レナードの朝

過去十年間に、とりわけ三年の間になにもかもがすっかり変わってしまった。病院は外観も運営上も、どこか牢獄か要塞じみたものとなった。「効率」や規則を至上とする杓子定規な管理体制が敷かれ、患者とスタッフが「親密に」接することなどは著しく軽視された。
             (レナードの朝 より)


        本当の心の医療とは何か?

 1960年代後半のニューヨーク。マウント・カーメル病院では、脳炎後遺症に苦しむ患者が多数入院していた。そこに赴任した、若き医師オリバー・サックスは考えた。
 現代でも「パーキンソン病」の治療の中心的薬剤であるL-Dopaが、その赴任少し前に発見されていたのだ。
 サックス博士は、病院で患者たちの症状をつぶさに観察するうちに、
「L-Dopaをこれらの患者に用いることで、患者を治療出来るのではないか?」 という考えを抱くようになった。
 嗜眠性脳炎の患者の症状が、パーキンソン病に酷似しているからである。

 本書は、このサックス博士の治療記録を中心としたエッセイである。
 同名の映画
レナードの朝は、本書に出てくる複数の症例のうちの一人であるレナードを中心にした物語である。

 実際のレナードに様子は、映画と違い、深い眠りに落ちていたわけではない。体の動きは著しく制限されていたが、知的レベルの高さは、サックス博士も感嘆するほどであった。映画のレナードは、半昏睡状態であった他の患者と、実際のレナードをいくつか複合させて作られたキャラクターのようである。

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 当時のL-Dopaは、見つかってすぐの薬剤であり、副作用等も良く知られていなかった。
 サックス博士は、少なくとも「それなりの生活」を送っている入院患者たちに新たに薬を投与することで、かえって病状を悪くするのではないか…と治療開始までに二年間悩み続けた。
 このような嗜眠性脳炎自体の症例が稀な上、そうした患者にL−Dopaが投与されて著効したという報告などは過去にひとつもなかったからである。

 しかし、若きサックス博士は、患者の病態の深刻さに心を痛め続け、
ついにある日、L-Dopaの治療を開始する。
 そして、L-Dopaは、映画にもあるように、劇的な効果を示す。
 ところが、脳を興奮させる作用があるL-Dopaは、当時はあまり知られていなかったことだが、投与量の調整が難しく、効果と共に、劇的で突発的な性格変化や異常な不随意運動を患者たちにもたらしてしまう。

 それに加え、現代では常識であるが、当時はL-Dopaの長期投与の影響が知られていなかった。
 L−Dopaには、長期投与にて、突然薬効が切れてしまったり、薬の効き目に日差や日内変動が起きたりすることが現在では知られている。
 
 現代では、それらの現象を出来るだけ防いでいく治療法が工夫されている。
 しかし、当時は、出たばかりの薬である、L−Dopaの薬効には、不明の点が多かったのである。

 そのため、しばらく治療を続けると、突然薬剤の作用が強まったり薄れたりすることで、身体・精神症状共に制御不能な状態に陥ってしまうことに、患者、スタッフ共に苦しみ続けるのである。
 サックス博士は、その様子を科学者らしい鋭い観察眼で克明に記録すると同時に、自分の治療に是非に関して、悩み続ける。

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 そして、レナードに関しては、ついにある日、「薬を中断せざろう得ない」と判断するのである。

 その時にレナードは、治療が完璧にうまくいったとは言いがたいのにも関わらず、サックス博士に
「自分に夢を与えてくれてありがとう」
と心から感謝するのである。

 その他の患者たちも、サックス博士と深い信頼関係を結んでいた。
 そのため、ある意味このように不完全で、やむを得ないといえ、苦しみに満ちた新しい治療の「被験者」になったことに恨みをもつものは誰もいなかったのである。

 そうした意味で、これは現代のおとぎ話であり、医師・患者ともに、ある意味「理想の医療」を描いたものである。そのベースになるのは、サックス博士の医療に対する極めて真摯な姿勢である。 
 
 だからこそ、患者たちはサックス博士に「ついていった」のである。
それはどのような時代であっても、重大な責務を負う職業の者なら誰でももたなければならない心構えであり、技術や知識を磨く共に身につけなければいけない素養である。

 ところで、断言しても良いが、ニューヨークのマウント・カーメル病院で起ったような奇跡は、現代の医療では二度と起こらない。
 市井の医師が、どこか高度の機関のお墨付きの「プロジェクト」の一環ではなく、独自の判断で最新の治療を行なうということは、もはやあり得ないからである。
 だからこそ、この物語は「おとぎ話」なのだ。


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 「全国どこでも一律の間違いない医療」「どの医師にかかっても同じ医療」
 言葉で聞くと、一見、極めて理想的な状態に思える。
 しかし、これは別の側面から見ると、ある疾患の治療に関する細かいマニュアルを定め、それを細心の注意をもって遂行するということである。

 つまり、現代の医師は、マクドナルドの店員になることが要求されているのだ。
 極上のレストランの味は出してはいけないかわりに、極端に不味い料理も出さない。
 「一律な」というのは、すなわちそういう意味である。
 このように医師・患者関係が閉塞的になっている状況ではある意味、どんどん医療というのが「守り」の医療になってしまう危険性をはらんでいるのである。
 「病気になる側」として安心できる点は、現代の医療においては、治療者である医師の「個人の裁量」の範囲はどんどん狭まり、標準的な治療がどんどん拡大している。

 医療のマニュアル化というのは、医療の場での「人間的なふれあい」の消失にもつながる。 
 ファーストフードのフランチャイズ店には、一律なサービスはあるが、人間的触れ合いがないのと同様である。
 そして、現代人の多くは、気楽で情緒を伴わない「一律なサービス」に、却って心の安らぎを覚えるのかもしれない。

 しかし、ストレスを伴う職業を、完全な「機械人間」としてマニュアルをこなす作業としてのみ行なえる人間は、ただの一人もいない。
 それに伴う、個々の医師の精神の荒廃は、結局、医療全体の後退につながるであろう。
「完全である」ために導入されたチーム医療という考え方も、下手をすると、個々の医療従事者を置き換え可能な歯車と扱うという、新たなストレス源になりかねない。
 どのような仕事でも、肉体的・精神的にハードな仕事を支えるのは「誇り」なのである。その「誇り」を軽視してまで標準化していく現場には、「責任ある仕事」は成立しない。

 そうした医療従事者の「メンタルな側面」を脇においたとしても、「完璧な医療」を目指して標準化しようとすればするほど、望ましい医療レベルからは遠ざかってしまうのは何故なのか?

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 少し前に、EBM(evidence based medicine)=結果に基づいた医療ということが盛んに言われた。科学とは、事実にのっとって遂行されなければいけないということには私も諸手を挙げて賛成する。しかし、EBMは、別の側面から見ると機械的判断に基づいた、マニュアル的医療に堕す可能性がある。
 しかも、そのマニュアルの前提となる「診断」が人間の判断にゆだねられている以上、その根拠すら怪しくなってしまうのである。

 その反動のように、今度は「テーラーメード医療」=個々の患者の病態に応じた医療、「心の医療」などが叫ばれるようになった。

 テーラーメード医療は、個々の状況に応じた医療とはいえ、医師の勝手な裁量による医療という意味ではない。それは、EBM の進化形であり、より詳細な病状把握、場合によっては遺伝子診断などの日常化によって、もっと個別的な医療を行なおうとする試みでえある。
 少なくとも、疾患の表面的な診断基準を点数化してフローチャート式に治療法を決めるような、悪い意味でのEBM的な治療よりは、医師にとっても患者にとっても心安らぐ医療であるのは間違いがない。

 しかし、その本質的なテーラーメード医療にたどり着くまでの、
科学の進歩と現実との「ギャップ」をどのように埋めていくのか?
 広大な医学の未知の領域が、完全に埋まる日は永遠に来ない。

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 医療の不確実性が消える日は、あり得ないのだ。
 その中で、自分の受けた医療に納得する方法というのは、「その時点で期待される完璧な技術」だけで充分あるのだろうか?
 その完璧であるはずの技術が、永遠に不完全であるという事実を踏まえれば、「心の医療」の必要性はなくならない。
 すべての病気が、完璧に治るところまで技術が発展するのなら、医療を「買う」だけで済む時代が来るのかもしれないが…。
 人間の社会から「死」を取り除けない以上、それに対峙するための心の準備への手助けが必要なのである。

 医師が自分の判断で勝手に、独自の医療を行なうことが良いとは、決して私も思わない。
 現代の医療において患者さんを「実験台」にするようなことはもはやあり得ないし、あってはいけない。医師の独断と偏見で、効果の良く分からない治療を試すなどということは、現代の医療では許されない。
 「色々な治療を試す」高度医療機関と、標準的な治療を行なう一般の病院をはっきりと分けることは、もはや世の趨勢であろう。
 
 つまり、「普通の医者がロマンをもつ時代」は終焉を迎えたのである。

 しかし、それは医療のマニュアル化を意味して良いのだろうか?
 
 全ての病気や全ての状況において、「高度な医療機関」での治療を求めることは決して最善ではないし、正しい医療ですらない。
 「普通の医療」の方が適切な場合も多く存在するのだ。

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 華々しく登場したinformed conscent=説明義務ということは、医療訴訟社会である米国で、「情報開示をする代わりに、治療の結果に関して自己責任を負う」というアメリカ流の訴訟回避の論理が含まれている。性善説の人から見れば、ショッキングな事実であろうが、これは「下駄を相手に預ける」という意味合いを含んであるのだ。
 私自身、どのような場合でも、自分が患者である以上、「全ての情報を知る権利」があることを強く支持する。しかし、この発想は、知ってしまった以上は、自分が選んで受ける治療は、「自分の選択」になってしまうという厳しい概念である。

 説明義務とは、「先生におまかせしたのだから何とかしてくれ」という論理をきっぱりと拒否するアメリカの医師ならではの発想である。
 そうしたアメリカ流の論理をを受け止めるには、「いつか患者になる自分」として、どのような事態にも対応できる強い精神性を築き上げておく必要がある。

 多くの人にとって、自分で全てを知って、自分で選ぶということは、恐らく最も価値の高い医療であろう。私であれば、間違いなくそれを選ぶ。
 私には、その「強さ」があるかもしれないが、全ての人にその「強さ」を要求するほど、私は傲慢になりきれない。しかし、そうした「甘え」のない論理というのが、日本人の精神性にふさわしいのかどうか、完全に断言するには、私は今ひとつ自信がない。
 
 日本流の説明義務とは、アメリカ流のものではなく、「説明をした上で共に患者さんと考える」という優しさを含んでいなければ成り立たないであろう。
情報を丸投げするような、「情報提供」は日本人のメンタリティにそぐわない。
 商品カタログを見せるような、「説明義務」ではなく、共に考える資料としての「説明義務」がふさわしいような気がするのだが…どうなのだろうか?

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 それらのマニュアル的な医療の反動として、再び「心の医療」ということが叫ばれている。

 どのような詳細な説明と膨大な情報提供も、相互の信頼がない限り意味をなさないということに、人々がやっと気付き始めたのだ。
 「先生が一生懸命やってくださったからいいのです。」
と村の診療所の先生に患者さんの家族が頭を下げるような、そのような時代は、もう二度とやってこない。
 しかし医療というのは「どのように正確で完璧」でも、「心」が不在である限り、信頼を得ることができない性質のものである。
 
「心」を置き去りにしているのは、医療従事者の側だけではない。
 求める側も、「心」ではなく「技術」だけを求めている限り、流れはどんどんと、あらぬ方向に向かっていくであろう。

 あまりにも多くの医療にまつわる報道の数々に、医療への信頼は地におちている。
 それらの報道の中には、「胸が痛むような」事実もあるが、ただスキャンダラスなだけのものも多く見かけるようになった。これは、他のニュース素材と同じであり、「ウケる」ことを目的にした報道姿勢の弊害であろう。

 現実の状況は、三十年前の医療に比べて現代の医療の質が落ちているわけではない。
 しかし、医療への信頼は、かつてないほど失墜している。
 医療レベルの進歩により、今はどのような病気でも「治って当たり前」の時代になった。
 医療従事者自身も「神のようにあがめられること」を期待しているということは、もはやあり得ないだろう。
 しかし、相互の信頼を心のどこかで求めているのは、医療従事者の側も治療を受ける側と同様なのである。

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 本来、医療に従事するということは、「社会の黒子」になって役に立つということである。他人の幸福の裏方になるのが医療の本質なのである。
 医師が
白い巨塔 の時代の傲慢さをもつことは、元々が許されない。
 しかし、サックス博士のような真摯な姿勢までもが疑いの目で見られるようになった時、医師、看護師を始めとする医療従事者ののなり手はこの世から消え去るであろう。

 医療とは、その時までの科学の進歩の中でしか、行ない得ない。
 未来の夢の治療を、「どらえもんのポケット」から取り出すわけにはいかないのだ。
 それは、無責任さとは違う、厳しい現実である。
 その範囲を超えた過剰な期待がかかったとき、医療は崩壊するしかない。

 ところで、「過ちを防ぐ」という観点から言うと、高度にマニュアル化された医療を淡々と遂行するのみ、というのはかなり危険である。
 何故なら、「考える」という視点が抜けていると、「これは何かおかしいのではないか」ということに気付かなくなるからだ。
 大きな事故を防ぐのは、機械的な「点検」だけではなく、熟達した人間による「いつもと違う」という感覚が必要である。そうした、間違いを見抜くセンスを養わないまま、大量のマニュアルを覚え込ませるような医療従事者の養成は、一見「完璧」な教育に見えて、「論理的にものを考える」という最も大切な点が欠落しているのだ。
 
 医療の場では「論理的にものを考える瞬発力」とでも言うべき、かなり厳しい能力が必要とされる。高度の訓練が必要なのは間違いがないが、「マニュアル通りにしたけれど、駄目でした」というような弁解術を学ぶ場であってはならない。
 「瞬発的に論理性のある考え方をする」というのは、論理の不在とは異なる。考える速度を極限まで速くする訓練をすることだ。

 医療を受ける側も同様だ。
 大量の情報を受け取っても、それを取捨選択する判断力がない限り、その情報は無意味である。
 ことの本質が置き去りにならないように、目の前の、自分の「主治医」とじっくりと納得がいくまで話し合うことが、これからの時代の賢い「医療を受ける側」のあり方なのなのかもしれないのだ。

 現代の日本の医療の在り方は、実のところをいうと1960年代後半のアメリカの医療と状況に似ているような気がしてならない。つまり、素朴でのどかな「町のお医者さん」の時代からの脱皮である。
 しかし、病状や社会的状況の違いを無視して、全ての人がマニュアル的「高度医療」を受けることは、最善であるのか?
 医療関係者のみならず、全ての人が「人生観」として考えなくてはならない問題である。


日本よ!米国医療を見習うな―医療ビッグバン成否の鍵を検証する


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