ニューヨーク・タイムズなどで活躍するアメリカのエッセイスト、
クリストファー・ド・ヴィンクのエッセイ集
そしてイルカは跳ぶ―人生の詩と真実の中に、「アメリカ社会の仮面」と題する一文があった

 *********************

 著者が若い頃、十九歳の女の子と付き合っていた。
 彼女は長い茶色の髪をしていて、お化粧は全然していなかった。
 二人は日曜になるたびに、自転車に乗って、アイスクリームを食べにいくようなデートをしていた。
 時には、彼女が詩を朗読してくれたり、クッキーを焼いてくれることもあった。
 彼女は、春が来た最初の日に、大声で歌うのが好きだと言った。

 二人は大学に入った後、何となく自然消滅的に会うことが途絶えてしまった。
 ところが、大人になってから知人の結婚式で再会する。
 
 その時の彼女は、すっかり大人の女性に変身していた。
 きついアイメークアップに、ブルーのドレス。
 会話といえば、自分の勤めている会計事務所の話題やフィアンセの話。

 彼はそんな彼女に幻滅し、こう結論付ける。
「女の子は男性社会の論理に振り回されて、女性らしさを失ってはいけない」
 
 恐らく著者の定義する女らしさとは、ナチュラルさやピュアさといったもので、けばけばしいメークや派手なドレスといったものではないのだろう。

 今回の話題は「化粧」なので、この彼の結論に関する考察は脇においておくことにする。

  ****************************

 女性が考える「女らしさ」と男性が考える「女らしさ」は確かに違う。
 試しに身近な男性に尋ねてみても、「化粧は嫌いだ」と言う人は意外に多い。
 
 恐らくその理由は、「化粧」というのが、心の鎧のような壁のように受け止められることも理由のひとつではないかと私は考えている。


最新人気blogランキング!
 ところで、実際にある程度の年齢以上の男性に人気のある女性は、きちんと装っていることが多い。場合によっては、「派手」といっても良い女性だ。
 男性が派手な女性とナチュラルな女性のどちらを好むのかという問題に関しては、恐らく「両方」であるのだろう。

 勿論それを詳しく考察するためには、「眺めるだけの女性」と「ステディな女性」の差などの色々な要素を分析しなくてはならなくなる。
 それぞれの男性の個人的な趣味の問題もあるだろう。

 そうした男性の矛盾に対して、「単に、美人が好きなだけでは?」という見方をする女性もいるようだ。
 更には、「男性が美人が好きなのが許せない」と考える女性も多いようだ。 
 しかし、個人的意見を述べると、男性も多種多様であり、それほど女性の外見にこだわりをもっていない人も多いように思う。
 しかも「美人」の定義は一通りではなく、多岐に渡る。
 色々意見はあるだろうが、個人的には、こうした純粋にプライベートな生活に関する価値観に善悪という判断基準を持ち込みたくないので、それらに関する分析は省略させていただく。

 「お好み焼きと焼きそばのどちらが好きか?」という位、無駄な議論のような気がしてならないからだ。
 勿論、公的な場にはこうした個人的生活に属する領域の趣味をなるべく持ち込まない努力をするのが知的な態度であるのは、いうまでもない。

  ***************************

 男性の、「化粧は嫌い」は、本当のところは、「趣味の悪い分厚いだけの化粧は嫌い」
という意味なのだろう。
 厚い防護壁のような拒絶のサインや欺瞞を感じない、たおやかな女性性を表現する化粧に関しては、多くの男性はかなり寛大で好意的な視線をもっていると思う。

 同性同士の化粧に対する視点はどのようなものであろうか?
「素敵でファッショナブルな化粧」は概ね、好感をもたれる。
「時代遅れの濃いメーク」「全く身だしなみに構わないだらしなさ」の両極端は、その「ずれた感覚」に対して批判が集ることが多いように思う。
 
 現代の女性では、「美しくなろうとする同性」は妬みの対象というより、尊敬の対象になる場合が多い。
 ある意味、その背景にある理由はともかく、結果的な評価基準としては、男性からの視点とそれほど変わらない部分も多いのだ。

  *************************

 それはともかく、この「化粧嫌いの男性」「同姓を含めた社会的な視線」と「美しくあらねばならない」という矛盾に対して、女性達が得た結論は「ナチュラルメークアップ」である。

 「まるで化粧をしていないかのような化粧」をするくらいなら素顔でもいいのでは?というのはあまりにも大雑把過ぎる考え方である。
 特に日本ではナチュラルメークが好まれる傾向が顕著のようだ。
 私が知りうる限り、アメリカの女性は「ナチュラルメークをする位なら素顔」という考えの人も結構いるようだ。
 これは一般に、一部の人を除きアメリカ人より日本人がお洒落であるためかもしれない。

 そうした理由で、日本の殆どの女性向けの雑誌は、いかに行き過ぎない化粧をするか?ということを繰り返しテーマとして取り上げている。
 何だか、素直にメークアップを楽しむ、いわゆる「ギャル系」の子の方が普通の感覚であるような気がしないでもない。

  **************************

 現代では、「化粧」ということは「身だしなみ」の一環として捉えられている。
 女性が「行き過ぎないメーク」を追求するのは、男性の好みに合わせようとしているというより、総合的な意味での、社会的な立場を踏まえての行動であるのが本当のところであろう。

 これには、同性の視線や足の引っ張り合いなどという単純なものではない。
 「社会的にこうあるべき」という仮面に適合した範囲でしか美しくなることが出来ないのである。

 職業や未婚・既婚の別などの状況により、美しくなるべき程度と「質」が異なるのである。
 最低レベルなのが、「中身」で勝負する専門職などで、最高レベルなのが受付や客室乗務員など「容姿」が職業特性に組み込まれている職業であろう。
 こうした職業の人は、「分かりやすい美しさ」を基準に装わなければいけない。個人的な趣味を打ち出してはいけないのだ。

 全ての職業は、これらの中間に位置する。
 注意しなくてはいけないのが、それぞれの「立ち位置」によって、どこまで装うということが暗黙のうちに規定されているという点になる。
 それ以上でも以下でもいけないのだ。
 そのドレス・コードは、男性のネクタイのようにはっきりしたものではなく、暗黙の了解のうちに理解しなければいけないルールなのである。

 現代の女性は、少なくとも公の場では、「思い切り、お洒落をして美しくなる」ということをある意味制限されているのだ。
 しかし、全く装わないということは許されない。

 ところで、この事実は、今日や昨日に始まったことなのだろうか?

  ****************************

 もっと時代を遡ると、化粧は、もっとはっきりした意味で、身分や地位の象徴であったこともあった。
 時代が古くなればなるほど、化粧品は高価であり、限られた人にしか許されない贅沢品であった。
 しかし、化粧が普及して以降も、その伝統は続く。
 化粧が「社会階層の違いによる女性の顔の違い」を表すという名残をとどめたのである。

 かなり以前から、「化粧」は女性の人生にとって、「異性の目を魅きつける」という役割を離れている。もっと社会性を帯びた存在なのである。
 古今東西の女性達はそれぞれの社会階層に応じた化粧を行ない続けてきたのである。

「化粧をしていることが相手にはっきりわかるような化粧」
もしくはその逆に、
「化粧をしていることが相手にわからないような化粧」
「綺麗になることを目的としない化粧」
などの、複雑な要素をもつ、「身分や自分の立場を表すためだけの化粧」というのは大昔から存在したのである。
 既婚・未婚の別をあらわすための、江戸時代の「鉄漿(おはぐろ)」がその典型例であろう。

   ****************************

 時代や場所によっては「化粧」が忌み嫌われた時代もある。
 イギリスのヴィクトリア女王の時代のイギリス女性にとって、「化粧をしている」ことを他人に悟られるのはとても恥ずかしいことであった。
 それは現代の私達が「美容形成」に対して抱いているイメージと同義語に近いものであったようだ。
 
 反面、江戸時代の日本のように、ある階層以上の女性にとっては「素顔」というのが社会的に許されなかったケースもある。
 
 いずれにしろ、それぞれの時代・場所の「きまり」に従った範囲でしか女性は美しくなることが出来なかったのである。
 そして、化粧はどちらかというと個性をいかすというよりは「様式美」つまり女性を均質にするための手段として捉えられてきたのかもしれない。

   ***********************::

 現代の女性にとっても、化粧は、社会的な存在であるという伝統は続いている。
 単純に社会的立場を伝えるだけでなく、それに自分のパーソナリティを加味したものを他人に提示する表現になりつつある。
 もっと簡単に言うと、「自分はこういう人です」と主張する手段になっているのだ。
 社会的立場にのっとった様式に、自分という人間の個性を加味してプレゼンテーションする手段として用いられているのだ。
 
 勿論、こうした表現には、「化粧」だけでなく髪型や衣服といったトータルでの装いというものが関係している。
 それはともかく女性にとっての「装い」とは、男性にとってのビジネスウェアである「背広とネクタイ」に極めて似通った存在でありながら、もう少し個人的な要素を付け加えた存在なのである。

  ***************************

 現代の女性にとっては、プライベートな場に戻った時のみ、
「思い切り化粧をしてお洒落を楽しむ」と「ノーメークで自然体の自分に戻る」のどちらでも、もしくは、そのいずれかの中間でも、自分の好きな立場を選択することが可能なのである。
 ある意味では、現代の、特に都市に生きる女性は、「公」と「私」で全くの別人になることも可能である。
 二十四時間、気に染まない役割を演じ続ける必要はない。

 職場では、あまり構わない格好をしている女性がプライベートでは美しいドレスに身を包んでいるかもしれないし、寸分の隙もない化粧をしている女性が、少女のような自然体かもしれない。
 
 背広姿で身を固めている男性も、休日には草野球を楽しんだり、楽器を演奏したりしていることもある。
 「公の顔」でその人の全てを判断することは出来ない。
 私達は、あまりにも表面的なことで他人を判断しすぎているのかもしれないのだ。
 ある側面を見て、その人の全てを単純に判断することは出来ない。

 ただ、ひとつ残念なことは、こうしたある意味では素敵な「ギャップ」をもっている人というのは、それほど多くはないということだ。
 人間は、特定の型に自分をあてはめ続けていると、いつの間にか、それが本当の自分自身とすりかわってしまうのかもしれない。
 本来は、どのような社会的立場にあろうとも、オフの時はその仮面を脱ぎ捨てて構わないはずである。

  *****************************


 クリストファー・ド・ヴィンクが再会した若き日の恋人も、プライベートに戻った時は、もしかしたら少女時代のままのナチュラルな女性かもしれない。
 もしかしたら、彼女は休日に今も自転車でアイスクリームを買いに出かけているかもしれないのだ。
 彼は、本当はその彼女に、「春になったら今でも歌を歌うの?」
と尋ねようと思っていたが、オードブルを運んできた人に阻まれて、その質問をする気をなくしてしまったという。

 そのため、彼女が今は本当はどんな女性であるかを、私達読者は知ることが出来ない。

 
メークアップの歴史―西洋化粧文化の流れ
 
 人類の化粧の歴史を綴った集大成ともいえる著書です。
 化粧そのものだけではなく、化学物質としての化粧品の歴史なども詳細に記述されています。
 類書の中で群を抜いて、面白く、かつ優れた本と思われます。


この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


元祖ブログランキング ほかのブログも見てみたい!