アメリカ語ものがたり〈1〉

           皆で大儲け?

 本書は世界中の言葉を変質させてしまった国の物語である。
 
 誰もがご存知のように、イギリス英語とアメリカ英語は同じではない。
 発音が明らかに異なるだけではなく、同じ単語が違う意味であったり、同じものに違う単語をあてはめたりする例には事欠かない。綴りに関しても、違いが多く認められる。
 
 アメリカ人は、その最初の祖先メイフラワー号でアメリカにやってきて以来、英語を変質させ続けてきた。そして、ドイツ語、フランス語、スペイン語などの多くの言葉を取り入れ造語を生み出し続けてきた。

 本書は、その「アメリカ英語の成立の歴史」を細部まで理解するのに役にたつ。とにかく、これでもかの無駄知識ともいえる、「アメリカ英語に特有の単語」の由来をこと細かに解説してくれている。
 本書自体は、とても楽しい本だ。
 でも、読み終わった後に何故か色々な感慨が浮かんでしまう本だ。
 恐らく、それが著者の狙いなのであろう。

 本書の著者の目的は、アリカ英語の成り立ちをを人々に知らしめることだけではない。
 言葉の変質は文化の変質である。
 英語を変質させてきただけではなく、「進取の気性」の名のもと、良い意味でも悪い意味でも、故国である西欧世界の文化や道徳を変質させ続けてきた。
 本書は、「言葉の変質」という客観的事実に衣を借りて、アメリカがいかに世界の文化を「オレ流」に変え続けているかという物語を綴ったものである。

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 私は、今、実は息抜きにマクドナルドでお茶をしながらこの文章を書いている。

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この店は、元々、マクドナルド兄弟の地元であるカリフォルニア州の片田舎の砂漠の町サンバーナディーノウで「おいしいハンバーガーとポテトフライ、こくのあるミルクシェーク」で評判の店であった。

 私は、何故、今日この店を選んだのか?
 マクドナルド兄弟の創業の精神は、私には届いていない。
 それは、「おいしい食事や飲み物を求めて」だけはないことは確かである。
 
 私が今ここにいる最大の理由は、一言でいうと、安心だからである。
 知らないところに来て、少し時間が出来た。
 近くには、地元の喫茶店が何軒かあるが、どういう店か分からない。
 そうした時に、例え極端においしい食べ物や飲み物が手に入らなくても、マクドナルドに入ってしまう。
 こうした人は、極めて多いであろう。

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 さっきから眺めていると、このマクドナルドの店内には、「長居派」と、スピード派にほぼ二分される。
 長居派は「勉強をしている学生」「グループで延々ととりとめのない会話に興じている女子高校生」「商談をしているらしいビジネスマン」などで、場合によっては食べ物抜きで飲み物だけを買って、場所を利用している人々だ。
 私もそのひとりだ。

 スピード派は、忙しそうなビジネスマンなどで、飲み物とハンバーガーとポテトの載ったセットメニューのトレイをテーブルに置いたかと思うと、10分程度でそそくさと食べ終わり帰っていく。

 どちらの派にしろ、「マクドナルドのハンバーガーがものすごく食べたくてこの店にやって来た」人は、少数派であろう。
 このように、この店が巨大になったのは、その味や品質のためではない。
 以前のブログ、コカコーラ帝国の興亡で書いたのと同様に、飲食物以外の部分で人々のニーズを満たしているからである。
 つまり、マクドナルドが、「おいしい店」であることより「便利な店」であることを選んだためである。
 「何となく」という人を取り込むことは、「こだわりがある人」を市場に招き入れるよりも容易であるのだ。

 アメリカのマクドナルドでは、「長居派」というのはあまりいないので、それは日本特有の現象であろう。
 しかし、いずれにしろ、飲食店が、「食べ物そのもの」以外で勝負するという伝統を築いた最初の店のひとつがこのマクドナルドである。

 本書では、自動車産業や映画産業から、マクドナルド、コカコーラ、それから、過去記事のこれいただくわで語ったような「アメリカ最大のレジャー施設」であるショッピングモールまで、現在のアメリカ文化を成立させている事物の歴史を総覧するのにぴったりの本である。
 アメリカ史は、政治や文化ではなく、モノを介在させた方がより理解しやすくさえあるのだ。


アメリカ語ものがたり〈2〉



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 付加価値の方が商品そのものよりも大きな位置を占めるスタイルを築いたのは、やはりアメリカという国なのだということだ。
本質そのものよりも、付加価値を充実したほうが、人心をひき付けるというある意味「邪道」をここまで増強した文化というのはかつてはなかったのではないか。

 勿論、モノを売るというのは、付加価値も一緒に売ることであったことは、アメリカ建国の以前から世界中で同じであったであろう。
 「買い物」が人々の楽しみであったことも同様だ。
 店員さんの笑顔、知識に精通した店員さんの的確なアドバイスなどを求めて、人々は店を選び続けてきた。むしろ、現在のような大量消費社会以前の方が、人々はこうした個人的なつながりや信用を重視していたに違いない。
 それは、「たまの買い物」を安全確実に行なうための人々の知恵でもあった。

 つまり、正確にいうと、人々の求める付加価値を変えてしまったのがアメリカ文化という考え方も出来るのである。
 つまり、人々の要求どおりに文化の優先順位を組み替えて、システマティックに統合しなおしたのがアメリカ文化であるという考え方も出来る。
 つまりは、究極の合理主義の完成だ。

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 「求める人の要求に従ったものを与える」、つまり経済原理を最優先させるやり方というのは、今日昨日始まったやり方ではない。
 二百年以上前から、かの国で始まった手法を、遅ればせながらわが国でも実行しようとしているに過ぎない。

 毎日の生活の中で、ただの一つもモノやサービスを買うことのない日、つまり「お財布を開かない日」というものが存在するという人は、少数派になりつつある。
 祖父母の時代には、何も買わない日というのは、ごく当たり前の一日のあり方であった。
 しかし、現在のように、モノを買うことが日常生活に浸透している文化においては、こうした濃密な人間関係に基づいた「重さ」より「手軽さ」の方が、付加価値として大きくなってしまっているのだ。

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 アメリカの歴史は、こうしたいわゆる「商業主義」の歴史でもある。
 本書によると、十九世紀のアメリカで生まれたおびただしい造語の多くが、金銭にまつわるものだという。
 
 アメリカという国が、世界中の人々を惹き付けて止まない理由のひとつは、
「見せ方」を「本質」よりも重視するという発想にあるのかもしれないのだ。

 見せ方を重視する文化の中では、豪華な家や車、ばりっとした服装などが、「人格」などという曖昧なものよりも高い価値をもつ。そして、それらを手に入れるのは多額の金銭を必要とする。
 そうした中で、一攫千金を夢見る人が増殖していったのは、自然の流れであった。

 「あなたも得をして、私も得をする」
というのは別に目新しい概念ではない。
 
 それに関する真実は、少なくとも過去のかの国の歴史においては、残念ながら「私だけが儲ける」ということをオブラートに包んだ表現に過ぎないというものであった。
 「誰もが得をする」ということに関する多くの人の本音は、私だけが儲けるのは申し訳ないので、「少しだけあなたたにも得をさせる」ということで相手を納得させようとしているに過ぎなかった。
 もしくは、その一挙両得の正体は、「私達のところに、他の誰かからのお金を流入させる」というのがその本質である。
 つまり、他に損をする人が存在するわけだ。
 「世界中の人が儲かる」という概念は存在しないということは、冷静に考えれば、小学生でも理解できる。
 
 今後の情報化時代においては、こうした「ずるいやり方」は通用しないという希望的観測がある。
 しかし、どのように情報が大量に人目に触れるようになっても、本当に大切なことはどこか別のところに存在するのかもしれない。
 最大の問題は、その事実に私達が気付きにくくなっていることなのかもしれないのだ。
 

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 アメリカ史のひとつの側面が、こうした肥大した欲望をあまねく世に広める歴史であることは否めない。
 本書は、今、私達が「新しい」と考えている経済活動の手法の全てが、百年前のアメリカに全て出揃っているということを知るにも最適であろうと思われる。

 これに対抗しうる概念は、「勝負から降りる」ことしかない。
 「ゴールド・ラッシュ」のような人々が群がるところには、近づかず、自分に内在する目的に従って生きてみるやり方である。

 目的を「夢や理念の実現」が最初に来る事業というのも、古今東西存在し続けてきた。金銭を後付にするやり方である。
 どちらの理由が先であろうと関係ない、と考える人は「動機」が人間に与えるパワーの大きさを甘く見ているような気がしないでもない。

 私自身はビジョンのない仕事には、あまり魅力は感じない。
 その理由は、シンプルにただそうだから、としか言いようがない。

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 自分の村や町以外の世界観が、いままでとは違う量で日常に流入してくるようになる度に、人々は自己の全能感を肥大させ続けてきた
 電報や電話や自動車、飛行機などの、人々の暮らしを変える通信手段が生する度に、人々はそれに関する大きな「ビジネス・チャンス」に群がり続けてきた。
 そうした心が浮つきがちな時代においては、「知る」ことと「理解し、咀嚼する」ことの違いを理解することは極めて難しい。
 ある意味、現代ほど「地に足のついた生活」を送るのが困難な時代はないのだ。
 恋愛・結婚などのごく個人的なことから、生活の糧を得るまでの経済活動まで、私達は自分の人生には存在し得ないバーチャルな夢を追い求め続けて一生を終えてしまうのかもしれないのだ。

 情報が広まったことにより、「自分の知らない世界には羨ましい生活をしている人達がいる」ということに多くの人が気付くようになった。
 しかし、それを知ることが、自分の人生にどのように役に立つかということは、純粋に受け手側の人格に依存する。
 別の言い方をすると、それが分かっている人間だけが、自分の現実の人生をより良いものにすることが出来るのだ。
 自分の中に蓄積したものと、外部から表面的な知識として取り入れただけのものの違いをはっきり認識することこそが、必要とされるスキルなのかもしれないのだ。

 この世界の中で、自分の内側からの「気付き」を得るのは、かつてないほど困難になっている。

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 蛇足であるが、個人的に、本書の中で大笑いした一節を紹介しよう。
 アメリカ(とその周辺の国々)は、英語だけでなく、スペイン語やドイツ語、フランス語など、入植者の祖国の母国語を変質させてきた。
 アメリカのペンシルヴァニア州には、ドイツ語をかたくなに話す人々が住み、そのドイツ語は本来のドイツ語とかけ離れているので、「ペンシルヴァニア・ダッチ」と呼ばれているという。
(ドイツ語なのになぜかオランダをあらわす”ダッチ“が用いられている)
それには、「普通なら説明するのに数語を必要とする」事細かな状態を表現する特殊な単語が多く存在するという。
 例えば、fedderschei=手紙を書きたくない気分、のような具合だ。
 もっと奇妙な単語として、aaschgnoddleという表現があるそうだ。
 その意味は、私としては、ここにとても書くことが出来ない。
 興味のある人は本書の,303ページをご覧いただきたい。


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