How and Why We Age :Leonard Hayflick著(洋書)
   
   人はなぜ老いるのか−老化の生物学−     
    レオナード・ヘイフリック著 今西二郎・穂北久美子訳
    三田出版会 ISBN4-89583-162-0
   (邦訳版は絶版ですが図書館等には置いてあることが多いです)
 
 著者のヘイフリック博士は、有名な「ヘイフリック限界」の発見者である。
 ヘイフリック限界とは、「哺乳類(と一部の下等生物)の培養細胞は50回の分裂を繰り返した後に死ぬ」という理論である。
 
 この理論のあらましは以下の通りである。ヒトであれば46対の染色体のそれぞれ末端にテロメアと呼ばれるTTAGGGの数千回の繰り返し配列がある。その繰り返し配列が細胞分裂をする度に短くなり、分裂出来ないほどテロメアが短縮したとたん、細胞が分裂できなくなり寿命が尽きる。
 つまり、細胞の老化とはテロメアの短縮であるという理論なのだ。

 培養細胞のレベルであるが、「ヒトの細胞は必ず寿命が尽きる」という理論の確立した大変重要な発見である。
 本書は、このヘイフリック博士自らが、「老化」に関する研究を総括したものである。

 「老化を恐れる女性」というのは、数々の映画や小説で揶揄や皮肉の対象となってきた。
 しかし、現代においては、性別を問わず、「若さ」というのがその人の「商品価値」になってきて久しい。かつては「長老」というのは尊敬されていたが、「目上の人の知恵」より「年下の人の感性」を吸収したいという大人は増加の一途をたどっている。
 本来は、年齢を重ねることで、「包容力と人間性」に憧れてもらおうという気持ちで泰然とするのが理想的な状態であることは間違いがない。
 ところが、現代では、男女を問わず、「若さ」に固執する人が増えた。

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 それは現代では、「長寿」ということが希少価値でなくなり、人間という存在がディスポーザプルな存在になっているからである。私は、周囲を見渡してふと気付いたのだが、メディアのイメージと違って、「若さ」にこだわるのは、もはや男女の別によるというより、個人の価値観の違いが大きいような気がしてならない。

 つまり、ステレオタイプな「容貌の衰え」を気に病む女性と受け入れる男性というような構図はもはや存在しないということだ。女性でも、あるがままの自分を受け入れている人も多いし、男性でも若さに固執する人も多く見られる。

 アスリートたちは、普通人生のピークがごく若い年齢にくる。
 しかし、その他の肉体と関係のない職業では「思考力」や「統合力」が大切である、50、60代位の人がもっとも組織の頂点に立つというのが今までの在り方であった。
 ところが、現代は、まるで全員がアスリートのように「より若く」ということを求めるようになってしまったのだ。

 こうしたことは、現代に突然著明になった老人差別(ageism)という概念と無関係ではあるまい。
 突然、会社をリストラされた中高年の男性が「いままでの経験を高く評価」され、年齢のために再就職が有利になるなどということはあり得ないのである。
 これほど冷酷な時代がいまだかつてあっただろうか?
 それは「ビジュアル」ということが商業を支配していることや、人々がそれに伴う幻想を過剰に求めることとも無縁ではない。


 だからといって、何か新たな問題が生じるために「○○差別」という言葉が出現することに対しては、私は何だか腑に落ちない気持ちを禁じえない。
 確かに、現代では「歴年齢」というのは、未だかつてないほど、人間にとって大きな価値をしめている。過去の時代には、自分の生年月日すらはっきりとは知らないというのが普通の時代もあったのだ。

 しかし、老化というのは、「有限である生命をどのように受け入れるか」という大きなテーマとして捉えなければいけない概念である。安易に「差別」という言葉でくくってしまって良いものであろうか?
 この差別という言葉は、それを用いたとたん、あらゆる議論が停止してしまう危険な概念であることを忘れてはいけない。


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 確かに、「何も知らないほんの若造」が、ロクな判断基準もなしに目上の人を物笑いにしたりすることは、見聞して気持ちの良いものではない。こうした人々というのは、「自分もいつか老いる」ということをすっかり忘れているとしか思えないのは確かである。
 だが、元々は、次の世代に時代を「譲る」包容力こそが、かつての長老が尊敬を集めていた理由である。いつまでも「不老不死」を願い、下の世代に「嫉妬」しているようになってしまったら、自らも幸せではないし、世代間の対立は深まる一方である。

 ところで、「歴年齢への過剰なこだわり」は、ある大切な科学的事実を無視している。
 歴年齢というのは、その人のエイジングの指標ですらないのだ。

 先日、テレビのニュースを流しながら、料理をしていたところ(村上春樹の小説の主人公みたいだが)、興味深いニュースのフレーズが耳に飛び込んできた。
「○○にて、20歳から40歳くらいの女性の死体が発見されました。警察は殺人事件と見て…。」
 実生活で、20歳と40歳の人間の区別は、男女を問わずかなりはっきり分かると思われている。しかし、こうした「事件」のニュースに注意をすると分かることだが、この手のニュースというのは、大体この調子である。
 しかし、実際のところ、肉体の年齢というのは、この位個人差というか、幅があるものなのである。

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 本書では、この歴年齢と生物学的年齢のずれを「時計の進み具合が個人によって違う」と表現している。
 この生物学的年齢と実年齢の違いは、端的に言うと、年齢が高いほど大きなずれが生じてくる。先ほどの「年齢により上手に枯れる」ことの大切さを考察したことと矛盾するようだが、それは事実である。

 本書にもあるように、「80歳でも生物学的年齢が50歳位の人もいる」し、その逆もいるのかもしれないのだ。
 驚くべきことに、ボルチモア縦断老化研究(BLSA)によると、80歳代の人の何人かは40歳なみの能力を示したという。
 
 もし、真の「エイジ・デバイド」とでもいうべきものが極限に達し、公平を期するために、こうした生物学的年齢を正確に測定するシステムが出来上がったらどうなるであろう?「何でも公平に測定し、それを基準に評価しないと気がすまない」人には喜ばれるかもしれないが、殆どの人がそれを受け入れたいとは思わないだろう。

 ちなみに、BLSAによると、専門家ですら歴年齢と生物学的年齢をマッチングさせることは出来なかったという。「情報としての先入観」としての年齢は、個別の人間を判断する上では無意味であるのだ。
 それに、もう一つ重要なこととして「見た目の若さ」と実際の生物学的年齢はあまり関係がなさそうなのである。
 それに加え、体内の「時計」はひとつではなく、臓器によって加齢が違う可能性すらあるというのだ(この点は、かなり受け入れがたい事実である)。

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「年齢と共に精神的な成長を遂げる」というのは、恐らく、「何歳になったからあきらめる」とは全く意味合いが異なることであるのだ。肉体が若くても精神が老成している人もいるし、その逆の人もいる。私が言いたいのは、肉体の若さに固執するあまり、精神の成熟を拒否することの愚かさについてなのである。
 不思議なことに、「精神が幼若なまま」だと肉体が早く老いてしまうことすらあるのかもしれないのだ。その逆に器の大きい人は、高齢になっても若々しい。

 「長寿」「健康」というのは、幸福の象徴のような言葉である。しかし、残念ながら「長寿」と「健康」とはどちらかというと矛盾する概念である。確かに現代人は長寿を手に入れているが、同時に健康を手に入れているとはいい難い。
 つまり、現代では「長寿」というのはポジティブなイメージよりも、「老化」「病気」「能力の衰え」といったネガティブなイメージとセットになっている。
 医学は、人間を長く生かすところまでには到達したが、その質的な点に関しては未だに問題を山積したままなのである。
 
 本書が強調しているのは、正常な老化というのは、「老齢による病気」とはっきり区別しなくてはいけないということだ。あまりにも長寿が浸透したために、これら二つは確かに混同されがちである。正常な変化は、決して「病気」ではない。しかし、人々が撃退しようとしているのは、「老齢による病気」ではなく「老化そのもの」であることが問題をややこしくしているのである。

 こうした研究で最も大切なのは、統計学的な平均値(一般論)と、個体差というのを同列に論じないことであろう。

 例えば、「○○歳以上になると、死亡する確率が×倍に増えます」という統計は多い。ある統計によると、30歳を超えると7年ごとに死ぬ確率が2倍づつ増える。これは、加齢によって病が増えるということのみならず、加齢による注意力の低下による事故の増加などを包括した総合的な結果として起こる。
 この注意力の低下は、は勿論、難聴・瞬発力の低下や動作の緩慢さなどの肉体的なものと知能面の判断力の低下の両者から来る。
 しかし、これによって、ある個人に対して「この人は死亡する確率が高い」と断定するようなことは愚かである。

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 生物学的年齢のことを持ち出すまでもなく、公衆衛生学的な全体論を持ち出すことが最も似つかわしくない分野が「加齢現象」であるのだ。
 アメリカ人である著者が、最も警笛を鳴らしているのが「65歳老人説」というべき、珍妙な考え方である。この考え方は、ドイツのビスマルク首相が発端になって起こった考え方であるという。ヘイフリック博士は「65歳の鐘とともに、一律に全ての人が老人になるはずがない」と警告する。

 私達の誰もが、年齢が幾つであろうと、こうした「○○歳の鐘」に支配されて生きているのが現代である。二十歳の鐘、三十歳の鐘、四十歳の鐘、五十歳の鐘…という風に、ある日付とともにまるでシンデレラのように夢を置き去りにして、走り去らなくてはいけないと信じている人が多い。

 例え、その人が信じていなくても、「周囲が許さない」ということもあるのかもしれない。
 反語的表現になるが、こうしたことに対する「強迫観念」こそが、過剰に若さを求める最も大きな原因であるのだ。
 遊牧民の老人のように「自分の年齢」を知らなければ、かえってありのままの成熟を受け入れられるのかもしれないと私は思う。

 そうしたことを踏まえた上で、私達全員が悟らなくてもいけない生命体としての真実がある。老化というのは、本来動植物を問わず、私達の体内にプログラムされているのだ。
 その時計の進み具合は、種によっても異なるし、同じ種の中でも個体によって異なる。
 だが、「樹齢数百年の大木」はあっても、人間の寿命は、やはり115年くらいが限度なのである。自分の大切な肉親のことを思い浮かべるとき、このことは多くの人の心を切なくさせる。
 自らと愛する人の老いと死をいかに受け入れるか?とうのは現代の教育(学校教育という意味ではなく、人生学としての教育)に最も欠けている視点であるのかもしれないと思う。

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 本書の巻末に、「老化を遅らせる」ために過去に人間が試みてきたあらゆる手段が紹介されている。
 これはまさに我々の精神性のカリカチュアだ。

 錬金術(勿論効果なし)、ヨーグルト(効果の証明なし:これは20世紀初頭に微生物学者のメチニコフを発端としている)、細胞療法(いわゆるヒトや他の動物の胎盤を用いたいわゆる“プラセンタ”療法。1940年にロシアの科学者が行ったのが最初か?これは拒絶反応の関係から、現在米国では禁止されている)、不妊療法(男性に不妊手術をすることにより老化を防ぐ。勿論効果がない)、プロカイン療法(効果なし)。
 
 現代において、老化を遅らせることが証明されているほぼ唯一の方法は「十分な栄養を確保した上での低カロリーの食物摂取」であろう。
 何だか、拍子抜けがするほど「つまらない」結果である。
 科学というのは、いつも「わくわくする」結果を導き出すとは限らないのだ。

 こうした商業主義に対して、科学者としてのヘイフリック博士が、いかにこうしたことを嫌っていたのかを著すのが以下の激しい一文である。


 老化研究が遅れている三つ目の理由は、この分野が、老人の虚栄心、老いに対する恐れ、あるいは、老人の無知につけ込み、守ることの出来ない契約をしてお金をだましとる、ふとどき者の手から長い間離れずにいたことである。科学はペテン師やならず者に取り込まれている間は発展しないものである
   (レオナード・ヘイフリック “人はなぜ老いるのか”より)


 人類は、いかに若返るかに全精力をつぎこんでも、
「いかに上手に老いるか」にはこれっぽっちも関心を示してこなかったのだ。

 上記の物言いは、実際に、人生の大先輩が読んだら「差別だ」と怒りを感じるような書き方であるかもしれない。
 しかし、博士は「老化」ということに敬意を表し続けている研究者であり、ご自身もものすごく若いとはいえない年齢(68歳)の時に、研究の集大成として本書を出版している。
「こうした研究は商業主義に毒されてゆがみやすい」
ということが言いたかっただけなのである。
 むしろこの「老人」というところを「人間」と置き換えて読んだ方が、私達の生態をより良く現しているのではないだろうか?

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 最後に「世代」という言葉についての私見を述べる。
 年金問題などの不公平性などを基盤に、わが国では安易に「世代間の対立」などが語られることが近年散見されるようになった。
 しかし、私自身も含めて、この世代という言葉はあまりにも安易に使われているのではないのだろうか。

 悠久の歴史のなかで、例え今10歳と80歳であろうと、この地球の時の流れの中で、一時期同じ空気を吸った接点があるということは大きな視点からみると「同世代」なのではないかという気持ちが最近強くなってきたからである。
 同じ時代に生を受けて、意見を交し合うことが出来る。
 それは、本当に奇跡的なことなのだ。
 ましてや10歳や20歳の違いで対立の構造云々なんて馬鹿げているような気がしてならない。
 どう見ても、この程度の違いは、歴史的視点では「同じ時代を生きた人々」と捉えて構わないのではないだろうか。

 こうしたブログの文化で、フィルターを通さない人々の生の意見を知る機会が増えると、人間の同質性は、年齢の違いではなく、もっと個別的なもので括られるよう部分も多いからだ。
 少なくとも「同い年の同性」なら絶対に分かり合える、というような安易なものではないような気がしてならない。


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