生まれながらに速読が出来たり、一度読んだものを一時一句暗記できたりする人は意外に多い。

 すなわち、本のページなどを写真的記憶で写してしまえる能力のことだ。
こうした能力には、いわゆる「匂いや手触りや色」を伴う「共感覚」(注1)を伴う場合とそうでない場合もあるという。

  しかし、こうした能力は、大人になっても保持できる場合もあるし、
思春期頃に突然なくなってしまうことも多い。

 ここでいう写真的記憶というのは、風景や部屋の様子などの物理的な状態を、言葉になおさずに、絵画的に暗記する能力とは違う意味合いで使っている。
 空間認知力が高い人の多くは、方角や過去の出来事などの物事を非言語的に暗記する能力があるからだ。
 
 あくまでも、文字情報を頭の中に転写するような暗記力のことを語っている。

 しかし、こうした能力をもつ人には、予想に反して、不自由がある場合もあるという。
 そうした方法で暗記したことは、まるでテープレコーダを巻き戻すように、最初の部分から始めないと、記憶がよみがえらない場合もあるのだ。
 勿論本人には非はないのだが、大量の記憶が活用の足かせになってしまうわけだ。

 普通の感覚だと「頭がいい」というのは「蓄えた知識の量」つまり暗記力のことをさすのが普通だ。
 勿論、ある程度の基本的な知識がなければ、思考自体が不可能である。
なので、「知識の量」を否定してしまうような教育はやはり間違っている。

 しかし、学生時代を過ぎてしまうと、「暗記力」のあるなしは、あまり意味をもたないなというのが、私の個人的実感である。つまり、(理想的には)もっと高次の段階に移行してしまうのだ。

 あまりにも必要な知識の量が莫大になり、通常の人間が暗記してしまえる量の限界を超えてしまうというのもその理由のひとつだ。

 
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 つまり、細部を正確に覚えることにこだわるよりは、必要な知識をどこの引き出しにいれておいたかだけを記憶しておく(つまりデータベース化)方が、 大人の学習法としては正解なのではないかと思うのだ。
 むしろ細部が曖昧になることを前提として、それをガードする方法を二重三重につくっておくのが大切なのである。

 ここでいう「データベース化」というのは、既存のデータベースに闇雲にデータを入力して、適当に後でソートしたり切り貼りして活用するという意味ではない。
 自分なりの体系付けをきちんと行なっておき、脳の引き出しに順序良くしまっておくという意味である。

 大量の情報が盛り込まれたプレゼンテーションがかっこいいと思っている人は、案外多いようだが、「だから何?」と言いたくなるようなものでは仕方がないのである。
 そうだったら、少ない知識でもきちんとした基盤に基づいたその人なりの考えを聞きたいと思ってしまうことがしばしばある。

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 知識の活用の面からいっても、必要があるたびにもう一度そこから取り出して参照した方が、正確性も上である。そのことにより、いわゆる「記憶が塗り替えられている」可能性も少なくて済む。
 自分の記憶にある程度(例えかなり自信があっても)疑いを持っていた方が、ミスを少なくすることが出来る。
 この「自分に疑いをもつ」というのは、意外に難しいことなのだ。
 多くの重大な「ミス」「事故」というのは、これが原因で起こっている
 
 しかし、ものすごく簡単な例でいうと、「九九」のように単純な暗記が利便性を高めてくれるような「丸暗記」もある。
 私が語りたいのは勿論、そのような学校レベルの次元ではなく、もっと次のステップのより専門的な段階での「暗記」の話である。

 常時覚えておくことは、ごく日常的に汎用する範囲内に留めておいた方が、むしろ間違いがない。
 ただし、この日常的に汎用する範囲内というのは、長い時間をかけて体の中に自明の理としてしみこませる必要があるので、教育を大切にする必要があるのはいうまでもない。
 体にしみこんでいる、「常識的な知識の量の多寡」が創造的な人間になれる鍵のひとつでもあるからだ。

 ここで肝腎なことは、「一度も目にしたことがない、つまり触れたことのない知識は利用することが出来ない」という厳然とした事実である。
 忘れてしまっても一向に構わない。
 
 しかし、自分に必要な知識をきちんと蓄えた上で、「それを思い出す手段(知識そのものではない)」を確立しておくことは、極めて重要であると思う。

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 ちなみに、写真的記憶が可能な人の中には、「暗記」のみが抜きん出た「サヴァン」的な人から、残りは普通の人、通常の知能もきわめて高い人まで幾段階もの人が存在する。

 写実的記憶が可能かどうか自体は、総合的な知能と何の関係もない。
 従って、この能力がないからといって悲観する必要はない。
 だからといって、逆に、こうした特殊能力の持ち主を色眼鏡で見て差別するのはもっての他である。

 ところで、「写真的記憶」は、実のところは、通常の思考の妨げになる場合も存在するからである。
 (勿論役に立つことがある)
 何故なら、記憶というのはある部分を休ませないと、他の部分を活用出来ない場合もあり得るからだ。

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 記憶に限らず、脳の神経細胞のスイッチは、オンにすることによってではなく、オフにすることが必要な場合もある
 それによって、他の機能を活性化する間接的な手助けをすることが出来るからだ。

 脳のある特定の機能を活発に働かせるには、どのようにしたら良いのだろうか?もっと正確にいうと、脳の局在部位というよりは、脳全体に張りめぐられたある物事に対するネットワークのうち、「たった今自分が必要としている機構」を効率的に働かせるには、どうしたらよいのだろうか。

 それには「いかに不要な神経細胞のスイッチをオフにするか」が鍵となっている。

 ひとつ言えることは、どうやら、神経細胞の機能は、常に全方位でオンの状態にすると、自動的に全般的に機能が停止してしまうという特徴があらしいのだ。
 つまり、燃え尽きてしまって、勝手に抑制系の命令が多く働くようになってしまうのだ。
 つまり、自動的に思考停止の状態にもっていくように働いてしまうのだ。
 これは、私達を守る仕組みともいえる。

 極端な恐怖のもとで覚えたことは、記憶できないという仕組みもある。
 これは、嫌な体験によって心が壊れてしまうことを防ぐためなのであろう。

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 脳を私達に「役に立つ」状態で働かせるには、「調和」が大切である。
 過去記事で取り上げた記憶が嘘をつくの著者コートル博士は、これに関して、四肢の拮抗筋(屈筋・伸筋)の分かりやすい例えを用いて説明している。

 つまり、私達が腕を曲げようとして、そのために屈筋群を働かせようとしているのに、腕を伸ばすための伸筋群も一緒に働かせてしまったらどうなるだろう。
 腕を曲げることは出来ない。
 脳の機能もそれと同様に、「ある特定の記憶の流れ」を利用するためには、他の部分の記憶を休ませておかなければならないわけだ。

 「写真的記憶」の持ち主の一部が応用力の点で困難を極めることがある理由は、彼らが無意味なほどの大量の記憶を脳にとどめることによって、つねに興奮系の記憶のシナプスが全方位に発火してしまうせいだという。

 つまり、特定の必要な部分だけをとりだして、他の機能(思考や感情など)と連携して応用することが出来なくなってしまうというのだ。
 つまり、コートル博士の言葉を借りれば、『認知学の立場から、「写真的記憶」によって脳を空っぽに出来ないことが問題』だというのだ。

 人間にとっては記憶の点でも感情の点でも「忘れる」ということが大切であるという。
 機械のような記憶を求めること自体が間違いであるのだ。
 これは、多くの記憶が「必ず塗り替えられる」という事実と「大量の記憶は思考の障害をもたらす」という観点の両者からいえることだ。

 では、私達は、何も学ばなくて良いのであろうか?
 誤解してはいけないのは、「知識」と「写真的記憶」は全く違う点だ。
 「頭でっかちになると創造性がなくなる」というのは、ある意味間違いだ。
 どのような創造的活動でも、私達は過去の成果を踏まえた上で新しいものを生み出しているのだ。
 「創造性をもたせるために、知識の量を減らす」
という教育はやはり間違っている。
 
 知識というのは、例えて言うなら法律を学んでそれを解釈するような能力であり、写真的記憶というのは分厚い法律の条文を一字一句間違わずに、常に空んじることが出来るような能力である。
 知識と丸暗記は全く違うのだ。
 
 この違いは、誰の目にも明らかであろう。
 つまり、知識とは応用を前提とした「事実の引き出し」を蓄えるということであり、単純な記憶とは異なるのだ。

 

ねこは青、子ねこは黄緑―共感覚者が自ら語る不思議な世界
 注1:共感覚とは、特定の単語や文字を見るときに色がついて見えたり、普通は別々であるはずの感覚がお互いに干渉しあう現象のことです。
 決して病的なものではなく、感覚の個性と思われます。
 詳しくはこちらの本をご参照下さいませ。


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