誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論

 押していいのか引いていいのか分からないドア。
 オフィスで電話がかかってきた時に保留をしようとしても、誰もそのやり方が分からない電話。
 マサチューセッツ工科大学の工学博士の学位をもっていても使いこなせない(というより使いこなす気になれない)オーディオセット。
「あらゆる種類の繊維を上手に洗濯できる」
はずなのに、コントロールパネルが複雑すぎて一種類の機能しか使いこなせない洗濯乾燥機。
 遊びに来た友人に、あらかじめ詳しい使い方を説明しないと彼女をやけどさせてしまいかねない最新式のシャワーの「混合水栓」。

 多機能の電化製品や、個性的なデザインの建築物が増えている。
 それに伴って、通常の私達の常識では理解できない使用法を必要とする製品がどんどん増えた。
 これは、もはや、機械オンチ・タイプの人やご高齢の方などだけの問題ではない。
 例えその機能があっても「面倒だから」「必要がないから」という理由で使っていないことは誰にも覚えのあることだ。

  ********************

 「使い方が分からない」程度のことならいい。
 実のところは、あらゆる事故の中で、家庭内の事故は、交通事故と同じ位の発生率に上っているのだ。

 特に、幼児やご高齢の方が被害を受けやすい。
 2002年の厚生労働省の統計によると、家庭内事故による死亡は11109人であり、交通事故死の11743人とほぼ同数である。
 しかも、65才以上の高齢者に限ると家庭内事故による死亡は交通事故死のおよそ1.7倍にも上っている。
 ところが、1992年の同じ統計では家庭内事故死(6560人)は交通事故死(15828人)に比べずっと少なかった。
 家庭内事故は、何故だか増加の一途をたどっているのである。
 
「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」などの言葉が叫ばれるようになったにも関わらず、これは一体、どうしたことであろう。

   *************************

 日本の家屋は、近代化の一途をたどっている。
 それと共に、お洒落なデザインの家も増えた。段差のあるリビング。螺旋階段のある家。こうしたものも、良く考えた結果取り入れれば、生活に潤いとアクセントを与えてくれる。
 しかし、「ついうっかり」が大きな事故につながるような構造である時、そのお洒落さが命取りになりかねないのだ。
 家というのは、基本的に、たまたま夜中に起き出して、寝ぼけて歩いていても怪我をしないような構造でなくてはいけないのだ。

  **************************
 
 電化製品も同様だ。分かりやすいボタンがはっきりとした文字の説明書きとともに並んでいるタイプのものより、フォルム優先の「一見、何の機械か分からない」インテリア性の高いタイプのものが増えた。
 実際のところ、部屋に置くものに関しては、私自身がこうした「お洒落なタイプのもの」にどうしても目が行きがちである。

 逆に、「これは潜水艦の運転装置?」と思わせる、意味もなく大量のボタンが並ぶ、物々しくてカッコいい電化製品も多い。

 しかし、人間の視覚と機能の限界を考慮せずにデザイン性だけを優先された製品は、私達の毎日を小さなイライラと、場合によっては大きな危険に陥れる。

 実のところ、デフォルメされた個性的なデザインのものでも使い方が一目瞭然でわかる場合もあるし、コントロールパネルに詳しく色々な文字が書き込んであっても、かえって分かりづらいものものもある。
 勿論、その逆もありうる。
 その違いは、ひとえに作り手が使い手のことをどれくらい考えているかに依存するのだ。


最新人気blogランキング!


 本書によると、こうした日用品のデザインに最も大切なのは可視性(visibility)であるという。 つまり、目で見てすぐに使い方が分かるということだ。
 この可視性は、実のところは「お洒落さ」と両立する
 本書の著者は、こうした優れた可視性をもつデザインを「自然なデザイン」と呼び、工業デザインにおけるもっとも重要な要素と定義している。

 例えばドアの取っ手にしても、ほんの少しの位置や傾きで、そのドアが押すものであるか引くものであるかを人々に認知させることが出来るという。

 ご存知の方も多いとは思うが、こうした事物の明瞭な使用目的が私達にはっきりと分かるような特徴をアフォーダンスという。
 ガラスは透明で向こう側が透けて見えるものであるとか、椅子は「これが座るものである」という風に見えなければいけないなどの基本的なモノの特徴のことである。

 そうした分かりやすい特徴を有した製品、つまりモノとしての概念モデルがしっかりしている製品こそ、私達が安心して愛用できる製品なのである。
 お客様が「これは椅子なのかテーブルなのか分からない」と感じて、座るのをためらう椅子というのは、明らかにアフォーダンスが悪いのである。

  *************************

 発売されては消える新製品の洪水の中で個性を際立てようとするあまりに、こうしたモノとしての基本がしっかりと出来ない製品は、いずれ消えゆく運命にあると思って間違いがないのである。

 逆に、どのような奇抜なデザインでも、私達の意識の中にある概念モデルにきっちり適合していれば、それは生活に潤いを与える「楽しい」仲間になり得るのである。

  **************************

 可視性が大切であるからといって、物事の軽重に関係がなく、何でも目に見えるデザインというのはやはり使いづらい。

 エレベーターの「非常ボタン」は、赤や黄色のボタンに分かりやすく文字で「非常ボタン」と記されていなければ、いざという時に役に立つことは出来ない。
 逆に、めったに使わない機能に関しては、それを必要とする人が説明書を読めば分かるようにすれば良いわけである。
 
 全ての機能を「目に見えるもの」にするために全ての機能をボタンにしてコントロールパネルの前面に大量に並べてしまったら、かえってまごついてしまうことは間違いがない。
 
   ************************
  
 可視性の次に大切な機能はフィードバックである。
 これは例えば、ボタンを押したら、その感触がしっかり指に伝わるようなデザインであるようなことを指す。
 持ち運びの利便性は別として、フラットなカード電卓より、ボタンのついた大きな電卓の方が使い勝手がいいのは明らかである。

 人間のエラーを誘うデザインというのは、可視性が悪い、フィードバックがない、それから我々の一般的なその製品のイメージから、極端に概念モデルがずれているデザインであるということが言える。
 
 もう一つは、製品全体の操作の方法に整合性がなく、ひとつの機能から他の機能を想像することも出来ないような仕組みというのも挙げられるであろう。
 

  ****************************


 複数の似通った行為を同時に行なうように要求されたために生じる人間のエラーをスリップという。

 たとえば、紙にかかれた数字の羅列を見ながら、まったく別の数字から成る電話番号をかけるところを想像していただきたい。
 多くの人は、うっかりと、間違い電話をかけてしまうだろう。

 似通ったもののうちから、ひとつのものを選び出す時に間違ってしまう行為もスリップである。これに関しては、絵本
ウォーリーをさがせ!をイメージするといいかもしれない。

 コントロールパネルに必要以上に並んだ大量のボタンは、この「スリップ」を私達に引き起こすのに「最適な」環境であるという。
 つまり、大量のボタンから、正しいボタンである「ウォーリー」を見つけ出すような行為と化してしまうのである。

 著者によると、人間のエラーの大半は、このスリップによって起こり得るという。つまり「うっかり間違い」である。
 世の中には、「うっかり間違いにこそ私達の深層心理があらわれる」というような考え方があるようだ。
 しかし、実のところ日常レベルのスリップというのは、本当に単純な理由で起こり得る。
 私達の日用品は、頭を悩ませるような使い方を要求するものであってはいけない。一時にたくさんの物事を処理するような状況でも、何も考えずに使えるものが理想的なのである。

 *********************

 それでは、エラーを回避するデザインとは、どんなものであろうか?
 第一に、以上に述べた可視性などの「使いやすいデザイン」の条件を満たしていることが挙げられる。
 次に、エラーを避ける機能が付加されていることが必要である。

 エラーを避ける機能の最も重要なものは「強制選択機能」である。
 これは、危険な行為に至るまでに、あるステップを踏まないと次に進めないようにする仕組みを付加することであるある。
 著者らはその具体例として、例えば、車のエンジンがかかっている時しかサンルーフを開けることが出来ない仕組みなどを挙げている。
 
 逆に、その辺にあるボタンをうっかり押したらたちまち全部のデータが消去されてしまうような、強制選択機能ゼロな製品は私達は恐くて使うことが出来ないのである。

 もうひとつは、物理的な制約である。
 危険を回避するためにわざと使いづらくするわけである。
 例えば、子供が触ると危険なスイッチを高いところにつける。
 部品を的確な部位にしかはめこまないように様々な差込口の大きさに変化をもたせるなどの方法である。

 しかも、これらの制約は、使い勝手に大切な「可視性」と両立しなければいけないのである。
 つまり重要ななものが目に入るが、容易にそれが使用されないような仕組みである。
 エレベーターの非常ボタンに、透明なプラスチックのカバーがかけられているのは、この可視性と物理的な制約という矛盾した相反する要素を両立させた具体的な例であるように思う。

  *************************

 私達の身の回りにある工業製品のうち、私達を危険な事故に結びつける商品とはいかなるものであろうか?

 それは私達のメンタルモデル、つまり、私達がその製品に持っている素朴なイメージに反する使い方を要求する製品である。
 一般に「ミス」というのは、すべからくそれを犯した人の個人的な資質に帰されがちである。しかし、実のところは誰もが余程注意をしないと「ミス」を誘発しやすい製品や状況というのは存在する。

 この私達のメンタルモデルというのは、いわば「思い込み」である。
 昨日まで押すタイプだった職場のドアが、引くタイプのドアに取り替えられてしまったらどうだろう。恐らく殆どの職員が、ドアを押してみて「開かない」と苦情を言うかもしれない。

 実のところ、私達が日用品を用いるときには、論理的な推測よりは、過去につちかった「この商品はこのように使うはず」という思い込みが大きな要素を占めているのである。

 こうしたことを考えたとき、例えば工場の危険作業を伴う機械や医療機器などのデザインにおいて、過去の常識をある程度重んじなければいけないということである。

 突然、「過去の同種の製品がそうであった」のと反対の向きのレバー操作を必要としたり、ボタンの位置を変えてしまったりすることで、取り返しのつかない大事故が起こりかねないのだ。
 
 私達は、これまで使っていた製品の使用経験のフィードバックの恩恵を受けて、その使用法を理解している。
 使い勝手の悪さは改良しなければならないが、この心理に反して完全な改革を行なうのは、極めて危険なのである。
 こうした使用の誤りにより重大な結果をもたらす製品というものは、文化と同じで、これまでの過程を踏まえて徐々に改革されていかなければならないのである。

 勿論この鉄則は、これは日用品にも当てはまる。

   ************************

 しかし、明らかに使い勝手が悪い製品には、マイナーチェンジではなく、ドラスティックな変化を必要とすることもある。
 その場合は、以前の製品と使用法を混同しないように、概念モデルをすっぱりと組み替えなくてはいけない
 つまりは、以前の製品と似通っていてはいけないのだ。

 著者らは、そうした優れたデザインの革新として、デジタル時計を挙げている。
 アナログ時計を読むには学習が必要である。
 それに対し、デジタル時計は数字さえ読めれば小さな子供でも時間が分かるという利点があるためだ。
 しかもアナログ時計とデジタル時計はモノとしての概念モデルが全く異なるので、使用法を混同することはない。

 しかし、私は、腕時計に関しては、アナログ時計の方が好きである。
 その理由は、アナログ時計の方が
「あと何分、何時間でどこそこに行かなければならない」
という時間の感覚を視覚的につかむのが容易であるからである。
(すべてに対してアナログ思考なわけではありません)

 恐らく、アナログ時計が消えてなくならない大きな理由は、デザイン性の問題もあるだろうが、機能面に関しても、私と同じように考えている人が沢山いるためであると思う。

 話はそれるが、女性向けのアナログ時計には秒針がないものや、時刻の目盛りが4ヵ所(12時、3時、6時、9時)しかついていないものがある。
 
 恐らく、女性の時計ということでフェイス面をお洒落にしようとしているのだろうが「時間を知る」という基本機能に支障を来たす製品はやはり困るのである。
 可視化しておかなければならない、「時刻の目盛り」という機能を見えないものにしてしまった時計は、私には必要ないのである。
 時計に一番必要なのは、「ぱっと見て時間が分かる」ことなのである。
 つまり私は時計に関しては、「美しいだけで役に立たない」ものは、求めていないのである。

  *************************

 ところが、製品というのは、往々にして、美しいけれど使いづらいものの方が、使いやすいけれど美を犠牲にしたものよりも売れてしまう傾向があるという(勿論両立しているのが一番であるが)
 デザイナーが使いづらいデザインをしてしまう理由は、そこにあるのだ。
 つまり、私達ユーザーの側の意識にも原因があるのである。

 本来は、日用品はマルチタスクに耐え得る単純なものでなければいけない。 デザイナーの主張はその範囲で行なうべきである。
 しかし、製品というのは売れなければ仕方がないのである。
 そのために、フォルム優先で、使い勝手を犠牲にしたデザインが誕生してしまうわけだ。

 私達がものを買う時、機能よりも「美しさ」や「複雑さ」に魅かれてしまう性質があるのだ。
 美しさはともかく、複雑さというのは一体、どういうわけだろう。
 つまり電化製品などに関しては、実は単に使い勝手が悪く必要以上に多機能なだけであるのに、そうしたものほど「立派に思えて」売れてしまうという消費者心理があるというのだ。
 つまり複雑なものほど、立派に見えてしまうわけだ。

 デザインが向上しない別の要因は、私達が機械を使用しているときに度重なるエラーをした場合は、その機械が悪いというよりは、「自分が使い方を間違えた」と考えがちな責任追及を自己に求める心理のせいだという。
 そのために、使い勝手が悪いという事実が、製造者の耳に届きにくいという事実がある。
 これは恐らく、パソコンのような、やや複雑だと受け止められやすい機械ほどそうなりやすいと推測される。
 もっと単純な道具であれば、明らかに「使いづらいのは道具のせい」とはっきりと認識出来るであろう。

   *******************************

 デザインは、私達の生活を快適にするために存在している。
 しかし、時にはデザイナーたちは、空間を微妙に居心地悪くすることを意図的に行なうことがあるという。
 つまり、ファーストフードの店なのでわざと座り心地の悪い椅子を置いたり、落ち着かないインテリアを採用したりして、客の長居を防ぐやり方である。

 このように意図的に「すこしだけ不快」にする場合はまだしも、意図しないままに何だか不快な空間を形成してしまうことが私達にはある。そうしたことは、現代人の疲労を増幅する大きな要因となり、更なるミスを呼ぶ。

 たかがデザインと思う人もいるかもしれないが、されどデザインなのである。


著者は、「使いやすいデザイン」に関する認知科学の権威です。使いやすいデザインに詳しいだけでなく、この本自体が極めて明快で、とても分かりやすい点がさすがです。
とても有名な本なので紹介するのもおこがましいと思いましたが、このジャンルに興味をお持ちの方で、まだお読みでない方には、本当にお勧めです。
この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!



元祖ブログランキング ほかのブログも見てみたい!