ミイラはなぜ魅力的か―最前線の研究者たちが明かす人間の本質
   
         究極の自己保存

 永遠の生命が欲しいという願いは、私にはまだ理解できない。
 私にとっては、限りある命であるからこそ、人生を懸命に生きることが出来るとしか思えない。
 例えて言えば、試験がないと勉強しない学生のようなものであろうか。
 有限の命であるからこそ、何とかこの生きていく日々を頑張ることが出来るような気がしてならないのだ。

 自ら命を短縮することは肯定できないし、今ある命を出来るだけ大切に生きたい。とはいえ、限りある命であることは受け入れるしかないと思っている。 生命体としての自分の運命は、甘んじて受け止めるしかないと思っているからだ。

 しかし、古代の王には違った考えをもつ人々もいた。
 ご存知、エジプトのファラオ達である。
 近い現代でも、ご存知のように某国の幹部は、同僚たちの手によってその亡骸をミイラとして永久に保管される運命を辿った。
 「自らを偉大な魂である」
と信じる人々の、ごく自然の願いは、「永遠に生きる」ということである。
「価値あるものである自らの魂は、死してなおよみがえる価値がある」
そのために帰還する場所としての肉体を保管しておきたいという願いを王たちが抱いたのは当然の結果だったのかもしれない。

  それ以外にも、聖人を「イコン」としてミイラとして保管した歴史。

  ミイラとは価値ある肉体を、永遠の生命への願いをこめてこの世に留めておこうというものである。

 本書によると、「ミイラ」は以前より、人々に絶大な人気があるという。
 1999年に大英博物館がミイラの展示室を設けたところ、人垣が出来るほどの人気であったと本書にはある。
 恐らく、人々が魅せられるのは「物質」としてのミイラではなく、上述したような、ミイラに込められた古代の人々の「精神性」であることは間違いないと思う。

 確かに「考古学」ほど、人の心にロマンを感じさせる学問はそうはないであろう。
 そうした人気ぶりとは裏腹に、「ミイラ」の研究者たちは、それだけでは生計をたてることが出来ず、やむを得ず他の研究などで身をたてながら、ミイラの研究をしていることが殆どだという。それは大変な驚きだ。
 本書は、その「ミイラ」に関する研究に関する興味深い記載が満載の書籍である。

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 人は何故自分の肉体を保存したがったか?
 最も世間でよく知られている理由は、先に挙げたような、独裁者たちが「価値ある人間」である自らの肉体を永遠に保存しようとする試みである。

 しかし、そうした永遠の栄光を願う権力者であるエジプトの王達は、実のところは世界で最初のミイラではないという。

 世界最初のミイラは、「母の愛」からこの世に永遠の肉体を留めることになったという。
  
 今から約7000年前、エジプトのミイラの約2500年前のチリ沿岸に住むチンチョーロ人のミイラ群の子供たちであった。
 母親にとって子供は「宝物」である。
 例外的な事件が世を騒がせているではないか…ということは、また別の問題として脇に置いておいて欲しい。

 多くの母親にとって自らの子供の死は、想像だにしたくない耐え難い現実である。「耐え難い」などという月並みな言葉で表現できない言葉に出来ない悲しみである。
 そういったあまりにも辛い現実に直面すると、人はそれが実際にあったことすらを認めることが出来ない。

 その母の心を慰めるために、古代チンチョーロ人達は、子供たちに永遠の肉体としての生命〜ミイラとしての保管〜を行なったのである。
 母にとって、我が子の肉体というのは、「この世の何にもまして価値のあるもの」であり、この世に永遠に留めておきたいものであったことは間違いがない。
 我が子がミイラとして姿をとどめることにより、母たちの悲しみがどれほど癒されたかは分からない。
 しかし、このような古代にも「他者への共感に基づく文化」が芽生えていたのだ。現代の社会の「去り行くものへの残酷さ」と比較すると、人間の精神がどちらが豊かであったのか、分からなくなる。

 死ということが、シンプルにいうと肉体の消滅であるという実感が現実感を帯びたものとして内在しているという現代日本人は、そうはいないであろう。


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 「死の尊厳を知らない世代」の増殖は、他者への共感力を鈍らせているという側面がある。
 死の尊厳を知らないということは、自らのそして他者への肉体への軽視にもつながる。
  
 それがミイラと何の関係があるのだ?と言われそうである。
 うまく言えないのだが、恐らく、肉体を尊重する文化においては、生あるものの肉体の価値というのは緊迫した感覚として人々の心の中にあったような気もしてならない。
 それは恐らく、古代の厳しい自然環境や皆無に等しい医療ということに基づく、「死と隣り合わせの生活」が生んだ価値観だったのかもしれない。

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 時代は下り、独裁者達のミイラへの願いは、自らを「この世の何にもまして価値のあるもの」と考える自己愛が原点になっている。
 同じ価値あるものでも、その動機にはチンチョーロ人とはかなりの隔たりがある。
 しかし、この時点でも、人間の肉体は、少なくとも価値のあるものであった。

 そして時は移り、中世になる。
 中世は、過去において、肉体が最低限にまで価値を落とした時代であった。
 怪しげな医療。「仁義」のために簡単に行なわれる殺戮など。

 そうした中世の社会で、過去の遺産である「肉体」ミイラは、なんと商売の対象になった。驚くべきことに、薬や絵の具として使われるためであったという。
 中世の人々の間では、ミイラを成分とした薬は「特効薬」であり、その褐色の肉体から得られる絵の具は「ミイラ褐色」として画家たちに珍重されていたという。そのために、世界中のミイラを集めて売りさばく商人たちが、中世のヨーロッパで活躍したというのだから驚きである。

 この時点では、「ミイラが人間の肉体である」という意識は当時の人々にはなかったようなのだ。
 私が驚くのは、彼らの精神的な意味での「倫理観の不在」ではない。
 動物に本能として備わっている「特殊な状況以外では、同種の生物の肉体を傷つけない」という本能的な感覚はどうなってしまったのか?という疑問である。
 「ミイラ」の、人としてはあまりにも変わり果てた外観が、ミイラが人であるという意識を人々から欠落させてしまっただろうか?

 「変わり果てた外観」が人間の尊厳を失わせる…。
 何という現実であろう。
 このことは「生命のある私達」の間でも確実に存在している。
 そして、「現代」という社会は、今まで以上にその価値観が支持されているのだ。

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 ミイラには、これらの「人工的に製作された」もの意外に、偶然に凍結されることによりアンデスの高地で「保管」されたインカの子供達など自然の偶然によって保存されたものも存在する。

 それらも含めて、過去の人々の願いは、古代の医療や生活を知る科学的資料を私達に提供してくれた。
 

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 本書によると、現代では、「ミイラ」ではなく、液体窒素による「冷凍保存」を行い、自分の肉体を永遠に保管しておく商業的サービスが存在するという。12万ドルを払うと、適切な処置をほどこし、自分の肉体をそれを「解凍」しよみがえらせることが出来る未来まで保管し続けてくれるというサービスだ。
 このサービスを受ける人は、これを受けるための特別な生命保険に入り、その費用を捻出してまでこの処置を希望するという。
 どのような「客層」がこれを希望するかは本書には述べられていない。
 恐らく、重大な病気に苦しみ「未来の治療への願い」を込めて、そうした選択をした方々もいるだろう。

 しかし、もしかしたら古代の「権力者」と同じ理由で自らを未来に読みがえらせようとしている人々もいるのだろうか?
 もしそうだとしたら、どのような人々がそこまで「自分とその肉体」に価値を見出しているのか、そのパーソナリティに私は正直強い興味がある。
 
 何故なら、生命は生殖によって、古代から連綿と現代まで引き継がれており、我々はその中のリングに過ぎないと私は思うからだ。
 それは何も、「私達は無価値な歯車だ」と言いたいのではない。
 自分に与えられ、生命を受けた世代の役割を存分に果たせば、それで十分なのではないか、とシンプルに思うだけである。

 しかし、おそらく「凍結保存」されて人々の願いは、きっと未来の人々に役に立つことは間違いはないのだ。過去の人々達がそうであったように…。

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 ところで、著者らは、これらの肉体の保存への執着と、現代の人々の若さへの執着と合わせて究極の「自己保存」と評した。
 中々、耳の痛い言葉である。
 確かに、現代ほど、人間がよりナルシスティックになっている時代はないであろう。
 過去の人々が、ある程度は老いをあるがままに受け入れてきたのとは大きな違いがある。

 こうした肥大した自己愛は、現代に巨大な産業価値を生み出している。
 12万ドルの凍結保存とは言わないまでも、自らを永遠に「若く健康な」状態に保つために、人々は惜しみない金銭を注いでいる。
 そして、その金銭が流れ着く先は、科学的な(少なくとも現時点においては)医療よりも、夢やロマンを人々にかきたてる、場合によっては「ミイラの薬」のような存在の代替医療や美容産業である 
 そうした願いの前では、「科学」や場合によっては「倫理観」までもが無力である。
 
 人々の心が、それほどまでに強く自らの永遠性を求めているいう現実をどのように考えていったら良いのか?
 
 生き続けていくことが当然の時代に、何を得て何を失うかは議論されないままである。


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