“貧民”が小金を貯めこん“大衆”になった
(橋本 治 “いまは十九・八世紀であるという話”広告入門 より)


 以前のブログ読書の歴史で、「現代のインターネットによる飛躍的な情報の増大は印刷技術の発達による読書の大衆化に似ている」という趣旨の記事を書いた。
 
 情報というものは、最初は特定の人に占有され、次第にそれが多くの人に共有されるようになる。それが加速度的に進むのは、「情報を伝えるための技術の革新」が起きた時である。
 
 そうした、情報量の爆発的な増大がもたらす恩恵は、今更私が説明するまでもないことだ。
 しかし、こうしたことには、必ず負の側面がある。
 これを絶対に認めたがらない人がいるが、その理由は主に、
「自分はうまく情報とつきあっている」と考えているためである。
 
 現代においては、情報というものは一種の「権利」のように捉えられている。
 従って、何人もそれを奪われてはいけないという種類のものなのだ。
 しかし、情報にまつわる義務の部分は語られることがない。

 私達は、本当に情報とうまく付き合っているか、また、それに対してどのような義務を果たすべきかなどという話題は、確かになるべく避けて通りたい種類の代物だ。
 わくわくした気分でディズニーランドに行ったのに、宿題の話を持ち出された子供のような気分になる話題であることは否めない。

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 十九世紀だと、教養のある人だけが本を読んでた。でもそれが二十世紀になると、本を読むと教養がつくようになると、錯覚するようになる、っていうことなんですね。
(橋本 治“いまは十九・八世紀であるという話”広告入門 より引用)


 橋本 治氏によると十九世紀の文化というのは、閉じた文化であり、文化を享受する人間を文化の方で選ぶのだそうである。
 情報の限定というものが、「意味」を生み出すわけである。
 
 橋本氏の主張するところのあらましは、以下のようなものである。

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 十九世紀においては、読書は一部の裕福な階層の人や教養のある人に限定していた。字を読める人自体も限定していた。
 

 そして、十九世紀には、読書は「意味」を求める人だけの行為であった。
 何故なら、「意味」ということは「理解」を前提にしているからである。
「意味を求める」ということは、すなわち教養である。
 
 しかし、二十世紀には、読書は教養の手段になった。
 正確にいうと、教養があるということを示す手段になった。
 理解しているかどうかは、どうでも良くなったのである。
 つまり、意味や目的は失われ、形骸化した読書という行為だけが残ったわけである。
 つまり、読書の形骸化=情報の無意味化である。

 つまり、情報を解読する能力のある人だけが情報を占有している時代が十九世紀である。
 その頃は、情報を知るということは、理解をしているということと同義語であった。
 ところが、二十世紀(この文章は二十世紀の終わりに書かれた)というのは、情報を理解できるかどうかに関わらず誰でもそれを手にすることが出来る時代なのである。

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 一見、何だかすごい「選民思想」のようでもあり、表面的に捉えてしまうと、不快になる人がいないか心配になってしまう主張である。
 しかし、冷静に考えると、これは真実である。

 そして橋本氏によると、広告というのは、情報を誰でも共有できるようになった二十世紀の文化であるのだという。
 つまり、意味を自ら求めて自発的に行動する人には、広告は不要である。
 しかし、金銭はあるが主体性を失った人には、広告というのはきわめて効果的であるわけだ。


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 現代は、読書の時代よりも更に、情報の共有が飛躍的に進んでいる。

 これまでの文章の、「読書」を「インターネット」と置き換えて読んでみて欲しい。
 状況は、更に厳しいことが分かるかもしれない。
 皮肉なことに、情報の同時性と共有性が高まれば高まるほど、その情報は、無意味になるのだ。

 かつては詳細で専門的な情報は、そこから意味を取り出すことが出来る人だけに占有されていた。
 インターネット上には、以前なら、専門家でなければ知り得ることがなかった情報の断片がとびかっている。

 これ自体は、ある意味喜ばしいことであるはずだ。

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 現代では、事実としての同じ情報を手にいれた人の中にも、それらを正しく解釈出来る人と誤認している人が混在している。
 その程度の落差というのは、「読書が情報を得る手段」だった時代の比ではなない。
 より高度化、専門化された、解釈が難しい情報を、誰もが手にすることが出来るのだ。

 しかも、ややこしいことに、意味を理解している人もそうでない人も、
「情報を共有しているのなら同じベースラインで議論をしている」と信じ込んでしまっている。
 そのため、自分たちが全く違う世界の住人であることに気が付かないまま議論を進めてしまう。
 そしてある時、お互いに極めて違うバックグラウンドのもとに会話を交わしていることに気付き愕然とするのだ。

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 こうしたことは、「文化的な市民」対「大衆」というような一方が相手を見下すような十九世紀的な上下関係とは違う。

 私達の誰もが、「良く分かっている部分」と「全く分かっていない部分」をもっているはずなのに、それに気付きにくくなっているのが現代であるのだ。
 つまり、自らの「知識の偏り=何が分かっていて何がわかっていないのか」の部分に気付きにくいのが現代の特徴であるのだ。

 私達は、その時の状況に応じて、正しく解釈できる側とそうでない側のどちらの立場にもなり得る。
 つまり、自分が良く知っていることなら、情報の洪水から必要なものを取り出すことが出来る。
 そうでないときは、自分の思い込みを強化してしまう誤った情報だけをセレクトしてしまうのだ。

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 私が、そんなことを考えているのには理由がある。
 今日、私が良く知っているある分野に関して、とある方からお考えを伺う機会を得た。
 その方は、私に会う前に、インターネットで、今日の話題に関するキーワードを入力し、かなりの下調べをしてご自身である程度の結論を得ていらした。

 ところが、その方の得た個別の情報には正しいものが多く含まれていたのにも関わらず、導き出された結論は完全に誤っていたのである。
 ちなみに、その方は知的で専門的な職業の方であり、物事の理解力に問題がある方ではない。
 そのため、私が事実を説明すると、直ちにそれを理解して受け入れて下さった。

 バックグラウンドがないままに、情報を自ら検索して解釈することの危険な一面を強く思い知らされる出来事であった。

 もしかしたら、私自身も、自分が全く知らない分野に関しては、同じような過ちを犯してしまうかもしれない。

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 橋本氏によると、「広告は共同体の同質性を強化する」という。
 肥大した情報は、本当は自分たち以上に優れている隣の誰かと自分が、あたかも同格であるかのような錯覚に陥いらせてしまいがちだ。

 そうした「自分に対する過信」や「誤解」は、時に私達を人生の袋小路におしこめてしまう。
 私が言いたいことは「身の程を知れ」などという説教じみたことではない。

 情報の過多による自己の過小評価がおきる場合もある。
 私達はスーパーモデルではないし、世界一のリッチマンではない。
 「夢をみる」ことは大切だが、それは広告でつくられたイメージに左右された均質化した夢ではなく、もっと個別的なものでなければいけない。

 私達は、どれほど他の人の人生を知っても、自分以外の存在にはなれないのだ。
 それは、「小さくまとまれ」という意味ではない。
 本当の自信はそこからしか生まれ得ない、ということが言いたいだけである。

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広告大入門
 広告批評に掲載された、広告に関する著名人のエッセイを集めた一冊。
 これ以外にも極めて示唆に富む文章が多いです。
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オレ(私)はそんなに馬鹿じゃない!ちゃんと判断する力はあるんだから、事実としての情報は多いほどいいに決まっている、というふうに感じる気持ちは良く分かります。ところが、その考えに捉われて足元をすくわれることは現実にあり得ます。
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