脳は絵をどのように理解するか―絵画の認知科学

  私達が見ているものは、どこまで正確なのだろうか?
 
 自分がたった今、見ていることを疑う人はいないだろう。
 視覚というのは、それ位私達の心に「確信」を生み出す。
 しかし、多くの「錯視」の研究を通じて、私達の視覚は多くのトリックによって影響を得ていることが知られている。
 
 私達が「見た」ものを個別的に判断するということは、どういうことであろうか。

 それは、私達の「視覚」という共通した能力の反映ではない。
 私達がモノを見るということは、大脳の両側後頭葉にある視野や、そこから眼球に至るまでの視路のいずれかの活動のことのみを指すのではない。
 当然ながら、過去に言語によって得られた知識などの他の情報を全て統合して見たものを認知しているのである。

 こうした大脳全体のネットワークが同時に物事を処理する機構を、
並列分散処理(PDP)という。
 こうした考えにより、視野、言語野、運動野、感覚野などと名づけられた大脳の分化した領域が、一対一的に特定の機能を担っているという古典的な考えでは説明の出来ない「絵画を判断する」などの、より高度な脳の全体的な機能が説明可能になったわけである。

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 芸術作品であれば画家に対する前もって得た情報と、実際に私達の目で見たものが相まって、私達にある種の感慨をもたらす。
 
 ある男性が、素晴らしく美しく感じの良い女性に会っても、その人が
「大嫌いだった小学校時代の先生」
に似ているがために、嫌な印象をもってしまう場合もある。
 このように、私達は知覚と過去の知識や個人的な体験の全てを統合して、見たものを判断している。

 私達が、素晴らしい絵や美しい人物を見たときに「好みである」と考えるかどうかは、その絵や人物の純粋な形態学的な美だけではなく、もっと高次の精神の機能を反映させて判断を下しているのである。


 視覚は、私達の心に深い影響を及ぼしている。
 
 「形態が知覚の元素的な単位である」と考えたゲシュタルト心理学という考え方がある。それは、本書の言葉を借りれば「単純な形態の知覚が、知識の連鎖の中の重要な環である」とでもいうべき概念である。

 それと同時に、私達は物事を言語として一般化する能力のために、
正確にものを見る能力を失っている。
 私達が物事を言語化する能力が視覚を妨げるという点に関しては、過去の記事
内なる画家の眼で考察した。

 

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 モノを眺める上での人間の視覚能力そのものには、物理的限界によるトリックが存在する
 例;
 順応:見ているうちに徐々に白黒のコントラストが弱まること
 側抑制:光が網膜に達すると、その周囲の神経細胞の活動が抑制されるため、隣り合ったもの同士の明るさのコントラストが実際とは異なって見える。
 
 そうした視覚自体の錯誤に、知識によるバイアスを含めると、私達は自分が見ているものにどんどん疑いを差し挟まなくてはならない立場に陥ってしまうのだ。

 実のところは、芸術作品は、こうした視覚のトリックを上手に利用して私達を上手に騙してくれている。
 評論家たちは、私達の判断を揺らがせることに、更に手を貸す。
 こうした名画に潜むトリックの知識を得るためだけに読むのも、本書の利用の一つの仕方であろう。

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 本書の中に収録されているピカソの逸話は興味深い。
 アメリカ人の兵士が
「あなたの絵は、めちゃくちゃで何が何だか分からない」
とピカソに告げたところ、ピカソはその兵士の財布の中にあるガールフレンドの写真をつまみあげ、
「君の彼女はこんなに小さいのかね?」
と言ったそうである。

 形態をゆがめるのも、形態を縮小するのもどちらも実物をゆがめていることには変わりがない、というわけである。

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 私達は、現実を、どのようにゆがめているのだろうか?
それこそが、私達を他者とは違う個別のユニークな存在にしている理由そのものである。

 しかし、私達の誰もが
「世界を自分と極端に違ったやり方でゆがめている」
人を嫌悪する。

 それは、本質的な嫌悪感であり、精神的な緊張状態を回避しようとする自然な心の働きによるものである。

 その本質的な嫌悪に関しては、昨日のブログ無意識の脳 自己意識の脳
で考察した。

 私達は、ある意味、自分と同じようなやり方で世界をゆがめている人を求めているのかもしれない。


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