ケストナーの「ほらふき男爵」

「とかくこの世は賢明さが幅をきかせている。
  ところがどっこい、人を救うのは愚かさだけよ」
   (ケストナーのほらふき男爵 “シルダの町の人々”より)


 スローライフという言葉が取り上げられて久しい。
 「働く」というのはどういうことなのか?
 働くということと、スローライフは両立しないのか?
 そんな疑問をもった方は、是非、この本のなかの「シルダの町の人々」を読んでみて欲しい。その概略は大体、こんな話である。

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 昔、あるところにシルダという愚か者ばかりの住む町があった。
 町の人々があんまり馬鹿者で、とんちんかんなことばかり言うものだから、旅人はすっかりあきれてしまうほどである。しかし、それがあんまり面白いものだから、シルダの町を訪れる人は絶えないのだ。
 
 ところがシルダの町は、元々は賢者が住む町であった。
 そのため、町は栄え、町の人々の賢さは他所にも知れ渡るところとなった。
 そのため、他の町の人々がことあるごとにシルダの町の人々に意見を求めて使いを寄こすようになった。
 最後には、国王や皇帝などからも使者がきて、シルダの町の人々を大臣や裁判官などに任命し、徴用していくようになった。

 そのため、町からは男たちがいなくなり、日々の暮らしを支える仕事や子育ては全て女たちの仕事になった。それがあまりにも大変だったため、日に日に町は荒れ果てた。
 そのため、女たちは国王たちに「男たちを帰してくれ」と手紙を送る始末であった。

 それを知った男たちがびっくりして町に戻ってみると、自分たちが不在だった町は見る影もなくさびれ、子供達の教育も滞っている状態であった。
 そこで、男たちは、
賢いためにこんなことになるならもう沢山だ。自分たちの町の方が大切だ」 
 と考えるようになる。
 そこで彼らは酒場に集って相談し善後策を検討する。
 その結果思いついた名案が、「馬鹿のふりをする」ということであったのだ。

 馬鹿になれば、他所の仕事に駆り立てられることはあるまい…というわけである。

 男たちは、それから連日「馬鹿になる練習」をした。
 唯一、それに反対したのは、町の校長先生であった。
馬鹿のふりをしているうちに本当に馬鹿になったらどうする
と主張したのである。
 しかし、男たちはその考えを、「それこそ馬鹿の考えることだ」と一蹴する。

 そして、愚か者になったシルダの町の人々に、他の町の人々は、色々な仕事を頼まなくなり、町は再び栄えるようになった。
 しかも、驚くべきことに、その「面白い愚か者がいる」というので、旅人が沢山、観光に訪れるようになり、町は以前より一層栄えたのである。
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 大体、以上のようなお話である。
 いかがでしたか?
       




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                     *緑の犬!?淋しそうな横顔です*
 
 しかし、今現在どっぷりとつかっている仕事から距離をおくというのは、結構難しいものだ。勿論、仕事が面白くて仕方がないために、ついついそれが生活の中心になっているという方も多いだろう。

 しかし、そんな風に充実しているというわけでもないのに、「責任感」から、今の生活を崩せないと思っている方も多いと思う。
 責任感は家族に対するものである場合もあるし、組織の一員としての責任感という意味合いもある。
 また、自分自身で仕事時間の調整をつけるのが難しい職種の方も相当数いると思う。つまり、意志に反して忙しさが決まるという職種だ(社会人としては、これが大半の人の現状かもしれない)。

 そういったことを踏まえた上で考えても、むしろ仕事が面白くて仕方がない時は息抜きもうまく出来るものだ。
 逆に、壁にぶつかった時ほど表面的に仕事をし続けてしまう場合もある。これは、「他人の前でまじめなところを見せていい格好をするため」というより、心の底では興味を失っている「自分の気持ちを誤魔化すために」そうなってしまうのかもしれない。
 勿論、何とか打開策を模索しているという部分もある。

 「社会人としてお金をもらって働いているからには、滅私奉公せよ」
という価値観は根強い。
 確かに、その考え方には一理ある。
 全然、いただいているお金の価値がわかっていない人も存在するからだ。
 しかし、どう考えても殆どの人が「頂いているお金」以上に自らをすり減らしているような気がしないでもない。

 そうすると、結局、自分自身が社会の中で「使い捨て」の存在になりかねないくらい磨耗しかねない。
 恐らく、スローライフ=怠けではない。一日の中でわずかでも良いから充電の時間をつくらなければ、長い間持続して良い仕事もすることは出来ない。
 アイデアも枯れてしまう。

 仕事はいつでも楽しいわけではない、というのはある程度真実だと思う。
 だからこそ、その辛さを「脇においておく」という時間が必要なのである。
 その程度に考えたほうが、逆に細く長く、逆境にも立ち向かってひとつのことをやり遂げられるのかもしれない。

 その上、「脇に置いておく」ことの利点は他にもある。
 しばらく経ってから、急にその問題の解決法が自然に分かることがあるのだ。
 そうした緩急の付け方が実にうまいのが、いわゆる「出来る」人々だ。
 別の言い方をすれば、そうした人々は、感情の安定をキープする方法を自然に身につけているのだ。決して、自分を追い詰めたりしない。
 いざとなったら、シルダの町の人々のように別の生き方もある…。
 そう考えることも、時には必要ではないだろうか?


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       *犬の形をした植木のオブジェでした*











「仕事」というのは経済活動だけではなく、生きることにまつわって生じる全てのタスクという意味で考えています。この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!

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