女の能力、男の能力―性差について科学者が答える

 本書の原著のタイトルは、「性と認知(Sex and Cognition)」である。
 この邦訳のタイトルを眺めただけでこの問題の取り扱いの難しさが一目瞭然で分かる。
 このタイトルを「男の能力、女の能力」と逆にした時点で、恐らくクレームが来ることは間違いがないのだ。

 脳の男女差は存在する。
 しかし、それは故意にゆがめられて伝わっていることが多い。
その理由は、こうした情報はとかく興味本位で面白おかしさ優先に扱われやすいからだ。
 そうだったら、そうした研究をしている専門家が、きちんとした知識を伝える努力をすれば良いのだが、そうしたことに精通しているほど、自分が男女差別の片棒をかついでいると思われることを恐れて口をつぐんでいるような気がしてならない。

 男女の脳の性差として男性が優位であるものとして、空間認知力のうち心的回転能力と呼ばれるもの、計算を除く数学的思考力、標的狙いなどがある。
心的回転能力というのは、図形を別の角度から見たとき、もとの形を推論する能力のことである。標的狙いというのは、ダーツを命中させたり、キャッチボールをする能力のことである。

 女性が優位であるものは、観念的なものを言語化する能力、大量の図形から同じものを見つける能力、および左右の聴覚の弁別能力などがある。
 左右の聴覚の弁別能力とは、右の耳と左の耳で違う音や会話を聞いた時に、それを聞き分ける能力のことである。
 
 性差のないものとしては、語彙、推理能力(視覚、言語ともに)などが挙げられている。

 このように淡々と書き連ねると、「別に差別的ではないのでは?」という気がしてくる。
 しかし、過去にはこれらのことを口にすること自体が、「女性の地位の低下につながる」として猛反発を受けてきた歴史がある。


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 私が過去にインターネットや雑誌の上で見かけたありがちな脳の男女差についての誤りを列挙しよう。
 個人攻撃になるのはいやなので、出典は明記しないがご了承いただきたい。

:「男性は左脳が優位であり、そのために論理的思考に長けている」
:「男性の多くは右脳優位であり、そのために空間認知力に長けている。」

 この誤りは、二重三重の意味で誤っている。
 厳密にいうと論理的思考力と脳の左右差はあまり関係がない。

 それから、論理的思考力という意味が曖昧である。
 「論理的思考力」というのを、「観念を体系だてて言語化する」という能力という意味に捉えると、それは一般的には女性の方が優れていると考えられている。
 しかし、「論理的思考力」には非言語的な数理的思考力も含まれていると考えると、右脳と深く関係している。
 その理由は、数理的思考力に空間認知力の助けが必要なためである。
 そして男性は、その右脳が優位なのである。

 
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 多くの男性は、脳を含め、右半身の方が発達している傾向がある。
 これは男性ホルモンの作用と考えられている。男性ホルモンは、脳を含めた右半身を発達させる作用があるらしい
(注:男性ホルモンは、純粋にすぱっと体の右半身に作用する。運動野、感覚野と身体の機能の交叉性はここでは全く関係ない)

 女性いっぱんに脳を含めた左半身が相対的に優位である(大きさの面でも)。ところが、他の女性に比べて脳を含めた右半身が優位な女性は、男性的な能力に優れる。
 男性の中でも左半身が優位な人は、女性型の知能を示す場合が多い。

 上記の事実は、「右利き」の人の場合であり、左利きの人の場合はそれと反対になる。

 しかし、竹内久美子の
シンメトリーな男に面白く描かれているように、
「女性はなるべく左右対称なパーツをもつ男性に魅力を感じる」
とも考えられている。
 この本の視点は、「寄生虫からの攻撃がない」など健康面からの観点を主に論拠にしているようだ。

 左右対称のパーツをもつということは、上記の理論からいうと、男性ホルモンが極端に高くない人ということになる。
 そして、男性ホルモンが極端に高くない人の方が、男性型の知能面で高い能力を示すのだ(後述)。
 そう考えると、女性が男性の体の対称性に自然に惹かれるというのは、中々辻褄が合う結果なのである。

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 ちなみに厳密に言うと、男性が女性より全ての空間認知力に優れているわけではない。空間認知力のうちでも、男性が特に優れているのは三次元的な立体認知や、動的な物体の認知力などである。
 平均すると、男性が女性よりも標的あてや車の運転が得意なのはこのためだ。

 同じ空間認知力でも、女性は、静止している空間の中でのものの位置や配列を覚える能力が男性より一般に優れていると言われている。

 ちなみに、個人的なことになるが、私は子供の頃から「神経衰弱」がかなり得意であった。
 トランプをめくって、同じ数字を合わせるあのゲームである。
 少なくとも、男の子と勝負して負けたことはない。

 何が言いたいかというと、これは実は、ものの配列を覚えるのが得意な女性的な能力の結果であるらしいのだ。

 しかし、大人になってある理系の男性と、「神経衰弱」の勝負をする機会を得た。
 その方は、かなり神経衰弱が強く、私と緊迫したゲームであり、私の自信を打ち砕くのに十分であった。
 恐らく、ものの配列を覚える手法にも幾通りかの方法があり、基本的な脳の機能を踏まえて個々の人間がそれを最適化しているのだろう。
 であるからして、男性がものの位置を覚えられないということはない。

 従って、「探し物」は、ご自分でやっていただきたいのである。
 彼らには、十分にその能力を代償する力が備わっている。

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 おそらく、この誤りを記載した人は
「男性は頭がいい」ということが単に言いたかったのだと思う。
そのことと、左脳が考える脳であるという誤解が相まって(非言語的能力を軽視して?)このような結論に至ってしまったのであると思われる。

 ちなみに男性は、非論理的なわけではない。
 正確にいうと非言語的思考においては論理的なのだが、それを言語に変換する能力において、平均的な男性は、平均的な女性に比べて劣る可能性がある。
 しかし、これは、学習によってカバーできる。
 大人の男性の多くは、極めて論理的な文章を書くのはこのためである。

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 同種の誤りというか、意味不明な表現として、
「女性の方が感覚的である」というのがある。
これに関連して、「女性は右脳優位である」という明らかな誤りも結構見かける。
 やはり、まず第一に、「感覚的」という言葉自体が曖昧である。
 また、男性の方がむしろ右脳優位な非言語的能力が優れているという点から考えると、男性の方が感覚的だということになる。
  
 女性のほうが聴覚や色の弁別能力などの感覚が優れているという意味であるなら厳密には誤りではないが、それなら「感覚が優れている」という表現がふさわしいだろう。

 これは恐らく、「女性は非論理的である」というように柔らかく揶揄しようとした結果、こうした表現になったのであろう。
 実のところは、論理的能力(特に抽象概念を言語を介して表現する能力)は一般に女性の方が優れているとされている。
 
 もしくは、これは、男性から見た異性としての女性の神秘性を褒め称えようとした結果、こういう表現になってしまったのかもしれない。何故なら、女性サイドから見ると、「男性は感覚的(悪い意味ではなく純粋に誉め言葉として)」に見えるからである。

 
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 ちなみに、空間認知力の性差は人種によって違いがあることが分かっている。
 イヌイット(エスキモー)の女性の空間認知力は男性よりも優れているらしい。
 それは、彼(女)たちが、あまり目標物のない広い空間で移動しなければいけない生活を長年続けてきたためだと言われている。
 

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:「男性ホルモンが多い人の方が男らしい」
:「男性においては、男性ホルモンの値が低い人の方が、男性的な知能(空間認知力、数学的思考力、地誌的な能力など)が明らかに優れている」

 この話題に関しては、以前の記事テストステロンでも取り上げた。

 「ホルモンの変化による知能の変化」というと、とかく女性のことが取り上げられがちである。
 実は、そのこと自体に関しても、多くの誤解(しかも女性を揶揄するための)が蔓延しているが、かなり長くなるので別の機会に譲る。

 話を男性と男性ホルモンの関係に戻そう。

 男性も、男性ホルモンの日内変動や季節性変動の影響を受けている。
 テストステロンレベルは一般に朝が一番高く、日中に至ると徐々に低下する。
 季節で言うと、春にもっとも低く、秋に高くなる。
 
 ところが、空間認知力や数学的思考などの男性的な能力は、このテストステロンレベルに反比例する。
 つまり、一日のうちでいうと昼間、季節で言うと春になると、男性の空間認知力や数学的思考力、地誌的能力は最大になる。
 いずれも男性のテストステロンレベルが最低になる時期である。

 このことは、個人レベルでも明らかであるらしい。
 つまり最も男性的な脳の働きを示す人は、男性としてはテストステロンレベルが低めな人である。

 この知見は、「最も誤解されて引用されやすい」と著者自身が述べている。
つまり、「春に男性的な知能が活発になるのは男性ホルモンレベルが高くなるためだ」というような感じで記されることが多いと思う。

 これに関しては、恐らく「人間の素朴な心理」と学問的事実が解離しているためであると思う。

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 これに関しては、昨日の記事で取り上げた誰のためのデザイン?の著者が人間のエラーの例として、「アリストテレスの素朴物理学」という内容で取り上げている。
 つまり、人間は思い込みにによって、科学の本質を見失うことがあるのだ。
 
 逆に女性の中では、女性としては男性ホルモンのレベルが高値の人が、男性型の脳の働きを示すことを追記しておく。

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:「男性の方が数学的能力にたけている」
:「男性の方が数学的概念や空間認知を必要とする数学的能力に長けているが、計算能力は女性の方が長けている。」

 これは本質的な意味としては、誤りとは言えない。
 普遍的な数学的思考力の平均値は、男性の方が有意に高いからだ。
 しかし、これは、現実の世界で起きていることを無視している。

 実のところ、意外なことに、学校レベルでの数学の成績が女性が優位であることは、実のところは人種や国を問わず、明らかな傾向であるらしい。
 ところが、本質的で純粋な数学的能力を示すテストでは男性の方が平均点が良いのである。
 これは一体どういうことであろうか?

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 まず第一に、基本的な「数のモジュール」といわれる数の概念は左脳にある。
 この数のモジュールは、せいぜい手指の範囲の数を数える能力であり、数学的能力に直接の関係はない。しかし、脳のこの部分(左頭頂葉)は、数のモジュール以外の計算能力にも関与している。
 そして女性は、左脳が相対的に優位であるのだ(正確に言うと、左右の脳の差が少ないために、通常右脳優位になっている男性に比べて左脳が優位になっている)。
 女性が計算力において優れているのは、理屈にあうのだ。
 従って、「代数」や「数列」的な思考においては、女性の方が優れているか、もしくは男女差がない可能性が高い。

 総合的な数学的思考力には、空間認知力の助けが必要である。
 特に畿可の分野ではそうである。
 空間認知力は、右脳が司っている。
 従って、図形が関与する分野においては、平均的な男性は平均的な女性よりも、圧倒的に得意なのであるのである。

 ちなみに言語的能力と数学的思考力は、厳密に言えばいうほど何の関連もない
 非言語的論理性と言語的論理性は、別個の能力であると考えられる。
 両者が高い大人(男女を問わず)というのは、訓練によって恐らく両者を統合しているのだ。

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 興味深いことに、言葉で書かれた文章題を数式に直す能力は、一般に男性の方が高いと言われている。
 女性は「抽象概念を言葉に直すのが得意」であることと矛盾するようだが、「数式」という記号学は一般的な言語とは違う体系の概念であるらしい。
 一般的な男性は、抽象概念を、感情を介ずに記号のように単純化してとらえる能力が極めて高いのかもしれない。
 言語というのは、事実に感情や経験などを総合した表現だからである。

 逆に言うと、女性は、脳梁という、左右の脳の連結をしている部分が発達している。また、左右の脳の機能的な分化がはっきりしない。
 そうした解剖学的および機能的な特徴により、女性は脳を全般的に同時に活動させることが得意な可能性があるのだ。
 従って、自分が過去に得た全ての知識や経験をフルに統合・利用して考えるという思考パターンをとる能力が高い可能性がある。
 それが、「記号化」「単純化」という作業において逆に妨げになる可能性があるのである。何故なら、脳の一部分を特化して働かせるためには、全般的な機能はお休みさせた方が良い場合が多いからだ。
 
 
 その結果、より純粋に数学的な分野になるほど(つまり学年が進むほど)、総合力では、一般的には男性が勝るという結果になるのである。
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 ところが、この結果はテストには反映しないことがある。
 先ほど述べたように、学校レベルでの数学の得点の平均値は、女性の方が高い。
 これは、女性が勉強家なためと考えられてきたが、それだけでは説明出来ない。
 むしろ、「一度解いたことがある問題」には女性が強く、男性は「一度も見たことがない数学の問題でも解くことが出来る」ことと関係があるようだ。
 これは、女性が数学を言語処理能力の助けを借りて解くことと関係があるのかもしれない。
 もしくは、数学のテストが「ペーパーテスト」であることと関係があるのかもしれない。
 
 いずれにしろ、同じ作業をこなすために複数の思考パターンをとることが出来ることを忘れてはならない。
 人真似でない、自分なりのやり方で遂行すればいいのだ。

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 いずれにしろ、少なくとも高等学校レベルの数学まででは、男女を問わず、本質的な数学的能力の有無を別の力でかなりカバーできるようだ。
 このことに関しては過去記事なぜ数学が「得意な人」と「苦手な人」がいるのかで考察した。
 著者は、このことより、「本質的には男性の方が数学的能力が高いが、一般の職業レベルの面に、この結果が結びつくとは必ずしもいえない」と結論付けている。
 「本質的な」という意味は、数学的能力を計算力ではなく、空間認知力を含めた非言語的思考力全般ととらえるという意味である。

 ちなみにこの数学的思考力(本質的な意味での)の男女差が最も大きいのは白人であり、最小なのはアジア人であるという。
 つまり、アジア人においては数学的能力の男女差は少ない。

 先ほどの空間認知力におけるイヌイットの例もあるように、脳の性差に関しては各能力別に、人種差がかなりあるようなのである。

 ちなみに身体的能力と異なり、女性にも男性同様の本質的な意味での数学的思考力を示す場合もある。
 これはあくまでも、得意な人の割合の話をしているのだ。

 むしろ、女性が職業としてこうした能力を生かすものを選ばないのは、もしかしたら女性がモノより人に関心を示す傾向のせいかもしれないといえるのかもしれないと著者は語っている。

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:「女性の方が言語的能力にたけている」
:「女性の方が左右の脳の分化がはっきりしないため、左脳にある言語野が障害された時に回復しやすい」

 実のところは、総合的な言語性IQ には男女の差はないと考えられている。
 言語能力の中で女性が優れているのは、言語流暢性言語記憶である。

 ここでいう言語流暢性とは、一般に使われているような、「ぺらぺらと流暢に話す」というような意味ではない。限定された条件で文章を作ったり、aから始まる単語をどんどん思い出すなどの能力である。

 言語記憶とは、つまり、女性は何かを覚えるときに「何でも言葉に直して覚える傾向がある」という意味だ。
 つまり、道順を覚えるときに目標物の「名前」を覚えたり、少し前に入った部屋にあったものを思い出すときに、「写真をとるように」ではなくものの名前や位置関係を言語化して覚える傾向がある。
 また、一般に女性は、観念的な思考を言語化する能力に優れていると言われている。

 それに加え、言葉という意味とは少し離れるが、女性は一般に色の識別能力が高いとも考えられており、従って、色に関するネーミングや単語を想起する能力に長けていると考えられている。

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 これに関しては、ちょっと学問のレベルからやや離れて、個人的感想を。
 
 私には「同時通訳」の仕事をしている女性の知人がいるが、私の知る限りでは職業として「通訳」をやっている人は女性の方が多い。
 これは、「限定された条件での言語流暢性」と関係があるのだろうか?

 ところが、書籍の翻訳に関してはそのようなことはない。
 調べ上げたことはないのだが、むしろ男性の方が多いような印象がある。
このことは、総合的な言語能力には男女差はないということの現われなのだろうか?
 この点に関しては、もう少し調べてから記事にしようと思っていたのだが、時間がないので今回はこれくらいでお許しいただきたい。

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 恐らく、性差に関する議論が避けられている最大の理由は「平均」「傾向」ということを強調するあまり、それにあてはまらない個人が不利益を受けることを人々が恐れるからであろう。

 確かに、それぞれの男性優位・女性優位の能力は、私達が考えている以上に、お互いにオーバーラップしている。
 人々が恐れるのは「平均」について語ることで、そこから逸脱している人の人生の機会を奪ってしまうことなのだろう。

 しかし、「性差」の研究は、実のところ私達の人生にとても役に立つ。
 本書の著者は、
「性差の研究の基盤がなくては、同性の中でのより男性型・女性型の能力を示すような、個人差の研究を始めることが出来ない」という意味のことを語っている。女性でも極めて男性型の人、男性でも女性型の人の個性を生かすためにも、まず雛形をきちんとさせておく必要があるというわけだ。
 つまり、まず一般論がしっかりしていなかったら、個別の論議には入れないはずなのである。

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 脳の性差に関する知見は、タブー視されやすい分野である。
 学問の世界はともかく、社会的には「まるでそれが存在しないかのように」振舞われやすい。
 その理由は、恐らく性差の研究が「女性がいかに男性より劣っているか」という視点で扱われやすいためであると思う。

 実際に、雑誌の恋愛特集や、年配の男性が社会の枠組みを維持するための論拠などにおいて、この性差がいい加減に、もしくは意図的にねじまげて引用されることが多い。

 反面、明らかな事実である性差を医療や教育の現場に生かしていこうというまじめな発言が「差別的だ」と猛攻撃されてしまう場合もある。
 極端に男女を同じように教育しようとすることで、かえってそれぞれ能力をつぶしてしまう可能性も否定できない。
 最終到達目標は同じでも、指導法を変えることで、容易にそこに達することが出来るかもしれないのだ。
 
 しかし、あくまで「平等」を「同じ条件」と考える人も多いようだ。
 そうした人は、「よーいドン」で一斉にスタートを切って、相談しながら同じスピードで走って、同時にテープを切るようなマラソンをやろうとしているのだろうか?
 発想としては、スポーツで言えば「マラソンがだめなら、野球をやろう。それがダメなら水泳を…」くらいで丁度良いと思う。
 何が何でも同じ土俵で競おうとするのが土台間違っているのだ。

 「公平」ということを「同時性」とか「ケーキを二等分する」ような行為ととらえている人は、逆に人間の個性に関して侮蔑的な考えをもっているとも考えられる。

 選択の自由と真の個性尊重という観点を忘れてはならないと思う。

 誤解が蔓延している限りにおいては、ちゃんとした考えをもった人ほど、この問題について口をつぐんでしまうはずだ。
 その結果、都合の良い理論をふりかざす人ほど、この話題を好んで口にしたがるということになってしまうのかもしれない。

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 著者であるドーリーン・キムラは、社会的な性差別の廃止のために、明らかに科学的な事実である性差について語ることをタブー視することの愚かさを叫び続けてきた女性科学者である。
 彼女の一貫した主張というのは
「科学的な明白な違いを認めた上で、人間の生きる権利としての平等を保障」
するのが正しいあり方であるというものである。
 
 また、彼女は、職業によって男女の偏りが出るのは、必ずしも男女差別のためではなく、男女の特質の違いだという主張をし続けている。
 「自然科学分野で女性の比率が少ないのは、男女の性差による自然な能力分布の違いによりものだ」と結論しているのだ。
 そのため、何と、彼女は「科学者の立場から性差によるアフォーマティブ・アクションに反対する」立場をとっているのだ。
 ここで注意したいのは、彼女の主張はあくまで、自然な分布の偏りの話であることだ。
 
 個々の人間の能力については、平均にあてはまらない人が多くいるということも同時に明言している。
 どちらかというと、今まで問題視されてきたのは、そうした平均を逸脱した人が迫害されやすい環境についてであったように思う。
 「パーセンテージ」の話題がいつのまにか全ての女性は…、とか全ての男性は…といった全体論に置き換わってしまうのが、この話題の恐さなのである。

 そうした恣意的な解釈が続く限り、性差の学問的価値を医療や教育に生かす社会を形成することは難しいであろう。

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 本書の著者であるキムラ博士の「アフォーマティブ・アクションに反対する姿勢」は、「変なハンディをつけない方が、逆に真の機会均等が進む」という思想に基づくとも思われる。
 これは勿論、旧態然とした、「門戸を閉ざす」という発想ではなく、あくまでも比率の問題についての議論である。
 繰り返すが、
平均的な男女の間で性差が生じている分野で人数の片寄りが出るのは仕方がない
 ということを主張しているのだ。
 例え少数派であっても、平均とは異なる能力・志向性を示す人に対してまで、一律な決め付けや思い込みで排除して構わないとう意味ではない

 しかし、恐らくその点がうまく伝わらず、人によっては許せない視点だとみなされているのだろう。
 それは彼女の科学的視点のせいではなく、こうした議論を都合よく利用しようとする社会的な力のせいであるのは明白である。
 事実そのものは、本来は糾弾の対象であってはいけない。

 これらの空間認知力や言語的能力の事実の表面をなぞって、例えばであるが、
「女性は科学者になるな」
「男性は作家になるな」
と言う人がいたとしたら、あまりにも短絡的であろう。
 後者の意見はめったに聞いたことがないが、前者はしばしば耳にする意見である。
 何故だろう?
 恐らく、性差の知見のうち「女性が一般に劣っている部分」が大きく取り上げられがちなためであると思う。
 
 しかし、
「自分の個性を見極め、それにふさわしい科学者や作家になる」
というのならば、性差の問題を離れた真実であろう。
 何故なら、同じ肩書きの職業でも、色々なアプローチの仕方があり、成功の手段は一つだけではないからである。

 自分なりのスタイルの確立というのは、どのような職業を選んだとしても、それを実りあるものにさせる鍵ともいえる部分だ。
 それは職業選択そのものよりも、むしろ重要とさえ言えるのかもしれない。
 

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 今までの平等論のあり方というのは、
「男女が平等であるためには男女の根源的な能力差はないものとして取り扱う」という観点から成り立っていた。
 これは、「男女の性差(特に脳に関する性差)からは、男性が優れているという結論が導き出されている」という誤解に基づくものなのかもしれない。
 しかし、実のところは、今まで説明してきたように、男女の脳の性差はむしろ引き分けという結果であり、ニュートラルなものである。

 もうひとつ男女の脳の性差が忌み嫌われている理由としては、
男性的な能力は主に狩りなどの活動、女性的な能力は育児などの能力に役に立つように発達してきたという経緯があるためであろう。
 この点が、脳の性差≒性の役割分化の強化と受け止められ、そう考える人々によって封印されようとしているのかもしれない。

 しかし、現代では、社会的分業の性質も変化し、「外で働く」ということは古典的な狩りの能力と直結したものではなくなってきている。
 それは何も、職業として外で働く場合のあり方も、古典的な男女の役割分担にのっとってやるべきかどうかという、小さな議論ではない。
 同じことをやるにも、個人の能力の違いを生かした道筋というものがある。
 能力を高低という観点からしか捉えられない人ほど、違いという概念に敏感になりがちである。

 しかし、もうそろそろ「自分を知る」ということの原点を考えるひとつの情報という観点からこれらの情報を捉えても良いのではないだろうか。



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