記憶は、どの程度正確でどの程度不正確なのだろうか?

以前書いた記憶は嘘をつくという書評テーマの続報です。 
 
  1949年というかなり古いサイエンス誌に発表された論文によると
「催眠術によって、子供の時代の特定の年のクリスマスの曜日をを82%の人が正確に言い当てた」ということである。
 つまり、私達の誰もが、「普通は忘れてしまうような特定の日付の曜日やたまたま見かけた車のナンバーなどの記憶を脳のどこかに知らず知らずのうちに保管しているという可能性があるというのがこの論文の趣旨である。
 そして、何かの拍子(この場合は催眠)により、それがよみがえる可能性が示唆されたのだ。

 しかし、これに反するデータもある。
 無意識下では、特に「記憶が塗り替えられやすい」というデータである。
 催眠術で暗示をかけることにより、偽の記憶を植えつけることが可能であるという。
 しかも、例え暗示をかけなくても、催眠術下では事実とフィクションの区別が付きづらくなるという。
 
 それに加え、無意識下ではなく、はっきりと覚醒した状態でも、日常的な記憶は後に与えた情報により極めて改ざんしやすいものであるという。
 鮮明な記憶ほど真実とは限らない。
 細部が誤っている記憶でも本当であることがある。
 むしろ、はっきり覚えているからといって、「本当」であるとは限らないのだ。

 こうした偽の記憶に関する研究は、1932年というかなり昔に、バートレットらが有名な、「記憶は再構成される」という学説を発表したのが最初である。
 これが現実の世界に取り上げられた有名な事件として、
記憶は嘘をつく
の著者は、1973年の「ウォーターゲート事件」を挙げている。
 それによると、この時に証言に立った、ディーンという人物は、わざわざ「私の証言はテープレコーダーのように正確です」と語ってから証言を始めたという。

 ところが、実際に、ディーンと事件の当事者のニクソン大統領の会見の時にテープレコーダーが回っていたという事実が後に明らかになった。
 そこで、ディーンの証言とテープレコーダーの内容をつきあわせたところ、ディーンの証言の多くが「再構成」された、つまり自分の都合の良いように組み替えられた記憶だということが明らかになった。
 しかし、勿論、彼の証言の大筋「ニクソンが事件のもみ消し工作をした」という事実自体は正確であったため、この証言は証拠として採用されるにいたったという。


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 これに関する別の研究も多数あるということだ。
 クレイグ・バークレイという心理学者の研究の手法は以下のようなものである。
 学生に週に15件の出来事を4ヶ月間、合計250件記録させる。
 その後で、実際に学生に自分が記載した記録と、バークレイが記載した「偽の記録」を見せ、どれが本当であったかを判定させた。
すると、学生は記録を見ながら、これは自分の記録かバークレイの記録か相当迷ったそうである。
 しかし、さすがに90%の学生が、自分の記録を本物だと判定できた。
しかし「偽の記録」に関しても、50%の学生が「自分が書いたもの」と認識してしまったということである。
 バークレイの「偽の記録」があまりにも日常的でいかにもありそうな出来事ばかりであったため、学生は判断に困ってしまったわけである。
 いかに私達の記憶が、ささいであればあるほど「塗り替えられやすい」ものであるかが分かるであろう。

 また、アメリカのとある大学で、1986年の「チャレンジャー爆発事故」の事件を何で知ったのかを学生に書かせて提出させ、約三年後に同様の質問をしたところ、約7%の学生しか最初と同じ回答をしなかったという(注:この研究に関しては、しばらく経った後でも事件を知った経緯を殆どの人が正確に覚えていたという全く逆の研究結果もあるという)。

 「あの子可愛いね」「あの人は立派な人だ」という評判が立つと、そうでもなくても段々そうした気がしてくるというのは、ありがちなことだ。
 人間の心理といいうのは他人の考えによって容易にぐらつきやすい。
 しかし、そうした現在の気持ちといったことを超えて「自分の過去の記憶」までが、後から取り込まれた情報によって完全に変化してしまうのだ。

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 これにより分かることは二つある
 つまり、嘘をつく意志があろうとなかろうと、人間の記憶は、特に細部の部分や感情がからむ部分では、自分というフィルターを通して再構築されたものなのだ。
 むしろ「私の記憶は曖昧なのですが」と考えているほうが、正確なのだ。
 もう一つは、細部が誤っているからといってその記憶の全てが嘘であるとは限らないということだ。

 恋人や夫(妻)などに、一字一句間違いのない証言を強いるのは、この理論からいくと危険である。曖昧な点を埋め合わせようと、その部分を捏造するしかなくなってしまうからだ。
 逆に、あまりにも細部まで出来上がったストーリーは、故意に相手を騙そうとして練り上げたものである可能性が大である。
 この点に関しては、わざわざ手の込んだ方法で身近な人を騙す心理が、シンプルライフを好む私(=単なる面倒くさがり?)には良く分からないのでノーコメントとさせていただくが…。

 こうしたことを利用して、独裁国家などで「洗脳」が行なわれているという。
つまり、本来人間の記憶というのは、どっちつかずである状態が普通である。 それを後日になって、「あの時はこうだっただろう?」と強制されることにより、細部まで具体化・鮮明化することによって、簡単に塗る変えることが出来るのだ。
 いい加減で辻褄が合わないのが正常な状態であるはずの記憶を、それに反して半強制的に無理やりにあまりにも正確を期すように強いると、嘘で塗り固めるか他人の考えをそのまま取り入れるしかしかなくなってしまうのである。

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 記憶はまた、「情緒的気分」によっても変化する。これは誰もが経験的に分かることであろう。
嬉しいときには楽しい想い出が、悲しいときには辛い思い出ばかりがよみがえる。
 このことを心理学者のゴードン・バウアーは「情緒的気分が全く異なるときは別の図書
館にいるようなもの」であると表現するという。

 その上、私達は「成功したか失敗したか」によって、過去の出来事を後からゆがんで記憶してしまう傾向があるという。

 つまり、繰り返しになるが、人間にとっては「覚えられない」「記憶が曖昧である」というのが、人間のごくノーマルな状態であるのだ。
「覚える」ためには特別な努力が必要なのが多くの人にみられるパターンなのである。
 「1セント銅貨に記載された文字を覚えてもらう」実験によって、刻印された文字や絵柄を記憶できる人は20%もいないという。こうした無意味な「短期記憶」はものの数十秒で跡形もなく消え去り、脳のどこにも痕跡を残さないのが普通であるのだ。
 しかし、多くの人は、先ほどの催眠療法の例をあげるまでもなく、「どのようなささいな記憶も、自分の脳のどこかに保管されているはずだ」と主張するというのだ。

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 それにしても感慨深いのは、「事実」「現象」というのは実態がないものであるということだ。 
 アルバムやビデオや、時折書いた文章にその断片は記録されてはいる。
 しかし、私達の人生は「私達の記憶」の中にある。同じ時を共有しあっていても、出来上がったストーリーは極めて個別的なものなのだ。
 だからといって、私達の人生がバーチャルかというとそんなことはないと思う。肉体をもつ私達はリアルそのものである。
 私達はそれに誇りをもっていい、と私は思う。
 「嘘」の部分を詳細なデータで修正することは不幸の始まりであるかもしれないのだ。

 「私はそうではない。どんなことでも一度見聞したら覚えられる」
という方も多くいらっしゃると思う。
 確かにそれも事実である。しかし、そういった記憶は、例えば一字一句法典を暗記してそらんじるような記憶とは、普通違う意味合いのはずである。
 つまり、利用可能な状態で整理して記憶されているはずなのだ。
 ところが、無意味に羅列的で正確すぎる記憶は、場合によっては利用するのに困難を極める可能性が高いとのことなのだ。
 それに関しては、また続報で書いていこうと思う。

 


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