恥の心理学―傷つく自己 SHAME The Exposed Self M・ルイス著
 
  自己に注目することと、恥の増大には関係がある。
  自己愛は恥を回避しようとする究極の試みなのである。
               (恥の心理学より 引用)


    いかにして実りある議論をするか?
 
 「意見」を言われただけで、「恥をかかされた」と思う人がいる。

  基本的に、恥とは、他者との関係性において存在する感情である。
 誰が見ていなくとも、自らの犯した行為を恥ずかしく思う行為は、普通は
「罪」と呼ばれる。
 罪とは、道徳的行動の基盤になるものであるが、「恥」とは私達の社会を迷走させるひとつのファクターになりかねない。
 
 本書には、色々な「恥」の実例が出ている。

 教授に自分の論文の誤っていると思われる点の議論をもちかけられただけで、「恥」をかかされたと思ってしまう学生。
 夫に「このテーブルクロスは擦り切れているから、新しいものを買おう」と言われただけで、自分の家事管理能力を否定されたと思い込む女性。

 あなたの周囲にもこんな人はいないだろうか?

 誰かがたまたま、「先週ディズニーランドに行ってきた」という話題を出しただけで
「ディズニーランドに言ったことを自慢した。」
と悪口を言っていた人を見かけたことがある。
 この人は、他の誰かが海外旅行のお土産を渡したときも
「海外に行ったことを自慢した」
といきまいていた。
 何でも、「恥」ととらえてしまうわけだ。
 全ての相手の言動を、自分にひきつけて考えてしまうのだろう。
 こうしたパーソナリティの人は、老若男女あまねく存在する。
 いわゆる「尋常でなくプライドが高い」ために何でもこのように感じてしまうのだ。

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 これとはまた逆に、常に誰にでも「恥」の感覚を持たせてしまう人もいる。
 まず、議論の鉄則として、誉めてからけなせばいいのに、
「君の仕事はなっていないね」
という論調で批判で会話の口火を切ってしまう人だ。
 そういう人に真意を尋ねると、意外にも
「私は別に悪意でそう言ったわけではない。事実を言ったまでだ。思ったことを言って何が悪い。」
と悪気はないということを強調することが多い。
 場合によっては、
「誉めているつもりで、足りないところをちょっと指摘しようと思っただけだったのだが…。」
 と相手の心を傷つけていることを知らないケースもある。
 恐らく、この場合の最大の問題は、「自分が上位である」という揺るぎない確信が過剰であるのだろう。
 
 そう考えてゆくと、
いつも傷ついてしまう人」も「いつも人を傷つける人」も問題の根幹は同じところにあるようだ。
 つまり、自己愛の問題である。

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 殆どの人は、恐らくこの両者の中間地点にいると思う。
 思いがけず、他人を憤らせる発言をしてしまったり、相手の何気ない一言で傷ついてしまたり、状況によって両方の立場になってしまう人だ。
 そして、その場に応じて、お互いにそうした行為をしてしまった他者を許し合いながら、何とか折り合いをつけて生きているのが、ごく当たり前の人間の姿であるのだ。

 そして、恥の経験が人間関係に及ぼす最大の問題は、その問題に関わる二者の一方にしか決して認識されないことにあるのだ。
 恥というのは、基本的に、「恥をかかせられた」方だけが認識している感情で、他の人にはその理由は決して理解されないものなのだ。
 それは、恥をかかせた側、かかされた側のどちらが「悪者」であるかということには関係がない。

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 恒常的に、他人に恥をかかせずにはいられない、典型的なパーソナリティについて、もう少し詳しく考察してみる。
 その場を支配するためには、
「まずガツンと言ってやる」
のが一番有効だと信じていて、ショック療法的に悪意のある発言をする方もいらっしゃる。
 不遜な態度をわざと取っている人だ。血気盛んな年齢の男性に多いが、女性でもたまにこういう人がいる。
 つまり相手にまず「恥」をかかせることでその場の空気を支配しようとするわけだ。

 そうした人はその自分のやり方が極めて正しいと信じている。
「恐れ」こそが「尊敬」だと信じているやり方だ。
 短期的にはそうかもしれないが、長期的には、人心が自分から離れてしまうのだが…。
 本書では、こうした「思い上がり」を、「誇張された誇りあるいは自信であり、その結果としてしばしば報いを受けるものと定義する」と書かれている。
 そして、思い上がりとは尊大さと自己愛の帰結であると結論付けている。
 
「誇り」と「思い上がり」の違いは何だろうか?
 誇りは自己分析がきちんと出来ている結果の、自分の行為への自信や満足であるが、
 思い上がりは、理由が明確でない自己の全能感に基づくものである、と解釈できる。
 
 逆に、相手が誰であろうと、「恥」を感じてしまいやすい人とはどのような人であろうか?


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 たとえば、ある人に、レポートの間違いを注意したことがきっかけでより深い議論が成立する場合もある。

 しかし、別の人に同じことを同じように言ったことが、一生の恨みを買ってしまうこともある得るのだ。
 それは、その相手と自分の立場=身分がどのような関係性であっても起こりえる。偉い人が一方的に考えを押し付けたからだ、とか、逆に下っ端が偉い人に噛み付いたからだ、などとは関係ないのだ。
 限度を超えた、「議論の拒絶」の多くは、純粋に拒絶する側のパーソナリティに基づくのだ。

 つまり、自己認識が極端に高く、自我を守ろうとする意識の高い人に、その人の誤りを指摘するということは、その人の全能感を否定する行為なのだ。
 それは、私達がどのように注意深く、話をもっていたとしても、そうした「怒り」を相手から買う可能性は地雷のように潜んでいるわけだ。
 
 自己愛というもの自体は、誰もが有していなければいけない人格の基盤である。
 他者への愛も、揺るぎない自己が存在しなければ成り立たない。
 しかし、それが過度になってしまうことで、恥を感じやすい人格が生じるのだ。

 そして、この恥という概念は、容易に「怒り」に直結しやすいのだ。
その怒りが自己に向けば、それは鬱屈した感情になり、それが他者に向けば恨みつらみの感情となる。
 勿論、内向きと外向きの「怒り」がジェットコースターのように、行ったり来たりするパターンもある。
 しかし、本書の著者は、基本的には、「恥」の感覚は多くの場合「怒り」を他者に向けることによって解消すること典型的だとしている。そして、その恥と怒りの融合が、いわゆる「激怒」という感情なのだと考察している。

 恥というのは、このように自己認識と深く結びついている
 つまり、相手のプライドの高さによって、自分の発言がどのようにも取られてしまう可能性があるということだ。

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 「幸福」という感覚は、それこそ自分の満足度という相対的な指標でしか測れないので、あまり持ち出したくない単語だ。
 しかしあえてそれを持ち出すと、多くの人の意見を取り入れ実りある議論をする人生と、そうでない人生のどちらが幸福であるのだろうか?
 殆どの人が前者と答えると思う。

 しかし、現実の社会では、想像以上に自己の殻の中にこもっている人は多い。
 それは、物理的に家に引きこもっているという意味ではなく、人生の中で「同質なもの」しか取り入れることなく終わってしまう人のことだ。
 そうした生き方を続けていると、「異質なもの」に接した瞬間に、思考が停止してしまう。
 そして、相手の意見の全てに「恥」の感情を感じてしまうのだ。

 そして、私達の誰もがそれぞれのやり方で工夫しなくてはいけないのが、
「相手を責めている」と感じさせずに、実りある議論をする技術である。
 つまり、相手の、自己愛で塗り固められた防御的な心の垣根を低める技術である。
 それは、月並みであるが、「心の温かさ」つまり相手を許容することの出来る、自分自身の能力の深度である。

 それは、広く浅い交際だけでは、生まれない場合も多い。
 すべからく経験とは、どのような種類のものであっても、数だけではなく、質が大切なのだ。


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