまい、大学院を卒業できなくなり、エリート人生から脱落する。彼は元々、逃避的・拒否的人間なのだ。
 しかし、彼は何故か大学院の担当教授の娘と結婚することになったため、教授の口利きで、予備校教師の職を得る。勿論、熱意をもって受験教育に取り組もうなどという気はさらさらなく、その職業は彼にとってはただの生活の糧である。
 そして、彼の妻はやがて妊娠し、臨月を迎える。

 元々バードは、妻の出産を心待ちにしているような男ではない。
 何しろ彼は、大学は出たものの、自分の人生に対しての目標を何ら設定していない、宙ぶらりんのモラトリアム人間。一応仕事はしているが、日銭をかせぐため。明日の自分のことなど一度も考えたことのない、不全感に満ちた青年なのである。

 彼にとっては「自分の子供の誕生」は自分の人生に足かせをはめる、不吉な予感をはらんだ出来事に過ぎない。
 そして、その彼の不安は、別の形で、的中する。
「子供が障害を負って生まれた」という、病院からの電話を受けるのだ。

 小説の主人公バードは、その子供の誕生を知り、まず第一に、完全な思考の空白地帯、つまり「否認」の状態に陥る。その後に彼を襲った感情は、深い虚無感と絶望、そして怒り。
 彼にとっては、妻の出産を取り巻く医師達は、悪の枢軸のような憎むべき存在だ。バードは、子供の祖母である妻の母親にもいわれのない嫌悪を感じる。
 他罰的な行き場のない「怒り」をストレートに表すこの部分の描写のすさまじさは、本当に臨場感がある。

 そして子供の死を心のどこかで願い、そう考える自分に嫌悪感を感じるバード。

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 そうした苦しみの中で、バードは、大学時代の女友達との自堕落な愛の関係に逃げ込む。妻そっちのけで、他の女性とのぬくぬくとした関係に救いを見出すのだ。
 自分自身の苦痛から逃れようとすることが、当座の彼の最優先事項だ。
 もちろん、妻、義父母の前では、上の空でよい夫を演じてはいるが、彼の心は、実のところは、自分の苦しみを救うことで精一杯になっているのだ。
 この時の彼の行動は、上記の「死ぬ瞬間」には記載していないが、多くの人が陥る過程である「逃避」そのものである。
 
 彼の苦悩は、逃れようのない存在である「自らの死」ではないので、逃げようと思えば逃げることが出来るわけだ。

 では、「バード」は無責任な男なのか?
 恐らく、かなり精神がひ弱な傾向はあるかもしれないが、彼は普通のどこにでもいる青年である。恐らく、健常な子供が生まれていたら、多少のうそ臭さを感じながらも笑顔で義父母と乾杯をしたり、喜びの言葉を交し合ったりするような程度の「常識」は持ち合わせている人物だ。

 勿論、「バード」の妻の立場とすれば、病のある子供の誕生を機に、他の女性との愛に逃げ込むような夫の裏の顔を知ることは耐え難い苦痛であろう。
 しかし、この小説のテーマは人間の道徳的な正しさを云々するものでなく、ありのままの苦しむ人間の姿を描き出すことなのだ。

 この小説を読んで、道徳的に正しいということを重視する人は、恐らく
「なんてけしからん男だ。こういう夫婦の危機にこそ、妻と手を取り合ってその苦労を乗り越えなくてはならない。大体、どのような子でも、子供は可愛いものだ。」
と言うかも知れない。
 それは、理想的には、まったく正しい。
 しかし、人間というのは、苦悩に直面して、すぐ次の瞬間にこのような結論に達することが出来ない場合もある。
 このような重い問題に対して、部外者が大上段から正論をふりかざすことは、やはりどう考えても滑稽なことなのだ。
 最終的に、正しい結論に心が導かれるとしても、それは必ず、自らの力で到達しなければいけないものなのだ。
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 多くの人は、
人間とは、こうあるべきである」ということと、
人間は、こうである」ことの違いに気付きにくい。
 理想と、あるがままの姿というのは、全く別の出来事だ。
 この二つの考えは、両方とも人間社会にとって、必要で大切な考え方である。
 しかし、私達の多くが、この二つを混同してしまうために、噛み合わない不毛な議論を繰り返してしまう。

 実のところ、想像を絶する出来事に直面した人間にとって、
「こうあるべき」などという考えは、何の役にも立たない考えなのだ。

 高校生の私は、この小説をどのように理解していたのか?
 考えてみれば、「人間の苦悩や葛藤」に関しての感受性が鋭く、
人間のありのままの苦痛を純粋に受け止めることが出来る年代に出会ったからこそ、この小説の真の良さが分かったのかもしれない。
 今、初めて出会ってしまったら、もしかしたら、主人公バードのことを「無責任で頼りない男」などと紋切り型の考えではなから否定してしまったかもしれない。

 「バード」が経験したのは自らの「死に至る病」ではなく「我が子の誕生」であった。しかし、「生と死」というこの対極的な出来事ではあるが、耐え難い苦しみという点では共通項をもつ。
 それを通じてバードが経験した心の過程は、上記の嵐のような感情の全経過そのものである。
  
 子供の誕生を契機に、「バード」は「自らの精神の死」とでも言うべき、壊滅的な状態に投げ出される。
 青少年期という名前の宙ぶらりんな空間から、突如として、外の世界に放り出されるのだ。その「精神の死」を通じて、かれは否認から怒りを経て受容に至るまでの全てのステップを経験する、という考え方も出来る。

 そしてバードの得た、「受容」の過程とは…?
 小説をまだお読みでない方は、是非、それを知るためにもこの小説をお読みいただきたい。
   
 以前、テレビの音楽番組の画面でちらりと見かけた、光氏と並ぶ大江健三郎氏の表情は、慈愛に満ちた父親の表情そのものだった、とだけ書いておこう。

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 大江健三郎と言えば、ノーベル賞作家、良き父親で人道主義者という偉大な人物としてのイメージが強い。
 しかし、そうした「良き親」「完成された人間」という存在は、一日にして成るようなものなのだろうか?
 そして、そのような人物は、誕生のその瞬間からそのような「偉人」になることを運命付けられている人格者なのだろうか?
 大江健三郎をノーベル賞作家にしたのは「新進気鋭の学生小説家」として時代の寵児に躍り出たような華やかな人生の幕開けの帰結なのだろうか?


 何を今更私がという説明であるが、大江健三郎という存在は、彼の長男である光氏の誕生という「個人的な体験」を抜きには語れない。

 この作品は、障害をもって生まれてきた大江健三郎の長男 光氏の誕生を契機(約一年後)に書かれた小説である。勿論、これは小説であるから、作者自身の本当のストーリーと、この物語は大分異なるだろう。
 実のところ、作者自身の内面の苦しみは、この小説以上にもっと深く苦しいものであったと私は推察する。
 
 大江健三郎自身は、大学在学中に、新進小説家として絶賛され、文化人ファミリーと姻戚関係を結び、まさしく前途洋々の未来を約束されていた。
 長男である光氏の誕生は、そういった「完璧な人生」を根底から揺るがす唐突な出来事であった。
人間にとっては、本当に大切なのは、どのような経験をしたかということではない。その経験を、どのように消化して自分の内部に取り入れたかということなのだ。
   
 
高校生が読んでも、大人が読んでもまた別の感慨がある作品だと思います。既にお読みの方、つたない文章をお許し下さい。この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


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