Vogue Book of BLONDES(洋書)

    
 私にとっては、ブロンドとはただの髪の色の問題ではないのです。
 それは私の存在そのもの、そして心の在り方そのものなのです。
     (ドナッテーラ・ヴェルサーチ “BLONDES”より 訳:小枝)


 アメリカの雑誌(allureだったと思うが手元になく記憶が定かでない)で、こういう記事を読んだことがある。
ある茶色の髪(いわゆる“ブルネット”)の女性記者が髪をブロンドに染め、街を歩いて、周囲の男性の反応がどう変わるか?ということを考察する、という記事であった。

 彼女の手記によると、その女性記者は、長年道を歩いていて、男性から声をかけられたことは一度もなかったという。ところが、髪をプラチナブロンド(きわめて明るいブロンド)に染めて街を歩いたとたん、突然「ハイ!ブロンドの可愛こちゃん!」などという軽口を、道行く男性から多く浴びせられるようになった。
 その分、仕事の面では、女性記者という知的な職業において、デメリットがあったという。
 細かい点はともかく、以上が、記事の大体の要旨である。

 日本では、ここしばらくは女性の間では髪をカラーリングするのが、別に「不良」でなくても当たり前になっている。しかし、無論のこと、元々日本人の髪の色は、ほぼ単一である。
 そうした点から、「髪の色合いと魅力」というのは日本人には少し分かりづらい感覚である。しかし、髪の色にバリエーションがある欧米系の国では、それによってパーソナリティが判断される傾向にあるというのは常識と言っても良い。

 一般的にいって
  ブロンド:性的魅力がある、特別な、若々しい、頭が悪い 
       チャーミング(温かい色みのブロンド)
       冷たい(プラチナブロンドの場合)
  ブルネット(茶色):中庸、平凡、個性がない、頭がいい
  赤毛:短気、気が強い、個性的、娼婦
  黒髪:神秘的、狡賢い、何を考えているか分からない

 など、それぞれの髪の色によって、特有な正負のイメージをもたれてしまう。
 ルナールの
にんじん、モンゴメリーの
赤毛のアンなどは「赤毛」から来る強烈なイメージに悩む少年少女が主人公になっているのは皆様もご存知の通りである。

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 一般に、男女共に「善良な市民。知的な職業」とされる人は、ダークカラーのブルネットと相場が決まっている。恐らく、ハリウッド映画などを良くご覧になる人だったら、色々な役柄と髪の色の関係に気付いていらっしゃる方も多いかもしれない。

 映画の世界でも、男性ヒーローが、ごく年齢が若いロマンチックな王子様的な役柄以外で、「金髪」であることはまれである。知的でないし、信頼感がもてず、勇敢に見えないからだ。
 
スター・ウォーズ のルーク・スカイウォーカーが今ひとつ人気がないのは「金髪の優男」だったためではないかと私はにらんでいる。どう考えても「ダーク・カラーの」髪をしたハン・ソロの方が、アクション映画のヒーローとして男女両性から人気を得るのにふさわしいからだ。

 この理由としては、ご存知の方も多いと思うが、コーカジアン(白人種)では、生まれたばかりの赤ちゃんは、淡いブロンドをしている比率が高い。そして長ずるに従って段々と髪の色が濃くなっていく。
北 欧系の一部の人を除いて、ダークなブロンドはともかく、女優さんやセレブリティの人々に見られるような、「かなり明るめの」ブロンドというのは実のところかなり大人においては少数派である。

 これもアメリカの雑誌で見た記事だが、あるアメリカの有名美容師が大人の女性の髪の染色の比率について語り、「知る限りでは、私のキャリアにおいて、本物のプラチナブロンドはたったひとりだけだった。」と語ったという記事があった。


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 マリリン・モンロー(彼女も元々は茶色の髪の持ち主)、故ダイアナ妃(彼女も髪を染めていた)やブリトニー・スピアーズ(どうしているか不明)などの髪色は大人においては天然ではあまり存在しないらしい。

 しかし、欧米の女性にとって、他の色はともかく「自分は本物のブロンドではなく、髪を染めている」というのは、「私は美容形成による美人である」という以上のトップ・シークレットである場合もあるらしい。
 「髪を染める」ということ自体は、別に秘密にするようなことでも何でもないのだが「ブロンドに染めている」ということに、一抹の恥ずかしさが伴うことらしいのだ。

 故ケネディJrの夫人であった90年代のアメリカのファッション・リーダー故キャロリンは、自らの金髪が「染めたもの」であることをばらしたお抱え美容師を解雇したことでつとに有名だ。

 このように、大人になってブロンドの髪をしている人はかなりの確率で「髪を染めている」可能性が大である。そして、何らかの理由で髪を加工してイメージ作りをするのは女性が殆どであるから、大人の男性のブロンドは比率が少ない。
 大人になって「金髪」である男性は、「女性に愛される」ことを主な目的にした人格、「少年性」を保持したパーソナリティとみなされる。
「茶色の髪」というのは男性にとって大人になった証拠、というイメージで受け止められ好感を持たれるものらしい。

 逆に、女性にとっては「ブロンド」というのは、「若さ、幼さ」の象徴であり、女性としての価値を高めるものであるらしいのだ。反面、女性においても「キャリア・ウーマン」など知性を前面に押し出したい立場の場合は、金髪は好ましくない。
 つまり欧米の女性達は自らの髪色として「個人としての魅力の象徴」であるブロンドを選ぶか、「社会人としての信頼の象徴」であるブルネットを選ぶかで、相当逡巡するらしいのだ。
 髪の色は、アイデンテティの一部なのである。

 プライベートでは美しく女らしく見られたいが、職場ではニュートラルな存在として見られたいというそのアンビバレンツな気持ちは、現代女性の大きな関心の的であり続けている。
 そのために多くの女性は、多かれ少なかれ、職場とプライベートで化粧や服装を変えるなどの工夫をして、自分のイメージを保とうと努力している。
 
 以前のブログ顔を読む―顔学への招待でも紹介したが、容姿がその人の社会的立場や好感に影響をもたらす要因は、美醜ではなく、体格やイメージ〜一般にいうと“キャラ”と総称されるもの〜である。
 過去においても現代においても、実生活の上では“キャラ”に合わないことをすると、それがどんなにその人の内面を反映した行動であっても、受け入れられなかったり、場合によっては嘲笑の対象になったりするということは否めない。
 
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 本書
Vogue Book of Blondesは、そうした複雑な状況の中で「ブロンド」という髪の色を選択した女性達、そして一部の男性たちのアイデンテティのありかたを浮かび上がらせる興味深い図書である。
 ピンナップの中で微笑むブロンド美人という、あまりにも典型的なイメージの蔭に潜む女性達の思いを汲み取ることの出来るかなり興味深い本である。

 ブロンドの女性達の一部には、こうしたことを全部含んだ上で、「攻撃的な意味で」ブロンドを選択している女性達も多い。最も有名なのは、「マドンナ」であろう。

 文頭に掲げたドナッテーラ・ヴェルサーチ(凶弾に倒れたジャンニ・ヴェルサーチの妹でヴェルサーチ・ファミリーの一員)は、ブロンドのロングヘアーをトレードマークにしたイタリア女性である。しかし、彼女のブロンドには「男性に媚びる」ような要素はない。
 彼女のイメージ全体は、「ブロンドと露出の多いドレス」といういでたちにも関わらず、かなりの「強さ」を感じさせるものである。

 現代の女性には、実のところこういう人が増えている。
 例えは悪いが「男性が女装するような感覚」で、自らの女性性を最大限に利用する方法を客観的に計算尽くしているのだ。
 しかもそれだけではなく、その「極端に女らしい装い」をある種のパロディとして表現することによって、同性の高い支持さえも集めてしまうのである。
 つまり、「男性に媚びる女性」を完全に戯画化した存在として、自らを位置づけてしまうのだ。
 このやり方が、社会で男性と対等になるために「自分の女らしさを押し隠す」方法の次世代のやり方となって久しい。
 
 もう女性達は、長い髪も淡い髪の色も、美しいドレスも恐れなくなりつつある。
 
 子供の頃に夢見た「お姫様のようなファッション」を思い切り楽しむ。そして、「頭が悪そうに見える」ことを楽しんでさえいるのだ。
 「セクシーな」「無垢な」「知的な」という人格に関わるイメージを、何らの人工的な痕跡すらなく、男性には気付かれることなしに、自由自在にコントロールしている女性達は確かにいる。
 そして、同性である女性達は、彼女たちに「小気味よさ」を感じてエールを送るようになりつつある。

 このまま行き着くところまでいくと、「美」というものがかえって無価値になる時代が、やってくるのだろうか?
 私には良く分からない。

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 さて、あなたは、ご自身の外見に満足されているだろうか?
 どのような容姿の持ち主であれ、ある程度の年齢以上の方だったら、多分、それを受け入れていらっしゃることと拝察する。
 とにもかくにも、「外見に対する自意識」はティーンエイジャーの頃をピークとして、大人になると年々薄らいでゆくのが普通である。
 
 年々、清潔や身だしなみということ以外の、「自分を演出するためのお洒落に対するこだわり」が減ってゆく自分に気付いていらっしゃる大人の方は多いであろう。
 しかし、ある側面では、これは健全である証拠である。
 何故なら、自分のイメージを素直に受け入れ、「他者から見た自分」に対する過剰な見栄がなくなっていく証拠でもあるからである。
 大人になることは、一抹の寂しさを伴う。
 しかしそれはある意味、心の解放でもあるのだ。
 

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