ライオンと魔女 ナルニア国ものがたり(1)
昔読んだ本 小学校低学年〜中学年編 

   たんすの奥と井戸の底
 
 子供の頃、この本を読んだとき、
「こんな面白い本、読んだことない。」
と思ったものだった。すっかり魅せられてしまったのだ。
 大人になった現在でも、「最も面白い児童文学」のうちのひとつだと固く信じている。

 何と言っても、この本の魅力は、「衣装だんすのなかを抜けると、一面の雪景色」の別世界にたどり着くというところであろう。これは、「どらえもん」で、のび太君の勉強机の引き出しがタイムマシンになっているのと同じだ。
 子供にとって、「家の中に異次元への入り口がある」ということは、得もいえぬ魅力があるのだと思う。
 
 私達は、大人も子供も、今生きている世界以外の、別の世界を求めている。
 
 大人になるということは、子供の時に夢に描いていた世界を現実のものにすることのはずである。私達の大半が、子供の頃は、「大人になったら、夢をかなえよう」と信じて生きていたはずだ。

 つまり、理想的な状態では、大人になるにつれ、夢と現実は次第に一致してくる。勉強し、考え、一生懸命働くことは、究極的にはそれが目的のはずである。
 
 しかし、私達の全てが、幼い頃の夢に向かって歩き続けられるとは限らない。大人である私達の多くは、「生きてゆくために」幼い頃の夢とかけ離れた世界で時を重ねなければならない。
 私達の大半は、夢を夢のままとして、心の片隅に置き去りにしてしまう。
 
 それでは夢を現実化しながら歩む続けているような、完璧に近い人生を歩む人には、「異次元」は存在しないのだろうか?
 それは否であると私は思う。
 何故なら、ひとつの夢をかなえるということは、また新たな夢に対する枯渇を生むということであるからだ。
 私達は、それを普通、良い言葉では「理想」悪い言葉では「欲望」と呼ぶ。
 
 その上、私達は皆、はっきりと意識化している顕在願望以外に、意識の深い底に潜在願望を蓄えている。

 このように、私達の多くは、大人になっても、子供の頃と同じように「別世界」を求めている。
もっと正確にいうと、例え求めていると思っていなくても、その世界は誰の心にも存在する。
 
 私達の心には、好もうと好まざろうと、日常の中の異次元が存在し続けるのである。

 日常の中の異次元を扱った現代日本文学の傑作のひとつは、なんといっても村上春樹の
ねじまき鳥クロニクルであろう。

 「ライオンと魔女」を始めとする児童文学と「ねじまき鳥クロニクル」を頂点とする村上文学には多くの共通点がある。

 「ライオンと魔女」はたんすの扉、「ねじまき鳥クロニクル」は深い井戸を通じて、私達の現実と「向こう側の世界」をつなげている。
 

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 村上春樹の小説は「大人のためのファンタジー」である。
 私は、文芸評論の世界にうといので分からないが、恐らくそのことは既に誰かが指摘しているのではないかと推察する。
 そのくらい、村上文学とファンタジーには共通点が多い。

 まず、細部にわたる、食事の内容などの日常の描写。
 村上春樹が、作品の中にサンドイッチの具やサラダの中身までを細かく書き込むのは誰もが指摘する通り。
 料理のシーン、洋服を着替えるシーンなどの細部の描写も極めて多い。
 この「日常性」は村上文学の特徴として誰もが挙げる点であろう。

 児童文学には、日常性、特に食事シーンというのはものすごく大きな比重を占める。

 「ライオンと魔女」でも「泡立つクリームのような飲み物」「おいしいプリン」「湯気のたつマーマレード」など子供の胸をときめかせる飲み物や食べ物の細かい書き込みがある。

 先日の私のブログ紅茶が冷める前に
に書いたレモネードように、児童文学がきっかけで興味を持った飲み物や食べ物は数多い。
 子供の頃、本の中に出てくる魅惑的な飲み物や食べ物に魅かれて、私は何度も、台所で奇妙な実験に近い料理を繰り返したものだ。

 これらの「リアルな日常」があってこそ、その対比としての、「非日常の世界」が、臨場感をもつようになるのだろう。
 全てがリアルでない世界というのは、私達の心にすんなりと入り込むことは出来ない。

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 「ねじまき鳥クロニクル」と「ライオンと魔女」への共通点はまだある。
 「他人の家」への居住、である。。
 「ねじまき鳥クロニクル」の主人公は、叔父の家に住んでいて、異次元の象徴である井戸を見つける。
 「ライオンと魔女」の主人公の子供たちも、ロンドンの自宅から空襲を逃れるために、田舎の老先生の家に寄宿している時に、衣装だんすの奥に、別の王国を見つける。
 
 他人の家に住まう、ということは、ある意味、それ自体が非日常だ。
 現実の生活の基盤が、他人の家という非日常の空間にあるということは、すなわち、「ストレンジャー」として暮らすということである。
 つまり、良い意味では精神的に束縛がない状態、悪い意味では精神的支柱を失った状態である。
 
 私達は、「自分の家」「自分の場所」で型にはまった「自分の仕事」をルーチンにこなしている状況では、違う自分を見つけることは出来ない。
 そこから放り出されて、良い意味でも悪い意味でも、どこか自分の内部の均衡が崩れた時にだけ、別の世界への扉を見つけることが出来るのだ。

 異次元とは、自分自身の潜在意識でもあり、将来への夢や願望でもあり、過去に通り過ぎたけれども自分の心には強く印象には残らなかった出来事への突然のフラッシュバックでもあり…、それら全てを包括した場所である。

 「物語」の特徴は、情報を得るための読書と違い、何度読んでも別の発見があるという点にある。物語の中の異空間に重なる自分自身の心象風景が、その時々で異なるからである。

 私達の求めている、「別世界」は自分自身に無関係な「どこか遠い国」であってはならない。
 人間は、自分とかけ離れた世界に興味をもつことは中々出来ない。
 夢の世界は、必ず、たんすの奥や深い井戸を通じて、私達の身近な世界とつながっていなければならないのだ。
 
 非現実の世界にアクセス出来るルートをもつということは、私達全員の願望であるのだ。
 
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  それにしても児童文学は示唆に富む文章が多い。
 本書の中で一番私が気に入っているのはは、四人の子供たちが滞在しているお屋敷の、老先生のせりふである。

 ―「論理じゃよ!すじ道を立てて考えてみよう。」
 と先生は、じぶんにいいきかすようにいいました。
 「このごろの学校では、論理を教えないのかな。…中略…
 さしあたっては、妹さんはほんとうのことをいっていると、
 推論しなければならん。(ライオンと魔女より)― 


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*ライオンと魔女 C・S・ルイス作
 
 アイルランド出身の英文学者であり、オックスフォード大学教授でもあった C・S・ルイスの「ナルニア国物語」シリーズ全七巻の第一巻。

 ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの四人の兄弟姉妹は、第一次世界大戦の空襲を避けて、ロンドンの家から、田舎の老先生のお屋敷に預けられる。そこは文化財に指定されているような、色々な部屋のある広いお屋敷であった。そのうちの一部屋の衣装ダンスの扉を末娘のルーシィが開けて、中に入っていくと、そこは一面の銀世界。そこでルーシィは一人のフォーンに出会う。それをきっかけにして、四人は、たんすの奥の世界「ナルニア王国」での不思議な冒険に巻き込まれていく…。


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