私はタバコを吸ったことがないので、全くその感覚は分からないのだが、喫煙者の方は
「タバコを吸うと頭が冴える」
とおっしゃる方が多い。
 逆に、彼(女)らの言い分は、タバコを吸わないと頭がぼんやりするのだと言う。
 
 1995年にYates という科学者が、ニコチンに感作したラットではそうでない群に比べて、脳内の有意にニコチン作用性アセチルコリンレセプター(nicotinic acetylcholine recepter : nAChR s)が増加するという論文を発表した。

 ところが1996年、それに加えて、大きな議論を呼ぶ論文が、最も権威のある科学雑誌「ネーチャー」に発表されたのだ。
その要旨は
喫煙によるニコチンは脳の海馬のnAChRに作動して記憶力を高める
というものである。
 近年、肩身の狭い喫煙者が俄然、色めき立つような論文である。
 ところが、これには喫煙者をがっかりさせる大きな落とし穴があった。

 「喫煙はもともと頭が悪い人の知能を向上させ、もともと頭の良い人はニコチンを必要としない」可能性があるという研究結果もあるのだ。
 それは簡単にいうとこのような実験である。
 脳のnAChRのβ2サブユニットを破壊したマウスとそうでないマウスを作成し、それぞれをニコチンに感作させた。そうすると、当然ながら、ニコチンに対する受容体が壊れている前者のマウスでは、タバコを吸っても知能には何の影響がなかった。ところが、ニコチンの受容体が存在しているマウスでは、タバコを吸うと知能があがったのである。

 ここで問題なのは、nAChRのβ2サブユニットを破壊したマウス(つまりニコチンに対する受容体が壊れているためにニコチンの効果がない)マウスは、nAChRが存在するマウスに比べ、最初から知能が高かったという事実なのである。。
 つまり、ニコチンが必要がないマウスは必要としているマウスより元々賢いためあらためてニコチンを必要としない、という見方が出来るのだ。
 この研究からいうと、「ニコチンを取り込む受容体が存在しない方が頭が良い」ということになってしまう。
 
 何だか、マイケル・クライトンの
ジュラシック・パークの最後の一節で、恐竜が自分に足りない栄養分を含んだ食べ物をむさぼり食べているシーンを思い出してしまうような結果である。
 つまり、これはどんな「中毒」でも同じなのだが、ある物質に関して長期にさらされると、それなしではいられない体(しかも脳のレベルで)になる可能性が示唆されるのである。

 このβ2サブユニットのノックアウト(遺伝子を除去した)マウスの研究に関しては、先日のブログで紹介した遺伝子が病気をつくるという書籍に、極めて簡潔に概略が紹介されているので、入手可能な方は、読んでみていただきたい。
 石浦博士はこの本の中で「メディアの中で発表されるのは研究全体のごく一部分を大きくとりあげて拡大解釈したものが多い」と釘をさしている。
 タバコという点をとっても、これだけ多彩な観点から検討しないとものが言えないのだ。ひとつの結果で、短絡的にその物質を持ち上げたり否定したりするのは、いかに愚かなことか痛感される。

 ところで、ここで多少知識がある人なら
 「それはおかしい」とここまでの私の文章に疑問がわいてきたはずである。
 それは、加齢やアルツハイマー病によってアセチルコリン受容体が著明に減少する、という事実があるからである。


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 確かに近年、アルツハイマー病の人には、喫煙者が少ないのではないか?という調査結果がいくつか発表されている。それに呼応して、「ニコチンを痴呆の薬剤として使用できないか」という論文も多く見られている。
 しかし、残念ながら、薬剤として使用するならともかく慢性的なニコチンへの感作は、逆にアセチルコリン受容体を不活性化するという説もあり、長期的使用(つまり喫煙習慣)に関しては、懐疑的な考えをもたざろう得ない。

 しかもここで、「アルツハイマー病(AD) では喫煙者が少ない」という研究自体にも、大きな疑問を差し挟まなくてはいけない。
 その理由はふたつある。
 喫煙者は、早く死亡するという点と、別の意味での認知症(痴呆)の原因となる可能性がある点だ。

 狭義の若年発症のADならともかく、「老年性アルツハイマー型痴呆(認知症)」の場合は、まず第一に、「その年齢まで長生きした」ということが必要とされる。
 つまり、ニコチンというのは、肥満とそれに関連した生活習慣病(高血圧、高脂血症、糖尿病)と並び、動脈硬化の大きなリスクファクターである。
 したがって、それにより脳卒中、心筋梗塞などの疾患を引き起こす。
 これに関しては過去記事デブの帝国―いかにしてアメリカは肥満大国となったのか で考察した。勿論、肺癌の大きなリスクファクターであることはいうまでもない。
 つまり、タバコを吸う人は、知能の問題を抱える前に死亡してしまう可能性が高いということがまず一点ある。
 
 しかも、動脈硬化が原因となる「多発梗塞性痴呆(認知症)」などの他の認知症では、ニコチンというのがむしろ大きな原因になってしまう可能性があるのだ。認知症の原因は、アルツハイマー病のような変性疾患だけではないのだ。
 従って、別の原因での知能低下の原因となる可能性が大であるのだ。 
 こうした「エイジング」が関係する研究の難しさは、あちこちにこうした地雷が潜んでいる点であろう。

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 ところで、別の視点から見ると、喫煙習慣(つまりニコチンへの感作)は、ドーパミンを分解するMAOB(モノアミンオキシダーゼB)という酵素を著明に減少させる働きがあるということがかなり以前から知られていた。
 つまり、タバコを吸うと、脳内のドーパミンが増えるのだ。
 ドーパミンを分解する酵素のうち、もうひとつのMAOAというのは、欠損すると「粗暴な性格になる」ということが知られているが、MAOBはそれとは関係ない。
 タバコは性格に関係ないということになるので、ひとまず安心な結果である。
 ところが2001年になってBerlinというフランスの研究者が、
「喫煙者ではこのMAOBとMAOAの両方が著明に減少する」
という新たな結果を発表したのだ。
 仮説として、「喫煙者といらいらしやすい性格」という科学的な理由が存在している気配が濃厚になってきたのである。
 
 良く映画やドラマで、タバコに何本も火をつけてはもみ消して、イライラと何かを待っているシーンがある。イライラするからタバコを吸うのか?タバコを吸えばイライラが解消するのか?実はしないのか?
 そうしたことも今後の研究課題であろう。
 もし、ニコチンによって、仮に「怒り」というのを生じやすいということになれば、タイプA性格(心血管系の疾患のハイリスクとなる攻撃的な性格)とも関連が出てくる可能性もあるということになる。
 すると、ますます、喫煙=短命ということにつながりかねないのだ。
(しかし、日常レベルで喫煙者がさほど短気だという気もしないので疑問を感じないではないが…あまり偏見助長の片棒をかつぎたくはない)

 ところで、このドーパミンという物質は、過剰であるとSchizophreniaの原因になり、過少であるとパーキンソン病の原因となる。
 パーキンソンの初期の治療でドーパミンの使用のコントロールに困難を極めた話は、以前のブログレナードの朝で書いた。ドーパミンの副作用の主なものとして、興奮や幻覚などの精神症状があるのだ。
 確かに、パーキンソン病では喫煙者が少ないというのは以前から多くの研究で示されてきた。繰り返しになるが、ニコチンによって引き起こされる病気の方が数が多いので予防のために喫煙をするのは無意味だと思われる。
 
 近年になって「逆も真なりであるか?」という観点から、Schizophreniaにおいては、喫煙者が多いのではないかという論文が見受けられる。2005年になって、Rialaというフィンランドの研究者もそれを支持する長期の研究結果を発表した。
 勿論、過去には「そんなことはない」という論文もあり、こうした多因子によって起こる疾患を単一なファクターで切り捨てることがいかに危険であるかが理解できる。
 また、逆にSchizophreniaの患者さんにニコチンを投与することで、症状が改善するのではないかという論文も見受けられる。「つまり、吸わずにはいられない体質なのではないか」という見方である。これらに関してはまだ研究途上であろう。

 こうした研究結果は、どれも疾患自体が深刻なだけに、新たな科学的知見が得られることで、まるで「魔女狩り」のように何かが悪者にされたり、逆に、救世主のように祭り上げられたりする危険性があることである。
 本来「差別」と科学的事実というのは、まるきり無関係であるはずなのだ。
 私達はいつもで象の体の一部しか見ていないことを忘れてはいけないのだ。

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 難しいことはさておき、明らかなことはひとつある。
 この世の物質は「体に良い、悪い」でまっぷたつに分けられるものではない、ということである。つまり、過剰であっても過少であっても害をなすのが普通であり、私達の体はホメホスタシス(恒常性)を保つことが一番大切なのである。

 また、ニコチンが良かろうと悪かろうと、火の付いたタバコを繁華街で振り回しながら歩く、「歩きタバコ」はやっぱり危険行為であるように思う。子供の目線の高さに火の粉を飛ばすし(以前、それで失明したという事件があった)他人の衣類や鞄に焼け焦げをつくる可能性もある。
 誰も通っていない畑の一本道ならともかく、繁華街のの混雑したエリアで、歩行喫煙者を避けて歩くのはかなり難儀であるのだ。
 これはニコチンの害云々というより、「煙」「火の粉」「灰」を人にかけるのは危険だという観点からの考え方だ。
 そういうCMありましたよね?
 タバコは、落ち着いた場所で吸うにとどめた方が、どう考えてもかっこいい。お洒落なバーとか、自分の書斎とかで…。
 
 TPOが大切なのは、物質だけでなく、人間の振る舞いもどうも同じであるようだ。


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