記憶は嘘をつく

 もしあなたが大切に心にしまっている人生の出来事がありもしない「嘘」の出来事だったらどうだろう。
 もしくは、本当は重大な影響を人生に与えているはずの出来事をすっかり忘れていたら?
そんなことを言われても、ほぼ100%の人が「あり得ない」と否定するであろう。
「だって、私はそれをはっきり覚えているのだから…。」

 この本の骨格は、人間の「自伝的記憶」つまり「思い出」の信憑性を検証することにある。
 筆者のジョン・コートル博士は、こうした自伝的記憶を研究している心理学者である。本書は、この自伝的記憶を中心に、「何故私達の思い出が別のものにすりかわってしまうのか?」という理由を「記憶」という現象のあらゆる側面から捉えた本である。

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 別の視点から考えると、記憶が薄れてしまうのは何故だろう?

 かなり大きな人生の出来事も、例えば友人のの生死といった出来事ですら、他の出来事と関連付けないと正確な年月日を思い出せないのが、私達の普通の記憶である。
 例えば、「あれは私が大学三年のある夏の日であった…」という風に。

 私達の人生のストーリーは、何かエポックメーキングな出来事(例えば学校の入学や卒業、家族の誕生や死、結婚、あるいは戦争や天災など外部の歴史的出来事)を基準点に記憶されている。
 つまり、その事件の「前か後か」「何年位その出来事の前か後か」という視点で把握されているのが普通である。

 つまり、ごく普通の人なら、自分の一生を履歴書に書く年表のように、時系列的に羅列的に捉えているということはありえない。
 「中心的な出来事を核としたひとつの単位」として捉えているのが普通である。勿論、それらの出来事の塊はは相互に重なり合いながら、全体として私達の人生という集合体を形成しているのである。

 こうした単位は、勿論事件ではなく、キーワードを核にする場合もある。
記憶の塊が、ひとつのキーワードを核として、時系列を飛び越え、子供時代から大人になるまでありとあらゆるそれに対する出来事が重なり合って集合をつくる場合もあるという。

 私達の人生というのは、こうした違う要素を核とした記憶の塊が多重的に重なって出来上がった一種のカオスのようなものらしい。

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 ところが、ふとしたきっけかけで、それらの塊が脱落してしまったりすることは日常茶飯事であるらしい。つまり、とある「事件」全体の記憶が脱落したりすることは、私達にとってごく普通のことである。
 自分の意志に関わらず、はからずも他人から見て「嘘」をついてしまうということは十分にあり得ることなのだ。
 この場合、他人の方の記憶が脱落したり塗り替えられている可能性もあるわけだから、本当に複雑だ。

 それほどひどくなくても、私達はやっぱり「忘れる」。
 私達の記憶というのは、それぞれの単位ごとに「抽象概念」として名づけられたエピソード単位の記憶になっている。
  例え、その「記憶の集合体」が抜け落ちていなくても、その単位を構成している、個別の細かい記憶は抜け落ちてしまっているのが普通であるのだ。

 「お母さんの料理はいつもおいしかった」
 「その中でも特に○○と△△がおいしかった。」
というこころまでは誰もが記憶できる。
 「19××年の○月△日に、お母さんがつくってくれたメニューは何ですか?」
という問いに答えられる人はいまい。
 記念日でも何でもない、数年前のある日の詳細な料理のメニューを思い出すことは出来ないのだ。

 小学生の時に、どんな遊びをしていたかは覚えていても、友達の名前を全部思い出せないということは、しばしばある。例え覚えていたとしても、子供の頃○○ちゃんと××という遊びをしたのは何年何月何日?と尋ねられて正確な日付をいえる人はいないであろう。

 こうした日常を彩る些細な個別の記憶を「一般的記憶」と言う。
 私達の人生の自伝的記憶の中では、これらは孤児のような存在であると著者らは述べている。
 つまり印象的な「具体的記憶」の蔭に隠れて、跡形もなく消え去ってしまったように見えるのが普通であるらしい。
 いわゆる「既視感(デジャ・ビュー)」というのは、何かの拍子にこの「一般的記憶のスクリプト」が活性化して起きる現象である可能性があるという。


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 良く知られているように、偉人達の自伝には嘘が多い。
 恐らく、自らの人生を故意に脚色しようとしている場合もあるだろうが、単純に記憶が塗り替えられてしまっている場合もある。こうした偉人と呼ばれる人の特徴として、ある程度、意志の力で自分の人生をコントロールしてきたというのがある。
 そうした人の心情として、自らの過去を故意にしろ無意識にしろ、都合の良いように塗り替えてしまいたいというのは当然のものなのであろう。
とかく、偉人の生涯というのは、本人によって語られた自伝ではなく、後年、 別の人によって著された伝記であっても「こうであるに違いない」という正負両方の願望から、必要以上に持ち上げられたり、貶められたりといった「神話」の類が事実に混在しているのが普通である。

 しかし、偉人でない私達の人生も、実はこうした多くの「神話」に彩られているといったらあなたは驚くだろうか。
 私達の人生のエピソードは、「こうあって欲しい」もしくは「そんなはずはない」という思い込みによって、脚色されたものであるのが、むしろ普通のことなのだ。
 そして私達の「心の傷」もこれらの記憶を塗り替えてしまう原因となる。

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 自分には全く覚えがないこと、例えば小さい頃のささいなエピソードなどを、他人から「そうだった」と言われたことがある人は多いだろう。
それが、ささいなことであればあるほど、普通は思い出せないものである。

 しかし、それが「絶対に忘れるはずがない」重大なことであった場合、相手と自分の記憶のどちらが塗りかえられているか?ということが大きな問題となることもある。
 例え、どちらも故意に嘘をついているわけではなくても、そうしたことは起こり得る。あんまりこうしたことを考えると、ヒッチコックの「サイコ」の世界みたいで恐ろしくなってしまうが、記憶というのは、それ位曖昧なものなのである。

 こうした自伝的記憶を調査するためにマリゴールド・リントンという心理学者が用いたエピソードカードを使った自己分析研究という方法がすさまじい。
 リントン博士は、12年間の間、毎日の出来事を少なくとも二つづつカードに記載した。
 そして、二ヵ月後にその出来事に関する「記憶テスト」を行い、その日常的な出来事をどれくらい覚えていたかを確認したという。
 その上、まるで図書館のように、数ヶ月ごとに、そのカードを内容別に項目別(仕事、交友関係など)に分類した。そうした手法を用い、その分類した項目に関し、極めて印象的な出来事以外は、月日を経るにつれて「確かに忘れていく」ことを確認したという。
 物凄い力技の研究である。

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 こうした曖昧な記憶とは別に、どんな人にも、「自分の人生にとって最も大切な記憶」あるという。それは自分が自分であることを意味づけるような、最も誇らしかったり嬉しかったりする人生の記憶である。
 自分の仕事の成果が表彰された日、愛する人に出会った日、それは本当に人によって様々であると思う。
こうした自己を定義付けるような美しい想い出を「中核的エピソード」と呼ぶ。
 それは、私達の「生きていく理由」になる出来事である。
 恐らく、それらは私達の心の中でより美しく鮮やかに塗り替えられているかもしれない。しかし、美しい思い出はより鮮やかに、そうでない想い出はぼやけてしまうことこそが、人生を楽しく過ごす秘訣なのかもしれないのだ。

 ところで、「どんな出来事が中核的エピソードであるか」ということにより、その人の性格が分かるという研究もされているらしい。
 権力志向の強い人では、「名声」「何かを手に入れたこと」などを自己の核として挙げる場合が多く、内省的な人は「愛」「子供の誕生」などを挙げるということが多いという。

 その中核的エピソードが対立や憎悪といったネガティブなエピソードに彩られている人もいるという。それは、もっと相当なレベルで権力志向が強い人に多いらしい。
 こうした憎しみや対立の構造で人生を捉える人に関しては、
 過去のブログテストステロンでも考察した。

 憎しみが生きていく理由になる…のだけは個人的には是非避けたいと私は思っている。
 


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