新しい媒体が出来るたびに人間が考えてきたこと
 
 ひとつひとつは正確な知識であるものの組み合わせで、誤ったものをつくることが出来る。
 機械を一旦分解して、パーツをでたらめに貼りあわせたものは、もはや機能することはない。単なるジャンクだ。
しかし、それぞれの部品は、「本物」である。

 私が何を言いたいかというと、世の中の真実と思われているものの一部は(もしくは大部分は)こうした種類のものであるということだ。
こうした議論を論破することは難しい。

 全体の論理の組み立てや結論を批判しようとしても、「部分の正しさ」
がそれを邪魔するからだ。
「この機械は多分動きませんよ。デタラメですから。」
と言っても、
「いや、この部品のひとつひとつはとても精巧な信頼できる品質のものです」
と反論されてしまうようなものだ。

 人間の体で言えば、足であるものが手の部分についていたら、私達の大半はぎょっとするであろう。その足そのもののフォルムがどれほど普通のものであったとしても同じだ。
 顔のパーツを目隠しして並べる「福笑い」で私達が笑うことが出来るのは、それぞれのパーツが人間の顔に存在するものであるのに、位置を変えただけでまったくおかしな存在になるためだ。
 しかし、宇宙人がやってきて、足が手についた人間を見ても違和感を感じないであろうし、福笑いで笑うことも出来ないであろう。

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 「自分が良く知っている分野」に関しては、普通人間は理論の根源を理解している。
 その上で知識を付け加えていくわけであるから、間違った知識に遭遇した時には、「どこかおかしい」ということを直感で感じることが出来る。
 しかし、まったくそうした根幹が出来ていない分野の知識であると、そうはいかないのが普通だ。
 華々しさや鮮烈さに心を奪われてしまうのだ。

 いかにも専門然とした「それらしい」用語や、個別の知識の正しさに目がくらんでしまい、全体の理論のおかしさに気付かなくなってしまう可能性がある。
 「推理」という機能は普通、個々の断片的な知識の数よりも、こうした論理性によって可能になるあるからだ。

 「整合性の有無」を判断するのは、断片的な知識を検証するよりも困難である。
 断片的な知識は、過去の事実と照らし合わせて、正しさを確認すれば良い。
 しかし、論理というのは、ある意味極論すれば、私達ひとりひとりの脳に構築された個別的な機能であるからだ。

 私達が間違った知識をはっきり認識出来ない理由は、誤った意識の集中による。
 人間は、何かに心を奪われてしまうと、隠された過ちや欠点に目がいかなくなってしまうという性質をもっている。
 これは、認知的狭窄(cognitive narrowing)、トンネルビジョン(tunnel vision)などといわれている現象である。
 
 豪華なマンションのモデルルームに行って構造的な欠陥に目がいかなくなったり、押し出しが良く魅力的な人物(たとえば詐欺師のような)に出会ったときにその本質が見抜けなくなってしまうのはありがちなパターンである。
 私達の多くは、残念ながら、「自分が見たいことや知りたいこと」にしか目がいかないように出来ているのだ。
 恋愛はトンネルビジョン?
 個人的には、「視野を広げるものである」という性善説的な考えに立ちたいものである。
 

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 過去記事、人を賢くする道具
の著者ノーマン博士は、人の判断を誤らせる原因として以下の5つの因子をあげている。

 完全性の欠如:私達は、その問題に関する全ての情報を知ることは出来ない。

 正確性の欠如:私達の知っている情報は、どのように工夫しても、完全に正確ではない。

 状況変化への対応能力の欠如:ある時点で効果があったことが、別の時点で有効とは限らない

 大きな記憶負荷:状況が複雑であればあるほど、その情報は大量になり、私達はそのすべてを記憶することは出来ない

 大きな計算負荷:例え完全に正確な情報を得たとしても、複数の因子を正しく解析することは困難である。


 では、どうすれば良いのだ?というペシミスティックな気分になってしまう意見である。
 しかし、嬉しいことに、こうした事実を知るだけでも私達の人生に起こり得るミスやエラーを大幅に減少することが出来るのだ。
 
 ある女性の人生の先輩が、
「何を知らないかを知っている人が一番賢い」
としみじみおっしゃっていたが、本当にその通りとしか言いようがないと最近つくづく思わされる今日この頃である。


読書の歴史―あるいは読者の歴史

 多くの情報を得ることこそが、時代の勝者になる秘訣であることは間違いがありません。

 情報伝達手段の進歩と共に、多くの人が情報を瞬時に共有出来るようになり、かつてないほどその同時性は高まっています。
 その結果、知識が特権階級に独占されていた時代は過去のものになり、誰もが正確な情報による正しい判断を下せる時代になったのでしょうか?
 
 恐らく、大量印刷技術の汎用化による書物の一般化が起きたということも、現代のインターネットの普及と同じくらい、エポックメーキングな出来事であったことは間違いありません。
 この時も、それまで文字による知識を独占していた階層の人は、「情報の共有と一般化により自分の存在意義がなくなる」ということを恐れていました。
 裏返した見方をすれば、書物の普及によって、「誰もが賢くなる時代」が到来したと信じられていたのです。
 しかし、実際のところ、そうはなりませんでした。
 情報自体を目にすることは誰にも可能になったのにも関わらず、社会の不公平性はそのまま維持されたのです。
 
 それは一体何故なのでしょう?

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 ラジオや映画、テレビなどの映像や音による情報の共有の同時性は、現在のインターネットに先行して存在していました。
 しかし、「文字による情報の同時共有」ということは、視覚による情報の共有と全く趣旨の違った価値があると思われます。

 映像は私達の感情を直接刺激するには有用ですが、思考の助けになる正確な知識を伝えるということに関しては文字の方が明らかに勝っていると思われるからです。
 何故なら、自らが求めている分野に関して「大量の情報を得る」ことに関しては、現在でも文字情報に勝るものはないからです。
 逆に、「興味がないことに関心をもたせるきっかけをつくる」ことに関しては、文字は映像にかなうことは出来ないように思います

 インターネットは純粋な文字のメディアではなく、映像メディアと文字のメディアを融合した媒体ですので、本来は感情と思考を同時に刺激する潜在能力を秘めているはずです。
 ところが、その手軽さゆえに、「通り過ぎていくだけの存在」や「誤った情報を得るための媒体」になりうる危険性があることも否めません。
 しかも、どのような嘘でも「文字」になるとある程度もっともらしく見えてしまうものなのです。
 どちらに転ぶかは、ツール自体よりも、それを使う人間次第ということになります。

 情報が容易に手に入る時代でも、教育の意義が薄れない理由は、「系統だった知識の獲得」という点の重要性は、いつの時代も変わらないためです。

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 本書は、過去の時代に「読書」が特権階級のものから、一般の人に解放されるまでの歴史的経緯を知るのに役に立つ本です。
 
 「文字情報の同時性」が印刷された書物によって飛躍的に高まった時代の
人々の書物に対する認識は、現代の人々がインターネットに関して抱いている危惧と似ています。
 「本を読むと、頭でっかちになり、余計馬鹿になる」
 「誤った情報を多くの人に伝える悪いものである」
 と考えている人は、過去には大勢いたのです。
 
 現在でも、極端に実体験至上主義を支持する人にとっては、自分の体験以外の外からの情報は価値がないものと考えられています。
 確かに、使いようによっては情報過多が人を愚かにさせるのは間違いがありませんが、情報自体に罪はありません。
 別の言い方をすると、
「少々の誤った情報くらいではびくともしない確かな自己」
を形成しておかなくてはいけないのです。
 それを一般に、判断力と呼びます。

 実のところ、書物であろうがインターネットであろうが、媒体の種類は問題ではないと思われます。
 そこに存在している、内容次第です。
 ところが、媒体の優劣を議論するのにやっきになっている人もいます。
 そのような議論を見聞する度に、「読書の功罪」を真剣に議論していた、過去の時代の人々の逸話を綴った本書を思い出してしまうのです。

 それにしても最も感動的なのは、損得を度外視した部分での人間の知的好奇心です。
 何かの役に立てようとして、やっきになって知識や情報を収集する人もいます。
 しかし、多くの人は、何の得もしないことでも、興味の赴くままに知識を求め続けてきたように思います。
 知識を得ることが困難な時代ほど、それに対する意欲がすさまじいところに皮肉を感じますが、それはともかく、「人間の探究心こそが、進化にとって最も重要である」という意見には、私も賛同せずにはいられません。


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