無意識の脳 意識の脳―身体と情動と感情の神秘
  
     恐れや悲しみや喜びは過去の記憶や知識によるのか?

 瞬間的にこみ上げてくる悲しみや怒り、恐怖などを抑えられなかった感覚を経験したことのない人はいるだろうか?
 もしくは、「理由はないのけれど、ある人や事物が嫌でたまらない気持ち」とうのも説明不要であろう。
 そういった、ネガティブなものではなく、「嬉しくてたまらない気持ち」
というのも、自然に湧き出てくるものである。
 これも経験したことがない人は、恐らくいないだろう。

 こうした気持ちを抱く理由は、「誰かに説得された結果」ではないことは確かだ。

 逆に、社会的な必要性から、嬉しくもないことを喜んでいるふりをしたり、悲しみや怒りを表に出さないようにしなければならない時のことを考えてみたい。そんな時は、往々にして、私達の表情の端々のどこかには、隠し切れない本当の気持ちがにじみ出てしまうものだ。

 それらの湧き上がる衝動的な気持ちを、情動と呼ぶ。

 過去の記事、感情の科学で述べたように、感情はこうした原始的な感覚以外に、社会的な要因を含むもっと複雑なものなのである。

 普段は、情動と感情の違いなんて厳密に分ける必要はないと思うが、混乱を避けるために、私も、この「湧き上がる気持ち」を「感情」と区別して「情動」と定義して語ることにする。

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 人間の一次的情動である、「喜び」「悲しみ」「恐れ」「怒り」「驚き」「嫌悪」の6種類について、普通であれば、説明不要な感覚であろう。こうした情動は、誰かにそれらを教えられる子供の時から私達の中に存在してきた。
 勿論、私達にはもっと複雑な「気持ち」も存在する。
 嫉妬優越感罪悪感…こうしたものも「湧き上がるおさえられないもの」であるが、一次的情動から派生したより複雑な存在なので、本書の定義に従って、二次的情動と呼ぶことにする。
 こうした情動のきっかけになる、熱いとか寒いとか緊張しているとか、そうした怒りとか喜びを増幅する因子になる要因のことを背景的情動という。

 長いこと、脳とその機能の関係は、一対一対応で語られることが多かった。
 つまりは、
「脳卒中や脳腫瘍でAという部位が損傷したために、それに基づくA´という症状が出る」
という具合だ。
 勿論、そうした事例の積み上げによる、脳の特定の部位と機能の関係があってこそ、現代の神経科学が存在するわけであるから、別にこうした知見が誤っていたり古くなってしまったわけではない。

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 しかし、言葉の定義が情動であれ感情であれ、「人間としての総体」を扱うことは、あまりにも無謀なテーマだと考えられてきた。

 ましてや、「意識」「無意識」などについては、その言葉自体はこれほどまでに私達の身近であるにも関わらず、解明することは極めて困難であると思われてきた。

 「意識」「無意識」って何?と思う人は、まずいないであろう。
  しかし、普通の状態であれば、私達は「意識」と「無意識」のスイッチをパチンとオンオフしているわけではない。むしろ、無意識の上に表面に意識がのっかっている状態で日々を送っているのである。
 本書の著者、ダマシオ博士はその関係を以下のように説明しようとした。
 

 原自己 :無意識下の自己.
非意識的に私達の状態を一定に保つ。
       私達の意識にこの存在がのぼることはない
   
       無意識↑
        意識↓

 中核自己⇔中核意識:たった今この瞬間に、
            自分が自分であるということが分かる能力。
            極めて一過性のすぐ失われる短期的記憶に基づく。

 自伝的自己⇔延長意識:体系的な記憶≒長期的記憶に基づく。
            様々な経験や記憶によって変化しつづける。

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 以前のブログ、記憶は嘘をつくで、「自伝的記憶」についての説明を試みた。
 自伝的記憶というのは、私達が自分の人生を理解するために必要な記憶である。それに基づく自己が、自伝的自己である。
 普通の意味で、「私が誰だか自分で分かっている」というのは、この状態のことを言うと思う。

 ところが、こうした「記憶」が病気のために全部なくなってしまった人でも、「私が私であり、今ここにいて、何かをやっている」ということは分かる。
 これが中核的自己である。これを認識するための意識を中核意識という。
 自伝的自己は、そうした中核意識が私達の人生において連続して「記憶」として保持された結果として理解されるものなのである。
 従って中核意識が連なった私達の生涯に関する認識を延長意識と呼ぶ。

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 ダマシオ博士のグループによると、人に対する好悪は、この「自伝的記憶
」がなくても存在しうるという。
つまり、人の好き嫌いは、学習されたものとは限らないのだ。

 彼らのグループは、この事実を「グッドガイ・バッドガイ実験」という研究で証明した。
 記憶が完全に失われ、人の名前も顔も覚えることの出来ない男性に、三つの タイプのいい人普通の人悪い人に一週間以上接してもらった。
 この三人は
 1.とても愛想が良く親切で、彼の要求は何でも受け入れる人
 2.普通の人
 3.とても無愛想で嫌なことばかりをさせ、何を言っても「ノー」という人。
 その結果、彼はこの三人の名前も顔も覚えられなかったのにも関わらず、誰のところに行けば自分の要求が通るかを理解し、その人のもとに行くようになったという。

 これにより、著者らは
記憶を失っている人でも好悪の感情は保持される
と結論するに至ったのだ。


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 実のところは、さっき述べたような基本的な六つの情動は、私達が自分の人生を全て忘れてしまっても、起こり得る。

 これらの基本的な情動は、脳の限局した部位、前頭前・腹内側扁桃体脳幹核視床下部と前脳基底部などの、脳の深部の正中線上に、ほぼ真横に連なるcoreな部分により誘発されるためだ。

 これには海馬などの記憶装置も、BrocaやWernickeなどの言語中枢も、ましてやもっと複雑な代物である「感情」に必要とされる大脳全体の広範な働きも必要とはしない。

 しかも、悲しみ、怒り、喜び、恐れの四つの感情とこれらの情動の中枢について調べたところ、それぞれの感情によって、活性化される部位が異なることも分かってきたという。つまり、それぞれの基本的な感情により、ある程度どの部位が関与しているのかが分かっているのだ。

 その中でも、両側側頭葉内側面にある「扁桃体」は、「恐れ」に関係している(他の情動にも関与はしている)。

 本書の中に、扁桃体が選択的に冒される病気にかかった女性の症例のことが記載されているが、その女性の人生からは「恐れ」が完全に取り去られてしまったというのだ。
 つまり、全く否定的感情がない女性だ。
 彼女は頭が良く、明るく活発で、「究極のポジティブ・シンキング」を体現したような人物であった。
 これは、良いことだったのだろうか?

 彼女は、誰に紹介されても、恐れることがなく、抱きついたり愛想良く挨拶する。それ自体は、極めて親和的で、他人にとっては彼女は「極めて社交的な女性」のように見えていた。

 しかし、彼女自身にとって困ったことに、彼女は他人の否定的感情を汲み取ることが全く出来なかったのだ。
 「信頼できる顔と出来ない顔」を判定させるテストで普通の人が「信頼出来ない」と判断された顔貌を、彼女は全く正しく認識することが出来なかったという。
 ある意味、悲劇的である。
 
 本人自身が不利益というだけではなく、他者から見ても、こうした「極端に根拠もなくポジティブ」な人は「鈍感」であるとみなされるに違いない。
 誰でも愛することが出来ることが、必ずしも周囲の人に好ましい感情を惹起するとは限らないのだ。

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 記憶だけではなく、「意識」「言語」というのも、これらの原始的な感情とは、直接的な関わりがない
 言語に関しては、ある意味説明不要であろう。
 私達は、私達の湧き上がる気持ちが「言葉にならない」ということを知っている。
 実のところ、私自身は長いこと「言葉を介さない情動(感情)」の重要性について興味を抱き続けてきた。
 ダマシオ博士も、長いこと人間の思考と意識の中核であると信じられてきた「言語」は私達の情動(感情)のごく一部にしか関与していないことを感じていたとを述べている。
 勿論、言語が重要なコミュニュケーションのツールであることは、言うまでもない。しかし、言語によらない伝達は、それと同じくらい私達のリアルの世界を支配しているのは間違いがないであろう。

 意識については、意識がなければどうやって私達がその感覚を知るのだ?という疑問を感じる方もおおいであろう。
 実のところは、私達の意識は覚醒している状態から昏睡の状態まで、各種の段階が存在する。
 その段階の中で、先ほどの中核意識=つまり自己を自己として認識する能力が障害される時のみ、私達は恐れや悲しみ、喜びなどを失うのだ。
 つまり、中核意識の存在が、私達の情動の鍵になっているのである。
 
 これに対して、”意識にのぼらない”原自己は何をしているのだろう?
 原自己は、私達の状態を恒常的で安定した状態に保つために(つまり生存させるために、ともいえる)、非意識下で常に私達の存在に目配りをしているものなのである。
 私達は、ある意味、自分の情動を超えて生き続ける存在なのである。
 (恐らく、そうした観点から言えば、高次の感情を全て取り去った人間は、決して自らの生命を断つ行為をしないだろう)

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 本書では、生存する脳で詳しく述べられている、ダマシオ博士の自説「ソマティックマーカー仮説」は、脇役にまわっている。
 最後の方で、「情動の基本的中枢は脳幹の三叉神経核(三叉神経:顔面、頭頸部の感覚を司る脳神経)の上位にしか存在しない。したがって、身体の「知覚」は情動に大きく関与している」という意味の仮説を提唱するに留まっている。
 この仮説に関しては、色々と思うところがあるが、長くなるので、割愛させていただく。

 私は、生存する脳よりこちらの本の方が、好きである。
それは、本書が、豊富な過去の神経科学とダマシオ博士の提唱する新しい世界の架け橋になっているからである。
 一見斬新なダマシオ博士の研究が、過去の古典的な神経科学の着実な知識に基づいていることが良く分かる本だ。


 再び、脳へ…。
 そんな気分にさせてくれる本である。


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