人間というこわれやすい種

私たちは長いあいだ、種族を単位に生きのびる方法を身につけ、種族どうしでは争う傾向にあった。(中略)人類はただ一つの集団、ただ一つの種なのである。私達の現在のありかたはこれにそぐわないであろう。
(ルイス・トマス 人間というこわれやすい種より)

 
 自分自身が透明な壁をすり抜けて、次の段階に移ったということを、はっきりと感じる瞬間がある。
 それは必ずしも進歩とは限らないが、何かが自分の中で変わったことを知る瞬間である。
 一番分かりやすい例が、最も普遍的な概念「愛」に対しての意識のあり方であろう。
 
 大概の人は−勿論不幸にしてそうでない場合も多いが−幼少期においては、「子供に対する親の愛」という絶対的なものに守られて、自己への信頼感を形成する「はず」である。
 その時には、子供は「愛」に対してあまり疑いをもたない。
 人生のある段階までは、たいていの人にとって、「愛」は自明の理である。

 その次の段階の思春期以降、この信頼は多くの場合打ち砕かれる。
 それには、それなりの理由がある。
 多くの人が恋愛を経験し、それには挫折が伴う。
 社会に出れば、裏切りにもあう。騙されもする。
 そうしたことから、他者への絶対的な信頼感が、揺らぎ始め、
「愛とは偽善なのではないか」という考えが頭にもたげられてくるはずである。

 この頃には、過剰な自意識から自己への信頼感がぐらつく時期でもあり、それが不信に拍車をかける。
 
 こうした「愛への不信」が芽生えた瞬間、私達は、突然自分の視野が広がったように感じ、自らが賢者になったような気がするのが普通である。
 その瞬間、愛や信頼といった言葉を「いまだに」信じている人達が幼く見え、大人になった自分に酔いしれてしまうのである。

 そして第三の段階が、ある時やってくる。
 ふいに「やっぱり愛はあるのではないか」と、子供の頃とはまた別の意味で、自明の理としてわかってくる時がやってくるのだ。
 それは、新しい恋が芽生えたとか信頼できる人に出会えたなどの、個人的な「小さな」出来事がきっかけになる場合もあるが、そうでもない場合もある。

 自身の人生の総括として、ふとそうした境地に達するのである。
 「ひどい人もいたけれども素晴らしい人もいた」
 「ずっと側にいてくれる人がいる」
 そうした当たり前の事実に頭を垂れる瞬間である。

 「愛」という言葉は、知的な人々の間で何故かあまり人気がない。
 その言葉に巨大なバレンタインのチョコレートのような甘ったるさを感じてしまう人は、「他者への信頼感」といった別の言葉に置き換えて私の文章を読んでいただければ幸いである。

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 ルイス・トマス博士は、ジョン・ホプキンスやイエールなどの米国の大学において、医学教育・研究に長年携わった知の巨人である。
 そして、この「第三の段階」にいたった人物の立場からメディカル・エッセイを書き続けた。
 そうした人々の共通な特徴として、トマス博士のエッセイには見せかけだけの平等や、うわべだけを取り繕うような態度は一切見られない。

 貧困・差別・戦争・麻薬といった問題のありのままの事実を捉えた上で、「自らに出来ることは何か」を具体的に示し続けるのである。

 例えば、博士は、世界の貧困地域を救う医療は、アメリカのマサチューセッツ総合病院(MGH)の高度先進医療をそのまま移植する行為ではないと言い切る。
 もっとプリミティブな感染症対策や草の根の医療が必要であり、地域によって医療レベルが全て平等であるべきだという空論を排する。

 その上で、文明国に生きる人間の「負い目」として第三世界に関しての医療の公正さを希求しつつける必要があると主張するのだ。
 そうした人道的な感覚を持てること自体が、私達が人間であるゆえんであるとトマス博士は語る。
 適者生存の原理に従って、「弱いもの」が滅ぶ社会は、恐らく人類の絶滅を意味するということを警告し続けるのである。以前私のブログ単一のクローンは滅びやすいは細胞レベルでの絶滅の話であるが、人類というレベルで捉えても、それはある程度当てはまる事実である。

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 トマス博士の言葉の中で、恐らくもっとも論議が分かれると思われるのが以下の言葉であろう。

 「すべての男と女が兄弟であり姉妹であるというのは、移ろいやすい、文化に依存した概念ではないし、また私達の心のなかで温かみや心地よさを感じさせるためにつくりあげたスローガンでもない。それは生物学的な至上命令なのである。(人間というこわれやすい種より引用)」
 
 おそらく、「愛は偽善」と感じている場合、この言葉は全く胸に響かないのではないかと思う。
 こうした言葉は確かに、上から押し付けられた場合には受け入れがたい偽善となってしまう。

 しかし、自分の内側にこうした気持ちが自然に芽生えたとき、この言葉はすんなりと自明の理として心にしみ込んでくるのである。
 この言葉は、私達が「違う」存在であるということを否定してはいない。
 平等の名の下に、巨大なホモジナイザーで人間を均質にかき混ぜることを意味しているわけでもない。
 
 この人類愛を語った言葉は一見、「淘汰」という概念と反するのではないかと感じる方もいるかもしれない。
 トマス博士は、全ての人間は平等に生き延びる「べき」であるとは語っていない。
 そうではなく、過剰な「適者生存」の考え方が、結局は全てを滅ぼすということが言いたいのだと考えられる。

 そうした、「弱者を蹴落とす」理論を一蹴した上で、著者はもっと高度なことを私達に突きつける。
 生命体として全体の利益のために自分の「我儘」を抑えることを要求さえしているのだ。他者を尊重し、利他的になるというのは、自分の欲だけに目を向けず、全体の流れを見極めることだからである。
 そう考えると、トマス博士の要求する愛は、お菓子のような甘ったるい愛とは相当に異なる概念であるということが理解できる。
 

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 正直なところ、何年か前に本書を読んだとき、私はトマス博士の心境があまり良く理解できなかった。

 本物の偽善(おかしな表現だが)と、「真実」の区別が自分の中ではっきりついていなかったためである。
「高尚なことは全て偽善」という幼稚な心理に陥っていたのかもしれない。

 いわゆる偽善とは、表面上の平等を構築することによって、真実の均衡をぶち壊す行為である。こうした「公正さ」を求める人の心理には、実のところは、潜在意識レベルに広大な差別意識が潜んでいることが多い。その差別意識を押し隠すために、見た目の公平という膜で全てを包み込んでしまおうとするのである。

 トマス博士のいう、「人類愛」がこうした表面的なものとは異なり、個人レベルと文化レベルの多様性に基づいた公平性についてであると気付いたのは、今回が初めてであった。
 もしかすると、恥ずかしい話だが、ほんの少しだけ私が成長したのであろうか?
 
 何も変わらない平凡な日常の中で、ゆっくりと自分の中でこの言葉を受け入れる下地が出来上がってきたのだとしたら、自分の内部で確実に時が流れているのだとしか言いようがない。

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 本書は、トマス博士の複数のエッセイを集めたものである。
 
 この中で私が一番興味深かったのは、
 ICSS(Intracranial Self-Stimulation 脳内自己刺激)に関するトマス博士の考察である。
 トマス博士は複雑なことを単純化して考える研究態度を、本書の中のエッセイのひとつ「脳と快楽」の中で暗に戒めている。

 人間の脳の働きとして「快楽」というのは、長らく認められてこなかった。
 快楽というのは、痛みなどの「不快」の反対の状態と考えられ続けてきたのだ。
 1960年代後半から、アンフェタミンなどの麻薬性物質の研究などを通じて「快」というものが、不快の対義語ではなく、独自の「中枢」をもつ独立の感覚と考えられ盛んに研究され続けてきた。

 それに伴い、「これが脳内の”快“の中枢である」という現在では否定されている研究成果が次々に発表された。

 現在では、「快」というのは、麻薬性物質を含めた単一の物質に依存するものではないし、脳内の特定の部位の活性化を意味しない、ひとつの複雑なネットワークであると考えられている。
 その機構全体を表すのが、「脳内自己刺激(ICSS)」という概念だ。
 この単語は、こうした研究を行なううえで、「快」という言葉に代わって用いられている。

 もともとが、人間の複雑な機能を解析する研究というのは、部分的なものを基盤として発展するしかない。個々の機能の相互関係というのは一種のブラック・ボックスであるから、「まずわかること」をひとつひとつ考えるしかない。
 
 しかし、それが行き過ぎると、本質的なことを離れて「刺激−反応」のような単純なシェーマを描くのが目的になってしまうことがある。

 確かに、一見複雑なことがごく単純な説明が可能であることもあり一概には言えない。
 だが、部分的なことが分かったに過ぎないのに、まるでそれが全てであるかのように考えるのはもってのほかである。

 「結果」を求めるあまり真実のまわりを単にぐるぐる回るだけで、いっこうに核心に近づかない物の考え方というのは確かにある。何となく、それらしいことでお茶を濁し続けるだけでも、研究というのは成り立ってしまう。

 一時流行した、単一の麻薬性物質=快感のような考え方や「快楽中枢が存在する」という仮説は、すっきりとしているし、誰にでも受け入れやすい。
 しかし、人間が、「快」を感じるためには、複数のファクターがある。
 しかも、私達が総体としての幸福を感じるためには、されにそれらが組み合わさらなければならない。

 おそらく、トマス博士は、「複雑さから逃げてはいけない」という要求を私達に突きつけているのだ。
 これは、中々厳しい要求である。

 平等にしろ、人間の心にしろ、真実は恐らく単一の要素からは成り立たない。
 恐らくこれらのエッセイを通じて、偉大な医学者が私達に伝えたかったメッセージは、そのようなものであるかもしれない。

 「向こう側」に行くための透明な壁は、空気のようなものではない。
 まるで一見透明であるのに、ゲル上の固体であり、そこを突き抜けるのにはかなりの困難を要する。
 そこにたどり着いて、決して「陳腐」でない愛を見つけるのは、やはり素晴らしいことであるのは間違いがない。


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