人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学

       体験モードと内省モード

 人間の認知には多くの種類がある。
 しかし、本書において著者は、「体験的認知」と「内省的認知」に大別して話をすすめる。
 体験的認知は、深く考えることなしに周囲の状況をすばやく理解して行動するような状況のことをさす。
 内省的認知は、思考したり比較対照しながら、意思決定をするような機構だ。

 人間の心的現象は極めて多層的な構造から成っている。
 しかし、集約的に考えると、「自己と他者」というものがどのような割合で、また深度で私達の人生に関わっているかという問題は、私達の知的活動の質を決定する。外的な刺激と、内的な欲求の問題といっても良い。
 知的活動どころか、ごく日常的な活動すらも支配しているともいえる。

 そこで、これらの違いを著者は、思考をあまり必要としない活動を体験モード、思考を経るより高度な人間的活動を内省モードのふたつに分け、それら私達の人生にこのふたつの手法がどのように関わっているかを考察する。


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 体験モードは、ある意味、日常的な行為である。
 たとえば、そこにオーブントースターがある。パンを入れる。焼く。
 この過程で、
「このオーブントースターは、どのような仕組みで成り立ち、私は何をしたら良いのだろう?」
などといちいち沈思黙考しなければならない状況であったら困る。
 何も考えずに(場合によっては説明書を読まずに)身の回りの日用品の使い方を理解し、すばやく行動に移し、失敗なく遂行出来なければならない。

 内省モードは、私達がこうした日常行為や体験、そして蓄積した知識から、それらを統合し、新しいアイデアを生み出したりする行為である。
 つまりは思考の過程だ。
 この思考の過程は、純粋な「個人的な体験」だけでは絶対に成立しないというのが、著者の主張である。
 それには他者の視点というのが必要である。
 
 他者の考えを自分の生活に取り入れるためのツールの開発というのが、テクノロジーの進歩なのである。
 それは、言語、書物、電報・電話、コンピューターという形で、時代とともに私達の情報を拡大させ続けてきた。
 そうした情報の物理的な増大に、私達の生活をどう同調させるかというのが、本書のテーマである。
 もうひとつは、情報の増大を経験の増大ととらえがちな私達の誤った認知機構を、どのように修正するかという問題である。
  
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 私達の生活には、勿論、この体験モードと内省モードの両者が必要である。
 あまりにもごく当たり前の行為(例:パンを焼く、切符を買う、電話をかける)にまで、いちいち過去の体験を統合したり比較対照したりなどの複雑な過程を経なければならなかったとしたら、私達の生活は破綻してしまう。
 
 逆に、人生の重要な岐路に立たされたときや、新製品や新しい学問のアイデアを考えているときには、内省モードの段階が必ず必要になってくるのである。
 
 すばやく考えなくてはいけない時にもたもたするのは困る。
 しかし、きちんと考えなければいけない時に狭い了見のもとにもしくは全く考えることなしに、判断を下すのは危険である。

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 二つのモードの違いについて、著者であるノーマン博士は次のような説明を試みている。
 体験モードは、例えて言えば、腱反射のようなものである。
 腱反射で一番有名なのは、膝の下をハンマーで叩くと、下肢が跳ね上がるアキレス腱反射であろう。
 つまりはこのような刺激に対して高度の思考の介入なしに起こる反応である。
 日常生活のありふれた行為は、このレベルで成り立っているのが普通である。

 それに対して内省モードは、より高度の脳の情報処理機構を通じて、事物の価値を判断するやり方である。
 私達の社会生活の多くはこの内省モードなくしてはあり得ない。

 ところで、体験モードには、もっと高次の段階である、「エキスパートの体験モード」というべきものがある。
 つまり、パイロットの操縦や医療行為のように、本来膨大な知識と複雑な思考を伴う行為をすばやく行なわなければいけない次元のものである。
 
 こうした現場では、本来複雑な過程であるものを短時間でやすやすとこなさなければいけないのだ。
 まるで、周囲も自分も「何も考えていない」と思えるほどに…。
 つまりは、あたかも普通の人が歯を磨くような感覚で、日常的にこうした次元の高い行為が行なえるように訓練するのである。
 
 間違ってはいけないのは、こうしたことは、曲芸を覚え込むような行為ではないということだ。

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 こうしたより高度なスキルの育成には、体験モードと内省モードの両者を融合させた積み重ねが必要である。
 つまり体験の上に思考を積み重ねて、その判断の速度をどんどん速めていく行為である。
 
 この過程において、著者は、少なくとも三つの段階が必要だと規定した。
 
 蓄積調整再構造化である。

 

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 蓄積とは、知識を蓄える段階である。
 一般に、学校教育というのはこの段階を行なっている過程であろう。

 次に調整。これは、パイロットであれば飛行訓練を行なうような、得た知識を行なう実技の段階である。
 これは、主に体験モードの過程である。

 最後の仕上げが、再構造化である。この過程で私達は、過去に得た知識、調整(実技の訓練の過程)の全てを自らの思考の中で統合し、もっともより良い形で真の能力として保存する。
 この段階で、最も重要なのは「内省モード」である。
 そして実のところは、この段階まで至らない限りは、「真に有能な人」とはいえないのである。
 
 この段階まで至らず、「調整」つまり技能を磨くだけの段階でも、ある程度の能力を発揮できるかもしれない。
 しかしその段階で終わっている人は、より高次のトラブル≒不測の事態に対応できない。
 真のエキスパートになるには、必ず内省モードにより、過去の自分の知識や経験の全てを消化しなおさなければならないのだ。
 著者は、決して体験的認知がとるに足らないと言っているわけではないということを強調している。
 「どのような体験的認知も、適切な比率の内省的認知の助けがなければ、決して身につくことはない
ということを言っているのだ。

 それが欠如もしくは不十分であると、自分の能力を見極めることが出来ず、過剰なまでの「全能感≒優越感」に捉われやすい。この全能感というのは、往々にしてミスやトラブルの原因になるのだ。

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 そして、私の経験では、この全能感というのは、経験が浅く十分な内省モードの助けを借りて技能が消化されていない段階で起こりやすい
 つまり、もっと簡単に言うと、問題は、経験が浅いこと自体ではなく当人にその自覚がないことなのだ。
 
 経験の浅い人ほど、一般に自分の体験の総量を大きなものとしてとらえてしまう。それはその先に、どれだけ広大な未知の分野が広がっているかを知らないためともいえる。
 小さな子供は皆「僕(私)ひとりで何でも出来るよ」と誇らしげに語り、大人はそれを微笑ましく見守る。
 それ自体は成長の証でもある。
 しかし、もう少し経つとその子供は、「自分に出来ないこと」がもっと沢山あることに気付く。
 その繰り返しである。

 こうした過程で、自分が「何が出来るか」が分かっていれば、例え経験が浅くてもミスは犯さない。つまり、自己分析をしつつ進むのが大切なのだ。
 自覚のなさというのは、端的にいって、内省モードでの反芻の欠如による。
 
 小さな子供の行動を観察していると、周囲の大人に向かって、
「自分で出来る」
と言ってだだをこねること行動がしばしばみられる。
 勿論、これは悪いことではない。
 出来ないからといって、いつまでも大人まかせにしているわけにはいかないのだ。
 幼児にとっては、切符売り場で切符を買うといった、私達にとっては極めて簡単な、思考を必要としない日常的な事柄が、ひとつの大きなイベントである。
 私達は、こうしたことを積み重ねて、「無意識で軽々と出来る行為」を増やし続けて大人になっている。

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 より専門的な次元のスキルも、基本的にはこれと同じことである。
 ただ違うのは、技能がより高度である場合には、最終段階でより高次の「内省的モードによる仕上げ」の比重が増えるという点である。
 切符を買うようなかなり簡単な行為であれば、技術の練習である「調整」の段階まででも構わないわけである。

 つまり、習得する技能によって、私達がどれだけの内省的認知を必要とするかの割合が異なるのだ。
 ごく日常的なものならゼロであろう。
 全ての人命を預かる仕事、人生を左右するような仕事(医療、政治、教育など)はかなりの内省的認知の存在なくしては成立しえない。

 これは、それぞれの業務を遂行する上で、いちいち時間をかけて立ち止まりゆっくりと行なえという意味ではない。むしろ逆である。
 瞬時の判断さえも適切に行なえる段階まで、高度の訓練を行なう必要である、という意味である。

 行為が複雑になればなるほど、特定の能力の育成というのは、体験モード単独では成り立たなくなるのである。
 つまり、トーストをつくる、切符を買うというような行為とはその点が異なるのである。

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 ところで、この「エキスパートになるための三段階」のうち、最初の段階である「蓄積」は、知識を得る段階だと書いた。
 実のところは、その知識を得るということ自体が体験モードだけでは不可能であるのだ。
 知識とは、外部から取り入れた数多くの情報や日常的な体験を内省的認知により、自分の引き出しにしまう行為である。
 情報というのは、内省モードの手助けがないと、私達の人生を通り過ぎてしまうように出来ている。

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 これを説明するために、著者らは博物館や科学館を例に挙げている。
 博物館や科学館には、面白い展示が沢山ある。
 専門外の人も楽しめるような、参加型の展示も多い。
 とこらが、それらを訪れることで正確な知識を得られる人は殆どいないということを著者らは調査により突き止めた。

 あまつさえ、「科学館の面白い仕掛け」によって間違った知識を植えつけられて帰った人の方が多かったという。
 一体これはどうしたことなのだろう。

 実のところは、多くの博物館や科学館が頭を悩ませている問題というのは、この点であるという。

 博物館や科学館に行った経験の面白さがきっかけで、科学に興味をもち、将来科学者になろうという決意をする子供が増えたら理想的である。
 例え科学的知識を「誤解」していたとしても、興味のきっかけにさえなってくれれば、それはそれで構わないとも言える。
 しかし、実際には学校の社会科見学で訪れた科学館で「目覚め」て科学者になる子供は一握りである。

 残念ながら、「科学館の一日」は、多くの人にとって「ある日のイベント」であり、それをきっかけに人生を変えてしまうような出来事ではないことが普通だ。
 
 将来科学者になるような子供というのは、それこそ葉っぱが舞うのを見ても、虫が地面を這うのを見ても「理由」を考えてしまうような子供なのである。
 それを取り入れる下地を形成しながら情報を提示しない限りでは、どれほど価値があり面白く色付けした体験も、無意味になってしまうわけである。

 つまり、決して、大掛かりな夢のある展示が人生を変えるきっかけになるとは限らないのである。
 むしろ、私達の目に触れる知識がより派手になり、よりもっともらしくなればなるほど、私達の知識欲はそこで自己完結してしまう場合もあり得るのだ。
 
 無論、私の言いたいことは科学館や博物館が害を成す、と言っているのではない。
 どのような経験も、それを消化する過程が最大のポイントになる、ということが言いたいだけだ。

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 著者は、様々な人間のスキルの段階を、より低次なものから高次のものまでに四段階に分けている、心理学者のマービン・ドナルドの仮説を紹介している。
 エピソード記憶の段階ミメーシスの段階神話の段階外部にある表現の段階である。
 これは、人間が動物から進化する過程を模している。
 
 エピソード記憶の段階は、自分の経験を行動に生かす、という段階である。
 小さな子供ですら、自分が失敗したことは二度とやるまいと考える。
 しかし、この段階では、自らの失敗に対する「理由」の考察が的外れなこともあり得る。何故なら、この段階の認知はあくまでも自己完結型のものであるからである。
 
 ミメーシスの段階は、これらの「体験」を相手と交換する段階である。
 思春期以降は普通、私達は「友人と情報交換」をする。しかし、これはごく狭い範囲に限られる。この情報交換は、言語によるものとは限らない。
 「嫌な気分」「良い気分」などを共有することでも構わない。
  群れの中での感情の共有、といったら良いのだろうか。
 類人猿には、この段階までの知能はあると考えられている。

 神話の段階は、さらに表現が拡大し、生活の中の様々な出来事が「物語」となって伝わっていく。この時点では、言語の存在が絶対に必要である。
 
 外部にある表現の段階では、更に高度なツールを用いて、自らの体験や推理を他人に広め、それを共有する段階である。
 古くは書物、現代ではインターネットなどのツールを用いて他人と経験や思考を分かち合うわけだ。
 これこそが、現代文明が到達している段階であり、私達が自らの体験を有効にする最終的な方法なのである。

 ドナルドによると、「複数の仮説を吟味し比較する複雑なプランニングに必要となる分析は、ミメーシスの段階までしか進化していない動物には不可能である(人を賢くする道具より引用)」と定義づけている。
 つまり、内省モードは、これらの段階のうち「神話の段階」以降に存在する。
 
 私達が現代文明を支えるレベルの深い内省モードを得るのは、主に「外部にある表現」をお互いに理解しあう段階に至ってから以降である。
 本来は、情報ツールの発達というのは、これをより活発にするためのものなのである。
 実のところは、知性の進化にとっては「自己への気付き」が大切なのであるが、これは「他者への理解」なくしては成り立たないのである。
 情報ツールの進化というのは、希望的観測からいうと、より質的にも量的にも「他者への理解」を増やそうとすることを目指しているはずなのである。

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 実のところ、専門トレーニングだけではなく、個人的な活動を含めての私達の人生そのものを「エキスパートの体験モード」にするためには、「内省モード」の助けが必要なのである。
 私達は、単純な身の回りのことだけをこなして生きているわけではない。
 誰をどのように愛するかを考えたり、自己実現の手段である仕事を成功する方法を考えたりする。
 私達人間は、「ミメーシスの段階」にはとどまってはいられないように出来ているのだ。

 そして、現代においてもっとも不足しているのは、実のところはこの「内省モード」であると著者は指摘している。
 普通に考えると、私達に欠けているのは、「体験モード」であるような気がするかもしれない。
 確かに体験モードが皆無であるところには内省モードは存在しえない。
 体験的認知と内省的認知には優劣はない。
 どちらが欠けても、私達の人生は成り立たない。

 しかし、個別の体験の物理的な量というものは有限であるのだ。
 これは、どのような平凡な人でも活動的な人でもそうなのである。
 それに「他者の視点」をどれだけ取り入れるかという問題がある。
 
 より業務が高度になり、多くの人と関わるようになればなるほど、その分、広い範囲の他者の視点を取り入れる必要が生じる。
 自分が出会うことが出来る範囲を超えた、あらゆる階層や性別の人の考えを取り入れなければいけない職業もある。
 この場合重要なのは、自分が実際に交流している人というのは、いかに良く知っていて親しい人でも、相手が本音を語っているとは限らないという点である。これを認めたがらない人も多いが、これは真実である。
 
 この時点になると、自分の属している世界の範囲を超えた普遍的な情報を知り、学ばなければいけない。そして、その得た情報を、自分の中できちんと整理し理解・分析し、内省の時間をもたなければいけないのだ。
 内省とは、立ち止まったり、暗く悩んだりする時間ではない。
 次のステップのために、高度の思考を働かせるということなのだ。
 そう考えると、ある意味、孤独な作業ではある。
 しかし、むしろその孤独と静寂は、ひとりよがりになるのを防ぐための時間でもあるのだ。
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 もうひとつ重要な問題となっているのは、「擬似的体験」を「真の体験」と勘違いしてしまうという点であろう。
 疑似体験が高度になればなるほど、私達はそれを真の体験と混同しやすくなる。
 SFや時代劇などの、あまりにも荒唐無稽なフィクションであれば、私達はそれを「別の世界」と認識しやすい。
 ある意味、フィクションはニセモノらしい方が良いとも言えるのだ。
 ところが、現実の世界に一見そっくりで、実際は全く異なる性質の情報を伝えるような虚構の世界には、もっとも注意が必要である。

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 例えば、専門性の高い領域や特殊な現象を扱っているテレビドラマや映画などの多くは、現実の世界と異なる。
 特に日本ではそれが顕著だ。
 これらはどちらかというと「そこに属する人以外の見て、そうだと思えるように」虚構の世界を構築した方がウケるわけである。

 たとえば、そうした限りなくリアルに近い世界に、嘘の情報が散りばめられた時、私達の多くは、それを真実として受け止めてしまうのである。
「これっていかにもありそうだよね。」
ということが、より信憑性をもって植えつけられてしまうのである。
 そうなると、いかに現実がそれと異なっていても、人々の心からそれを取り除くのは難しい。
 これは、エンターティメントの場合は結果を省みず無自覚に用いられているが、意図的なプロパガンダに多く使われてきた手段でもあるのだ。

 著者はそうした「エンターティメントが広める虚構」を、現代文明がかかえる最大の問題としてとらえている。
 人間が内省的思考に支障をきたす原因の一端が、私達を楽しませてくれるこれらのエンターティメントにあるというわけだ。
 その理由は、こうしたエンターティメントが間違った情報を植えつけやすいといことがまず第一に挙げられる。前提となる情報=体験モードが誤っていたら、それ以降のいかなる内省も意味を成さない。

 次に言えることは、エンターティメントが自己完結を生みやすいという点である。つまりは、私達を賢くするための技術の革新による、より高度の刺激的なエンターティメントが、私達の知的欲求を奪うことがあり得るわけだ。
 つまり、擬似体験の功罪の問題である。

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 しかし、この点に関しては、刺激―反応の関係だけではない、良質のエンターティメントは、実のところは内省モードに移行するきっかけを生むという。
こうした経験を著者は、「至高のフロー」と呼ぶ。

 実のところ、こうした至高のフローの段階の感覚を得るに至る段階では、私達の心理は、体験モードと内省モードの厳密な区別はない状態になるという。
つまり、体験がきっかけでそれが内省を呼ぶ。そして考えたことをきっかけにまた体験する。
 本当の意味で、「何かに興味をもつ」ということは、こういうことなのだ。
 
 著者の概念の定義では、読書だろうが音楽であろうが、強い動機付けになりうるものは全て、強力な体験モードと内省モードの循環=至高のフローをもたらすことがあり得るという。
 私達が「実際に人生で経験していること」以外でもそうした状態になることはあり得る。
 実際のところ、きっかけは何であっても構わないわけだ。
 
 つまりは強い動機付けである。実のところは、これに近い段階に至らないと、私達の目の前の情報も、今日会った人も、ただ通り過ぎて行くばかりの「ある日の出来事」に過ぎなくなってしまう。
 教育の大きな目的は、生徒たちにこの感覚を味わさせることであることは間違いがない。

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 私達が高度のツールを手放すことはあり得ない。
 多く見かける、そうしたツール自体を悪者扱いする議論も、土台が間違っている。
 過去には、「読書は人間をだめにする」という議論も多くあったくらいなのだ。問題はツール自体ではなく、それを使う私達自体にあるのだ。

 その使い方をどのように工夫するかによって、「楽しくて至高のフローをもたらす」体験につなげることも可能なわけである。
 著者であるノーマン博士は、エンターティメントが、そうした真実の体験につながる具体的な方法を模索しているようである。
 擬似体験自体を悪者視するのではなく、新しいツールの欠点を修正し、より役立つものに変えていこうとする試みである。

 日用品はより簡便に、私達の知的刺激を助ける道具はより効果的に改良することが出来れば、それは本当に素晴らしいことだ。

 *過去記事でドナルド・ノーマンの別の著書、誰のためのデザイン?を紹介しています。




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