人間として、「いつまでも健康でいたい。長生きしたい。美しくなりたい。」というのは自然な気持ちであり、それを否定するつもりはありません。
 それに現代には、「医療」の段階に至る以前の日常的な方法で、きちんとしたエビデンスの証明されている効果的な「健康や美を保つための方法」が、数多く解明されているのは事実だと思います。

 その部分を大切にすることで、心身に負担のかかる「治療」を必要をする段階にならないように健康を保つことが出来ることは間違いありません。
 私も、個人レベルで食べ物に気を遣ったり、自分の楽しみのためにお洒落をしたり…そうしたことを楽しむ気持ちは勿論あります。
 なかったら健全ではありません。
 
 現代では、こうした心遣いを軽んじて肉体を不健康にし痛めつける人と、極端に健康や美にこだわる人の二極分化が進みつつあります。
 そして、日常レベルの気遣いを超えた過大な「肉体へのこだわり」は、恐らく「軽視」と同じくらい体を痛めつける可能性が大です。

 恐らく、「科学としての医学」が満たすことが出来ない部分が、人間の精神と肉体を健全に保つことに大きな貢献を果たしているのは間違いがないと思います。
 
 しかし、究極的な苦しみを味わっている人の藁をもすがる気持ちに付け込んで、「希望」という名のもとにかなりの金銭的負担を伴う商品を売り込む人達は、古今東西、絶え間なく存在し続けてきました。
 それに関しては、私はどうしても納得することが出来ません。
 希望とその次にやってくる落胆、そして不信という二重三重の苦しみを購入者に与えることになるからです。
 
 「命」ということを考えると、自分はともかく「自分にとって大切な人はいつまでも元気で長生きして欲しい」という気持ちは、私は人一倍強い方かもしれません。
 だからこそ、こうしたものにすがる人の気持ちは、分からないでもないのです。

 世の中には「相手の気持ちが分かる」ということを「利用する」ことこそが頭が良いことだと信じている人が沢山います。そうした人は、「相手の落としどころ分かっているのに、利用しない」というのは、馬鹿だと信じています。

 そうした方に会うたびに、
「私は馬鹿なので、そう思っていただいて結構。」
ときっぱりと思います。
 人に好かれたり、利口と思われたいといった気持ちが、個人的には、何故か年々薄らぐ一方なのです。
 これからも、重要な場面に限っては、思い切り
流行のHow to 本とは別の意味で「頭の悪い人の話し方」を実行していこうと思います。
 究極的には、「自分が相手にどう思われるか」ということが、小さな問題になってしまう場面というのが確かにあるような気がしてならないからです。

  

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 それにしても、当然といえば当然ですが、自分が
「どうやったら好感をもってもらえるか」という本はとても多いです。
 私が読みたいのは、どちらかというと「どうやったら嫌われるか」という本なのですが…。
 正確に言うと、「どうやったら、ある程度他人には嫌われても良いから、まともな人間になるか。」という本かもしれません。
 もっと正確にいうと、「好かれる嫌われる」というのは、単なる結果論ですので、そうしたことを離れた、「生き方語り方」を書いた本でしょうか…。 
 
 勿論、社会人として他人に不快感をまきちらす方法を書いた本は読みたくないし、自分でも実行したくないの言うまでもありません。
 ある天気の良い朝、気分良く出かけたら、極端に不機嫌な人の暴力的な言葉によって一日を台無しにされるのは誰だって嫌なものですから…。
 
 しかし「朝は笑顔でおはようと言おう」というのは、あらためてビジネスマナー書籍で気付くのではなく、日常の中で、当たり前に学んでいかなくてはいけないことです。
 大人になって、まずそうしたことから始めなくてはいけない私達というのは、一体、何を置き去りにして成長してきたのでしょうか?

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 食や健康に関しても、日常の知恵を学ぶために、あらためて本を手にしなくてはならない。そうしたことが、意識の肥大化もしくは無関心に大きく振り子が振れる原因になっているのは間違いがありません。
 
 恐らく、「本は一冊も読まなくとも、常識は身についている時代」というのが過去にはありました。その時代は、ほんの簡単な感染症などで命を落とす時代だったため、結果としては短命だったかもしれません。しかし、そうした時代だからこそ、日常を丹念に生きる努力は欠かさなかったのかもしれないと思います。
 どの時代にもその時代特有の問題があるわけですから、懐古趣味的になるつもりはありません。
 しかし、ふと、次のような疑問が脳裏をよぎることがあります。
 
 常識を置き去りにして、断片的な知識で物事を判断する。
 そしてそれによって、極端な結論が導き出される。
 そんなやり方は、一体いつの時代から広まったのでしょう。
 結局のところ、「知識が極端に一部の人に制限されていた」過去の時代と変わらないくらい、私達の判断力は不確かなものなのではないか?
 
 そして現代は、もはや「日常どんな気遣いをしたら健康になれるか」ということが、科学的な研究によってかなりはっきりと解明されている時代です。
 現代においては、もはや「怪しげな健康法」が付け入るすきもないくらい、「医療以前のスタンダードな健康法」に関してはある程度科学のメスがはいっているといっても過言ではないと思います。

 その知恵が、祖母の時代の生活の知恵に似ていることには、毎回驚きを禁じえません。そうした「当たり前」のことにゆがみが生じていることを、莫大な医療費で是正していくことに一抹の寂しさを感じるのは私だけでしょうか。
 
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 ところで、話は戻りますが、私は、「商業主義」というものを否定する立場はとりません。
 実際のところ、人間社会を発展させてきたのは「ビジネス的な思考」だとすら思っています。
ビジネスの世界に生きている人の中には、実際に「相手の方に本当に喜んでもらえる。それが自分の商売につながる」「この商品は素晴らしいから売りたい」「良い方法論を広めたい」ということを真剣に考えていらっしゃる方も多いです。

 そうした方と、「不幸につけこむ」といったら何ですが、そうした「利益第一」の考え方のあまりの違い…。
やはり人間は「何をしているか」ではなく「何をどのようにしているか」が大切なのと同じなのだと思います。

 それはどのような職業でも同じなのかもしれません。
「何を研究しているか」ではなく「何をどのような考えでどのように研究しているか」
「病」ということを考えれば、
 「どんな医療をしているか」ではなく「相手をどのように尊重し、どのように考え医療を行なっているか」。

 やはり、「記号としての人間」には意味がないのだと思います。
 ○○だから偉い、ものが分かっている、などの考えは捨て去るしかありません。

 そんなことを考えなくても、結果オーライなのでは?
 私も、以前はそんな気がしたこともありました。
 しかし、結局のところ、「理由」が「結果」に大きな違いをもたらすという事実に今は気付いています。
 結果オーライというか「確実な結果」を望む人こそ、そこに至る思考過程を結局は大切に積み上げなければならない…。
 結局は、原点に戻らないといけないのです。

 多忙な日常の実践の場で、常に「理由を反芻しろ」と言いたいわけではありません。
 しかし、頭の片隅に置いておくだけでも、大きな違いが出ることは間違いがありません。
 それは一般に「人格」と呼ばれるもののようです。
 そう考えると、自己反省するところ大ではあります…。

「ミイラ」の話を読んで、そんなことも考えました。
 昨日のブログでは、どこまでが生命かということを考えながら書きましたが、本日は限りある命を大切にするということは、実際にはどういうことなのかを考えてみたくなったのです。

 Harvard School of Public Health:現時点での科学的健康法・食生活のスタンダードを知りたい方に


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