小学生向けの「学年誌」にお世話になった大人の方は多いと思う。
 ところが、この記事によると、「学年誌」が存続の危機にみまわれているというのだ。
 理由は、現代の早熟な子供たちの興味と「子供向け」の内容がかみあっていないためだという。
 
 そのために、内容をもっと「現代向け」にして、
「どうやったら大金持ちになるか?」
「どうやったら東大に入れるか?」
などの子供たちが本当に興味がある(?)「現実的な」記事をどんどん載せていくという。
 株の記事なども取り上げていく予定だということだ。
 こうした感覚からいうと、私がこのブログの場をお借りしているH社長などはまさしく現代のヒーローということになるのだろう。


 この観点から、リニューアル第一号の記事は、
村上龍のベストセラー
13歳のハローワークに準じた、色々な職業の紹介だという。
 
 確かに、
13歳のハローワークは自体は、かなり画期的な本である。
 私達が、普段は知りえない様々な職業の情報が盛りだくさんである。
 良く知られている職業に関しても、多くの人がドラマや小説などから勝手に抱いている「間違ったイメージ」を正すべく工夫がされていると思う。

 しかし、この小学六年生の記事は、
13歳のハローワークとは多少趣きが違っていた。
 決して、ニュース・ソースである「夕刊フジ」を馬鹿にしているわけではないが、実はこの記事を確かめるために、実証主義的な立場をとる私はこの雑誌をわざわざ購入して全部読んでみた。
 そうした意味では雑誌の戦略としては成功しているのかもしれない。
 
 様々の職業の「良い側面」「華やかな側面」だけでなく、辛い側面を取り上げているという視点は間違いではない。
 今時の子は、「お金がなければ、キャッシュベンダーマシーンから出してもらえばいいじゃない?」と考え、そのお金が労働の対価として銀行に入金されているということを理解していないこともあるという。
 現代の、特に都会の子供たちには働くということに対する苦労を伝えるということは確かに必要だ。

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 しかし、何だかこの「小学六年生」の記事は、全体的には週刊誌のゴシップ記事か大人向け情報誌のような構成になってしまっている部分が多々あるのだ。
 
 つまり、
「この仕事は一見“おいしい”みたいに見えるけど、実は損なんだよ」
「こっちの仕事のほうがお得だよ。儲かるよ!」
という観点を感じてしまったのだ。

 「子供を一個人として大人扱いする」
というのはこういうことではないだろう?
 と思ってしまった次第である。

 子供の「大人っぽくなりたい」という心理を、勘違いしているような印象を受けた。

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 率直にいって、「これでは子供たちがまともな職業選択をする感覚が、今よりも更に狂ってしまうかもしれないな」という危惧を感じた。

 つまり、
13歳のハローワークと似ているようで、大幅にずれたものが出来上がってしまっていたのである。

 この雑誌の記事は確かに、むしろ大人が読むと面白い。
 何故なら、お手軽でゴシップ的な上、ヴィジュアル満載で、気軽に読める構成になっているからだ。
 
 私達大人にとって、こうした記事の書き方は、目くじら立てるようなものではない。
 何故なら、いちいち真剣に取り上げたりせず軽く読み流してしまうし、書いてあることを全て鵜呑みにしてしまうこともないからだ。
 殆どの大人向けの雑誌というのは、すべからくこのような手法に基づいているとも言える。
 現代のわが国の雑誌は、私達にとっては、主に単なる気晴らしである。
 大局的ななビジョンを得る手段とは到底いえないものであるし、私達はそれに慣れきっている。
   
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 これから先の記事は、「大人の視点」ではなく、もうおぼろげな記憶となりつつある「自分が子供だった頃」の心を必死で思い出しながら書いてみることにする。


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 確かに、子供は「子供だまし」の内容には、興味がない。
 それは自分が子供だった頃のことを思い出すと良く分かる。
 
 自分自身を振り返っても、大人が、「この程度が子供向けだろう」と手加減した内容や、「子供はこうしたことを考えるべきだ」という決め付けによる表面だけの綺麗事を並べた本やテレビ番組などには、そっぽを向いていた。
 それは、特に「現代の子供たちが早熟なため」ではなく、大昔からそうだったのではないかと思う。

 子供というのは、こちらが真剣に向き合わないと、絶対に付いて来ない。
 大人の方がある意味、騙しやすいとさえいえるのだ。

 そう考えていくと、「小学六年生」が人気を失ったのはは、本当に「内容が子供向け過ぎた」ためだろうか?
 むしろ、内容を子供に迎合させすぎているためではないかと私は思う。

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 大正7年(1918年)に鈴木三重吉が創刊した、児童向け雑誌「赤い鳥」という名前を、歴史の授業や国語の文学史の授業で耳にしたことのある人は多いであろう。

 この雑誌は、芥川龍之介、の「蜘蛛の糸」「杜士春」や有島武朗の「一房の葡萄」などの名作を世に出したことでつとに知られている、
 それだけではなく、北原白秋、島崎藤村、谷崎潤一郎、小川未明、佐藤春夫、菊池寛、新美南吉など、当代一流の文学者が子供たちのために読み物を提供していたのである。

 私は、以前に、「赤い鳥」の現物を東京・世田谷にある大宅荘一文庫で手にしたことがある。

 ここは、恐らくマスコミ関係のお仕事をされている人なら全員ご存知であろう。日本のあらゆる雑誌を資料として保管しており、項目別に検索が出来る図書館である。

 この「赤い鳥」は古い雑誌なので、大宅文庫にも、創刊号を含め五冊しか現存していない。
 それは手にすることは、かなり感動的な体験であった。

 今の時代は、インターネットで検索すれば、ある程度の基本情報は手に入る時代である。
 赤い鳥に掲載されていた文学作品は、本で読むことだって出来る。
 それなのに私が大宅文庫を訪れたのは、人に勧められたためである。
 「是非、実物を目にしてその時代を体感してくるように」
と言われたのである。
 確かに、現物を手にするということは、あたかもその時代にタイムスリップするような深い感慨をもたらすのである。
 時代の息吹を感じることが出来るのだ。

 それを手にした瞬間、私は、
「何故この本が当時の子供に熱狂的に支持されたのか」
ということを、ただちに実感として理解したのである。

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 「赤い鳥」が支持されたのは、決してこの本が「道徳的」で「子供向け」なせいではない。
 その理由は、
 
 *大人が真剣に子供に向き合っていること
 *子供を子供扱いせず、手加減していないこと
 *その観点から、大人が読んでも感動するような読み物を載せていること
 *大人の側に、子供の未来を考えて「啓蒙しよう」という強い信念があること。
 
 
 これは「大人」から「子供」を一方的に見下すのとは違い、深い愛情に満ちた行為である。

 恐らく、現代の子供向け雑誌が人気を失っているのは、こうした「真剣さ」の欠如のせいであろうと思う。
 「こんなのが子供に受けるだろう」というリサーチに基づく「子供におもねるような内容」のいい加減な記事は、当の子供からはそっぽを向かれるわけである。

 恐らく、鈴木三重吉らは、良い意味で「子供の興味のリサーチ」などはせず「本当に自分たちが次世代に伝えたいこと」を記事にしていたからこそ、子供たちの圧倒的な支持を得られたのだと思う。

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 これは普通の人間関係でもそうではないだろうか?
 「いかに相手に気に入られるか」ということばかりを考えて、迎合するような態度をとっている人より、自分の信念を貫いている人のほうが尊敬を集めるし、その言葉に周囲は耳を傾けてくれるものだ。
 勿論、そこには独善的ではない、周囲への思いやりというのが必須であるのはいうまでもない。

 「子供に夢を与える」ということは、子供だましをすることではない。
 宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いのような、ある意味真剣勝負なのである。

 それが分かっていない限り、いくら大人の感性で「現代的にリニューアル」しても、子供に馬鹿にされてしまう可能性は大である。
 一過性に目先の目新しさで、購読数が伸びても、子供は「大人の汚さ」に意外に敏感だから、そっぽを向かれてしまうかもしれない。
 もっとも、繰り返しこうした記事で、「損得が大切」という価値観を刷り込むことによって、そうした危惧もなくなってしまうのかもしれないが…。

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 私は、「儲ける」ことが悪いとか、お金にまつわることは全て汚いなどということを言いたいわけではない。
 むしろ、現代の子供が大人の経済活動の全体像でなく、一部分である「消費」という部分しか知らずに育っていることを憂慮している。
 世の中の経済活動の真実を啓蒙するということは、必要であろう。
 
 しかし、それは「私が得をするにはどうしたら良いか」という狭い視点ではいけない。
 別の言い方をすれば
「より良い消費の手段を得る方法は何か?」
 などを考えるのは無駄である。
 何故なら、反語的表現になるが、そうした狭い視野での損得の観念は、
「大人になってから全く役に立たない」からである。
 
 
金持ち父さん貧乏父さんのような、「ファイナンシャル・リテラシー(お金に関する読み書きの能力)」を育てるという確固とした信念があるならまだいい。
 単に、「お金持ちって羨ましいでしょ」というのでは、全く意味がない。

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 現代の子供たち(大人も)は「虚業」「目立つ仕事」に憧れる人が増えた。
 つまり、自分の手を汚さない仕事だ。
 本当の意味での憧れというより、羨望といった方がいいのかもしれない。
 自分の身体を張るような仕事や実業への敬意は薄れる一方だ。
 ところが、実際は華やかに見える仕事ほど、身体を張っていたりするものである。
 「小学六年生」の記事は、そうした二面性を伝える努力はしている。

 しかし、今回の「小学六年生」記事でもっとも大きく取り上げているのは、
男の子向けも女の子向けの職業も
「香取信吾は小学六年生の時にSMAPを結成した」
「モデルの○○さんの一日」
などのタレント、ミュージシャン、モデルなどに関する記事だ。
 実業に関するものは白黒の小さな記事だ。

 私は、こうした職業を低く見ているわけではない。
 ただ、「現代の子供たちならこうした職業に憧れるのでは?」と一方的に決め付ける、大人の浅はかさを心配するだけだ。
 子供といっても、多種多様である。
 たった今述べたことと明らかに矛盾するようだが、実のところは、子供なら誰でもこうした「目立つ職業」に憧れるとは限らない。
 年齢が低いほど、素直な気持ちから来る自己実現への欲求は高いのだ。

むしろ、思春期に片足を踏み入れた子供特有の「潔癖さ」というものは、こうした表面的なものを嫌悪したりする場合がある。
 今時の時代でも、活字の雑誌を定期購読しようと考える子供なら尚更だろう。
 その辺の複雑な心理への読みが甘いと感じずにはいられない。

 「単なる情報」なら、子供だってネットで手に入れてしまう時代であるということを忘れてはいないだろうか?

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 子供向け雑誌の記事が表層的になってしまうのは、ある意味、「子供相手だから」仕方がないことなのであろうか?
 それは、「甘いお菓子を子供にあげれば良い」という発想に似通っている。

 こうした記事というのは、大人の願望の反映でもある。
 親の側の「子役ブーム」などの「我が子にチャンスを子供の頃から与えよう」という過熱ぶりの反映なのかもしれない。
 
 現代では、世に出るチャンスを得るのは早いほどいいと思われている。
 しかし、子供時代は、あまり生き急がずに、もっと落ち着いて自分の人間としてのキャパシティを広げるのに多くの時間を割いてもいいような気がしないでもない。
 
 以前のブログ人はなぜ老いるのかで記事にしたように、人間の生物学的時計の進み方は人それぞれである。
 全ての子供が「早熟型」の人の生き方に合わせる必要はない。

 また、それとは相反するようだが、人間にとって十代のうちに蓄えた知識というのは、一生の財産になる。
 それは、大人になってから得たものとは違い、私達の脳から消え去ることは少ない。
 勿論、実社会での経験も広い意味では、「知識」に含まれるだろう。
 しかし、そうした実体験を本当に血肉になるレベルまで極めることは、上滑りなままに大人社会に片足を突っ込むような経験とは少々異なるのだ。
 しかも、あまりにも早くから大人の社会に参加するということは、余程注意しないと、「子供社会でしか経験が出来ないこと」を身に付けられずに終わってしまうのだ。

 その根底には、ある意味報道によって煽られているとも言える「こうした情報化社会では、より若い世代ほど有利なのではないか?」という大人達の潜在的な不安がある。
 そうした「時代の気分」や社会状況が、子供たちを振り回す結果になってはいけないと思う。

 一流のタレントやスポーツ選手の人には、ある程度の人生をかけた「覚悟」がある。
 それがあるなら、そうした人生もまた良し、である。
 しかし、そうした覚悟がないままに、それに準じた「擬似体験」に時間を費やすことにより、かえって大切な教育の機会を失うことになりかねないのだ。

 この雑誌からは、そうした「派手好み」な風潮を加速するような印象を受けてしまったのだ。

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 もうひとつ気になる点がある。

 小学六年生の記事で、かなり力を入れて情報として伝えているのは、仕事の本質だけではなく、「収入」や一日のスケジュールなどの部分である。
 つまり、儲かるかどうか?楽な仕事かどうか?だ。
 これは、同じ職業でも、本当に千差万別だ。
 自分のやり方次第とも言えるだろう。

 こうした「情報」を盛り込もうとする大人の視点というのは、恐らく
「個人のライフルタイルを保ちつつ仕事が出来る職業かどうか?をもっと早いうちに知りたかった…」という自分自身の願望の反映ではないだろうか?
 
 職業を「成功のための便宜的な単なる手段」としか考えていない大人は増殖する一方である。
 勿論、働くということに対して正当な報酬を得るのは当然である。
 「職業とは自己実現」という「聖職主義」とでもいうべき精神論の過剰さの反動が、今になって押し寄せてきているのかもしれない。
 そして、そうした「功利主義」を崇拝する風潮というのは、現段階において、最高潮に達しつつあるのだ。

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 「より贅沢な消費活動をするためには、こういう仕事がいいですよ」
 「こうした仕事はお得ですよ」
 「そのためには、こういう学校に入るといいですよ」
という考えは、むしろ「古い」考えである。
 部分的には真実であるが、ある意味、平凡な大人の思い込みであるといっても良い。

 そうした「古い」考えを「斬新な発想」としてあらためて記事にしようとするところが、結局は「大人」の発想というものなのだろう。

 これらの考えは、昔から大人が子供に一方的に押し付けようとしてきたものだ。
 多くの大人の価値観でもある。
(ただし成功している人でこうした価値観を持っている人は意外なほど少ない。恐らく既成概念から自由だから成功したのだろう。)

 色々な職業の選択肢を子供に示すという視点は、人生の多様性に満ちた可能性を知る行為である。
 目先の成功を求めるといったような、ありきたりな思考回路の正反対に位置するものだ。
 
 大人がこうした記事を書きたがる理由は、恐らく、自分の願望に基づくものであろう。
 「まじめにやっている自分たちは損をしている。子供の頃にお金持ちになる方法を知りたかったな」
「結果オーライ主義」
 現代人に蔓延するのは情報過多による「他人への羨望」である。
 これは、純粋な憧れとは違う。
 こうした「自己への不全感」による不満が、子供達へのメッセージをゆがめているような気がしてならない。

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 子供がいつの時代にも求めているのは、具体的な職業名ではなく、漠然とした夢なのだ。

 
13歳のハローワーク自体は、
「『人形をつくりたいな』などの荒唐無稽とも思える夢も職業に結びつくんだよ。」
「良く知られている職業以外にも、君の個性を生かす道はあるんだよ。」
という視点で描かれている。

 基本的に「内的な欲求を満たすにはどうすべきか」という視点が貫かれているのだ。
 そこが小学六年生の記事との本質的な違いだ。

  「やりたいこと」に対する動機付けがしっかりしていないと、人間は自分の潜在能力を生かすことが出来ないのが普通である。
 自分の人生を満足して歩んでいる人は、必ずこの動機付けがしっかりしており、そこに向かって前進している。
 強い動機があれば、手探りでも手段を何とか見つけ出すのが人間というものなのだ。

 「あの人、いいな。うまくやっているな。」などというように、「成功している」という結果に憧れるだけでは、能動的になるのは難しいのである。


 私は何も、大正時代や昭和初期の感覚の童話を、子供向けの雑誌に載せるべきだと言いたいわけではない。
(もし載せたとしたら、見せ方によっては感動させることは可能だと思うが)
 しかし、「赤い鳥」創刊の感性は見習うべきだと思う。
 しかし、子供は本質的に「損得」などの既成概念の枠組みを撤廃した、「知的好奇心」を刺激するものを求めているのだ。
 子供が夢中になる種類の読み物というのは、正直なところ、いつの時代もそう変わらない。
 意外にも、子供にとってはこうした具体的な情報ではなく、「夢のある物語」などが将来につながる強い動機付けになることが多いのだ。
 具体例としては、考古学者ハインリッヒ・シュリーマンが子供時代にトロイア戦争の物語を絵本で読み、それに触発されて夢を温め続けてトロイア遺跡を発掘した有名な逸話などであろう。


古代への情熱―シュリーマン自伝

 *これには、もう少し複雑な事情があるという書籍はこちら。

シュリーマン―黄金と偽りのトロイ

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 私達大人が純粋な気持ちで子供に発信したいものは何であるか? 
 それをもう一度考えることが、子供の気持ちを魅きつけることにもつながるのではないだろうか。

 そのためには、私達大人自身が夢をもっていなければいけない。
 子供雑誌のこうした「超現実路線」というのは、私達大人の社会の閉塞感の反映でもあるのだ。

 こういう時代だからこそあえて言うが、子供が夢をもたなくてどうするのであろうか?
 繰り返すようだが、精神的な基盤がなければ、具体的な手法を模索する努力をするための「動機」が欠如してしまう。
 小学生のうちに培わなくてはいけないのは、むしろその部分である。
 
 それは、何も子供に対して、「大人の汚い部分を目隠しする」という意味ではない。
 むしろ逆である。

 人間の善と悪、聖と邪、喜びと悲しみなどを包括した、強烈な身体感覚を育てるような私達の「真剣なストーリー」を伝えるということである。


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