エモーショナル・ブレイン―情動の脳科学

   瞬間的な知識は人生を豊かにするか?      

     トップダウンとボトムアップ


 人間を人間らしくしているのは、自伝的自己である。
 ストーリー性のない、通り過ぎていく短い記憶ばかりでは、私達の人生は豊かにはならない。

 人間の抑えがたい情動を支配しているのは、「記憶」でも「知識」でもないということを、以前の記事、無意識の脳 自己意識の脳で述べた。
 
 しかし、その学説をうちたてているダマシオ博士自身が、それらを踏まえた上で、
「私達を人間らしくしているもの」は、それらの基本的な情動の上にのっかっている思考や感情、そして言語といったより高度のツールであることを述べている。

 こう考えていくと、
「今日、興味のあることを知り、それを忘れてまた明日がやってくる。」
というような刹那的な知識しか得ることのない人生が、いかに非人間的であるかが理解できよう。

 「だって仕方がないでしょ。そう感じるんだもの。」
で済まされないように私達の人生は出来ているのである。


 最初に言っておきたいことは、私はエンターティメントを否定しない。
 それに、「何事も持続すべきだ」と必ずしも強固に主張したいわけではない。
 私達は、刻一刻と変化していく存在であり、それは避けきれないことであるからだ。
 ただ、私達はそれだけでは生きていけない。

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 情報の肥大とともに、「そう感じる」という本能的な部分にダイレクトに訴えかけることの商用効果を、とことん利用するべきだという考えが広がりつつある。

 しかし、私達が、浮かんでは消える「短期記憶」だけに支配されるようになり、好悪の感情でしかものを考えることが出来なくなってしまう社会というのは、極めて幼児的な社会である。

 幼児の発達においては、一番初めには、中核的自己(自分がこの瞬間に自分だと分かる能力)と、それに必要な短期記憶だけが存在する。
 幼児に、「一年前の記憶」による学習効果はない。
 私達は、大人になるにつれ、それに自伝的記憶による、「自分だけのストーリー」を付け加え、かけがえのない自己に成長していくのだ。
 この段階に至って初めて、私達は唯一無二の存在であり、他の誰とも違うユニークな存在になり得る。


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 怒りや嫌悪といった情動というのはある意味、普遍的な感覚である。
 その中でも、恐怖という感情は不安と密接に結びついており、その部分を一旦刺激されてしまうと、私達は理由もなくその情動に支配されてしまいかねない
 
 多くの古典的な支配者は、ある意味これを利用して統治を行なってきた。
 ある意味では、勿論、私達は、こうしたものから逃れることは出来ない。
 まるで、こうしたものが存在しないかのように振舞うのは愚かなことである。
 私達人間には、変えられる部分とそうでない部分が存在するのだ。

 それが証拠に、試しに恐怖や怒り、ごく単純な驚きといった原始的な衝動的な気持ちだけにしばらく身をまかせて日々を送ってみると良い。
 大概の人は、それだけを続けると、恐らく自己嫌悪に陥ることは間違いがない。
 こうした原初の感覚のみに依存して生きるということは、ある意味人間としての退化でもあるのだ。

 つまり、時々見かける
「これは本能なのだから仕方がない。あるがままに思ったとおりに振舞って何が悪い?」
という考えは、人間を人間たらしめている高次の脳の機能を完全に無視した発言であるとも言える。

 こうした「一皮むけば、人間の欲望はみな同じ」という平等論は、論破するのが難しい意見である。
 しかしこの考えは、一見説得力があるようでいて、私達の本質を的確に表現しているとは言いがたい。
 何故なら、私達を個別的な存在にしているのはそのほんの「一皮」の部分、つまり極めて人間的な脳の機能であるとも言えるからだ。

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 ネット上に現れては消えるニュースのタイトルを眺めて、面白そうな記事をクリックする→読む→すぐ忘れるという行為を繰り返すことが「知識」の中心になったとき、自伝的自己は形成されるのだろうか?
 つまりは、私達はそのような世界に生きていても、かけがえのないユニークな自分だけの世界観を形成することができるのだろうか。

 「興味のあるニュースをクリックして読む」
という行為は一見、主体的に見えて、極めて受動的である。
 垂れ流しのテレビ放送を見るのと、実のところはあまり変わらない行為ともいえるのだ。
 場合によっては、「刺激−反応」の関係に近い。

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 私達が外部から瞬間的な情報を取り入れて記憶する仕組みをワーキングメモリー(≒作業記憶、短期記憶)という。
 電話番号をかける前にそれを覚えるような、瞬間的に何かを覚え、すぐに忘れるような記憶のことである。
 
 短期記憶の中で、淘汰された情報だけが私達の長期記憶として脳に格納されるわけである。
 この淘汰のされ方というものには私達の意志も関係している。
 しかし勿論、その記憶のインパクトにより、好むと好まざるとに関わらず私達の生涯に影を落とすこともあり得る。
 
 インパクトがある、つまり、軽度のストレス(ストレスというのは良い意味でも悪い意味で用いられる)下の記憶は長く私達の心にとどまる。
 しかし、興味深いことに、あまりにも極度のストレスと共に記憶されたことは私達の記憶から完全に脱落してしまう可能性が高い。
 恐怖≒不安と共に覚えたことは、私達の記憶には残らない仕組みが出来ているのである。

 私達が自分の脳に自らの生涯を記録する仕組みは、意外なほど複雑なのである。

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 「そこに何かがある→見る」という視覚を大脳の前頭前野に伝える受動的な私達の視覚のサイクルをボトムアップ処理という。
 それに対して、私達が自ら意識して、大脳から「これを見るように」という指令を与える機構をトップダウン処理という。

 ボトムアップ処理には、過去の経験は関係がない。

 しかし、トップダウン処理には、過去の私達の経験から得た「これに注意したほうが良い」という情報も当然関与していると考えられる。
 例えば、危険なところを歩くときには、特に周囲に注意しながら歩くというような心の働きである。
 
 私達が何かを眺めるときには、このボトムアップとトップダウンの両方の仕組みが同時進行で循環しているはずである。
 つまり、瞬間的な記憶にも、何らかの形で長期的記憶が関係している可能性があるわけである。
 同じ「暗記」をするのでも、未知の分野より既知の分野の方が容易であるのは、誰もが経験するところであろう。

 ところが、膨大な情報から、真に必要な情報を取捨するための「トップダウン処理」に必要な知識や経験がないと、私達は流されるままにボトムアップ式に「刺激」を受け入れては忘れる存在になってしまいかねないのだ。

 こうしたボトムアップ処理のみによる、刹那的な「情報」は、私達の人格の核になることが難しい。
 電話番号を一瞬暗記したのとほぼ同じ行為である。
 例え「瞬間的に興味を引かれて何かを眺める」という行為であっても、それを経験として保持するためには、トップダウン処理をうまく行なえるための「長期記憶≒私達の人生そのもの」の手助けとフィードバックが必要なのだ。
 
 それこそが、自らに必要な情報を取捨選択するための能力というものなのだ。

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 ポータルサイト上にあるニュースのクリックの数が、私達の社会の「総意」として捉えられるようになった社会を考えてみたい。
 そうした状況では恐らく、「何かを考えさせる」記事よりも「何かを感じさせる」記事が優位に立つ可能性が高い。
 このためには、「視覚→大脳」つまりボトムアップ式の比率を優先させたやり方が、トップダウン式よりも明らかに有利であろう。
 
 何故なら、「瞬間的な反応としての興味を引く」という行為に関しては、「思考」は「情動」にかなうわけはないからだ。
 これを「理性」対「本能」の構図と捉えれば、もっと分かりやすいのであろうか?

 実のところはクリックという行為は、ただの「ほんの瞬間的な興味」であり、自分の人生にとってはどうでも良いことである場合が多い…という点は、
「人気ランキングによるニュース」には全く考慮されないわけである。
 人には色々な側面があり、瞬間的な興味本位の行動が、その人の全てではないのである。
 
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 そしてそれが、「私達の求めるものである」と見なされ報道の主体になった時、私達は人間に進化したステップの階段を一段、元の段階に下ることになりかねないのだ。
 勿論、「人間は進化しなければいけない」というきまりはない、と言ってしまえばそれまでではあるが…。

 私は、何も「頭でっかちな人間」を推奨するわけでも、基本的な人間の心の動きを否定したいわけでもない。
 むしろ、あまりにも過剰な建前社会が続いたせいで、現在のような「過剰に本音を尊重する」文化が、揺り戻しとして存在しているような気がしないでもない。

 ただひとつ言えることは、情動にまかせただけの社会というのは往々にして「美しいもの」ではなく「醜いもの」に向かう可能性が大であるのだ。
 私が恐れるのはそれだけである。

 人間の一次的情動は「喜び」「悲しみ」「恐れ」「怒り」「驚き」「嫌悪」である。
 このうち、ポジティブなものは「喜び」しかない。ニュートラルなものとしては「驚き」がある。それ以外の「悲しみ」「恐れ」「嫌悪」の三つは、どちらかというとネガティブなものである。

 実のところは、こうしたネガティブな情動は、「私達を危険から遠ざける」つまり「生命を守る」ために欠かすことが出来ない必須のものである。
 生存に必要であるだけに、これらの感情は容易に惹起され、取り除くことが不可能であるのだ。
 つまり、これらを「利用」しようと思う人にとっては、非常に利用価値のあるのがこれらの情動なのである。

 私達は、「不快」になる方が、「快」を感じるより容易であるように出来ているのかもしれないのだ。
 非常に残念な結果であるが、危険を素早く察知して回避する、動物としての本能がそうさせているのかもしれない。
 そうして、この原理により、私達は、自分が本当は不快と思うことにどんどん引き寄せられてしまう矛盾した心理をかかえやすい生き物なのである。

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 それを考えるとき、「情報」を配信する側がクリック数を増やすには、これらのある意味、「私達の生存に必要不可欠な」ネガティブな感情に訴えるのが手っ取り早い。
 すなわち人々に恐怖や、嫌悪や悲しみを与える情報を流し続ければ、それを眺めずにはいられない人は多いのである。
 それは、過去にも沢山存在した、「ゴシップ・マスコミ」である。
 
 こうした人間の根源的な情動≒欲望に訴えかけるニュース・ソースを、完全に否定することは私はしない。
 それらは、これまでも存在していたし、これからも存在し続けるだろう。
 
 しかし、これらの「古い」手法を「新しい」手法として、インターネットという比較的若いメディアに蔓延させようとする企業には、私は賛同することは出来ない。
 恐らく、そうした多数派の意見を前面に押し出すやり方は、インターネットという本来「個別的」であったツールの利点からは完全に逆行したもの流れであるように思える。
 
 そうしたことは、もう既に、「紙のメディア」である週刊誌やスポーツ新聞でやり尽くされた技法であり、発想に新鮮味がない。
 「おじさん臭い発想(男性の皆様ごめんなさい。おじさんというのは生物学的年齢のことを指していません)」なのである。

 私達自身が「マス」な存在でなく、「プライベート」な存在になりたければ、これらの根源的な情動のみを刺激する刹那的な情報から身を遠ざけるしかないというのは、恐らく明らかな事実なのである。
 
 つまり、最近は旗色が悪い「思考」させてくれる個別的な情報を求めていくしかないのである。

 本来は、テレビや新聞から身を遠ざけていた人々が個別的な情報を求めていたインターネットが、もしもそうした「無意味な情報の格納庫」になってしまうのであれば、それこそ「価値を減ずる」というものだと私は感じる。

 勿論、情報量の多さからして、そうした「マス」な情報とそうでない情報が混在するのがネットという存在であるから、何が流されていようと気にしなければ良い、という発想もある。

 テレビ同様に、パソコンの電源を切ってしまえば、私達の目には何も入らない。ある意味、こちらの趣味によって、情報の集積地であるポータルサイトを選べば済むことなのかもしれない。

 しかし、私達はこうやって永遠に「余分な情報発信源」から逃げ続けなければいけないのであろうか?
 何だか「性質の悪い噂好きの友人」につきまとわれているような状況と似ているような気がしないでもない。

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 ある意味、これだけは事実だと思うことがある。
 どのような情報伝達手段が生まれようと、私達の求めるものが同じである限り、そこに存在する情報の質は何も変わらない。
 今の社会がこうであるのは、私達の精神の総和の具現化である。
 誰のせいでもないのだ。

 私達が、何かを求める限り、それを与える人は出現し続ける。
 それが、ある面では、ビジネスというものなのであろう。
 それを防ぐためには「ノー」であるものには、きちんと「ノー」と言い続けないといけないのかもしれないが、それは極めて難しいことである。

 *本書
エモーショナル・ブレイン―情動の脳科学は過去の感情にまつわる研究を総括したものです。
 私達の感情が、基本的な情動に比べてより高度な働きで成り立っていることを知るのに役にたつ本だと思います。
 そして、私達の行動の多くが「感情に支配されている」揺るぎない事実を知るのにも役に立つのかもしれません。
 そのことを忘れた人で、過去に成功した人を私は知りません。
 皆様はいかがですか?


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