女優

 今時、タレントのゴシップなどの報道を目にして、いちいち真剣に取り沙汰する人はいないだろう。一瞬、目を引かれることはあるかもしれないが、十秒後には忘れてしまうたぐいの情報である。
 余程の熱烈なファンでもない限り、何とも思わないのが普通だ。
 ましてや、そうした類の話に「倫理的な憤り」を感じる人は稀であろう。
 しかし、昭和の中頃までは、女優のスキャンダルは時代を揺るがす“事件”であった。
 情報が閉じた社会のものであったために、「虚像」をつくりあげることが可能であったためである。

 芸能ゴシップだけでではない。
 政治家の汚職事件や大企業の企業倫理を逸脱した行為といった、過去の時代には「歴史の教科書に載るような事件」であっても、もはや社会を根底から揺るがすような事態に至らなくなりつつある。

 もはや現代人は、女優に清純なイメージを求めていないし、政治家に清廉潔白なイメージを要求することすらしていない。
 情報の発信源は、もはやパブリックなものから個人ベースに移行しつつある。
 昔は、情報を発信するためには、何らかの形でまず放送や出版といった業界に認められることが必要であった。

 しかし、今では、市井の人でも簡単にこうしたブログの場で、自分の意見を発表することが出来る。
 以前は、そこに、コンピューターに関する知識という壁が存在した。
 しかし、もはや電話をかけるくらい簡単に、誰もがウェブログという形で文字情報を発信することが出来る。
 そうした中で、どのように虚飾に満ちたイメージを創り上げようとしても、欺瞞は簡単に見抜かれてしまうからだ。

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 私達は、物事のダーティな側面にもはや慣れきっているし、ちょっとやそっとのことでは、どのようなことにも動じることなどない。
 そう考えていくと、公的な報道機関が、意図的に誰かを貶める目的でスキャンダラスな情報を流しても、それによって多くの人の心理を扇動することは不可能になりつつある。

 昨日の記事広告大入門で、現代の情報はすべからく無意味化しているということを書いた。
 プロパガンダが通用しなくなったということは、情報の「無意味化」の思わぬ効果であろう。
 私達は、もはや、私達は情報に簡単に左右されることはない。
 簡単に騙されることはなくなってしまったのである。

 しかし、情報の無意味化には正の側面と負の側面がある。
 負の側面は、どのような重要なメッセージも、私達の心をすりぬけていくという問題であろう。
 現代人の心は刺激に慣れきっている。
 恐らく、私達は、時代が岐路に立たされていることを警告する重要な情報にすら、気付くことが出来ないかもしれないのだ。

 物事が崩壊するまでには、大抵、何度もそれを予告する前兆がある。
 その時点で、それに気付いていれば、最後通牒を回避することは可能である。
 それは個人レベルの恋愛や結婚から政治まで、全てに共通した真理であるように思う。
 しかし、現状では、実際に社会がメルトダウンを起こすまで、私達がアラートに気付くことは難しそうである。
 
 高度の情報化社会というのは、誤報の非常ベルがしょちゅう鳴っている場所のようなものであるからだ。


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 勿論、私達が情報の発信者になれること自体に功罪はある。
 故意であれ不注意であれ、どのような誤った情報でも、誰のチェックも経ずに、それらしく発信することが可能であるからだ。

 願わくば、例えばこうしたウェブログであれば、そうしたことをコメントやトラックバック機能などで修正しながら進めていければ問題はない。
(私のブログはコメントやトラックバック大歓迎である。)
 しかし、普通は、こうした個人で発信する場というのには、不思議なほどに「自分と似た人」しか集ってこない。
 全く無関係な価値観をもった人の表現の場には、寄り付かないのが普通だ。
 そうした中で、私達は自らの考えを強化し、より偏向させていってしまいかねない。

 本来は、こうした種類の個人発信型の意見発表の場は、双方向性のメディアであり意見交換の場であるはずのものであるが、
 ところが、自分の誤認を強化する場として機能する場になりかねないのだ。
 だからといって、公の立場の人が「検閲」したりすることは筋違いであるから、私達の一人一人がこうしたことに気付きつつ進んでいくしかないのだ。
 

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 私は、極端な性悪説にたっているわけではない。
 多くの人は、パブリックな場にものを書くことの意味を理解し、注意を払っている。
 実のところは、多くの人が苦心しているのは、その点ではないだろうか。
 「書いていいことと悪いこと」を見極めることの大変さが、実のところはこうしたウェブログを続けていく上での最もストレスフルな点であろう。
 つまり、自分自身が書き手であると共に、編集者としての機能を担わなくてはならないのだ。

 実のところは、インターネットが限られた人の閉じた空間であった時代には、「オフレコ」の話として、人々が自由に意見を交換する場であるという側面が強かった
 普通のメディアには書けないようなことを、多少問題のあるような内容を含めて発信することが可能な場であったのだ。

 以前は、文章にして公共の場に触れるからには、内容に関して、ある程度の正確性や確実性が要求されていた。
 しかし、例えば、創生期のネット社会は、そこに属している人には一定の傾向があったと思う。まずコンピュータを扱えるということが特殊であったし、そこにアクセスすること自体に技能を必要とした。

 つまり、「どのような種類の人がここに存在するか想像がつく」ような閉じた状況であったのだ。
 あたかも文字を読む人が限定していた時代の読書人のようなものである。
 そのようなセレクションが行なわれている場では、たとえあやふやであると自分で分かっている情報や意見であっても、いったん発表してみて、広く多くの人の意見を募ってみるというようなやり方も可能である。

 本や新聞、雑誌などの紙の関しても、読書が限られた特権階級のものであった時代には倫理的な側面はそれほど注意せずに出版を行なうことが出来たように思う。
 しかし、書物や新聞を読むということが普及した現在では、もはや紙のメディアは「当たり障りのないこと」しか書くことが出来ないのだ。

 それをつまらなく思う人が一斉に民族大移動をおこしてきたのが「インターネット」の社会である。
 ところが、インターネットの普及と一般化によって、かつて紙のメディアの世界に起こったような「しばり」がネットの社会にも必要とされるようになってきてしまったのである。

 情報というのは、閉じた社会から開かれた社会に開示されると同時に、アンダーグラウンドな面白さを捨てなければいけない運命にさらされているのだ。
 より公共性を帯びた、人目を意識した存在に変質しなければならなくなってしまうのだ。

 こうした中で、幼い頃から、こうした事に関する良心や価値判断基準などを育てていくことの大切さと必要性は、今までになく高まっていると思う。
 プロのジャーナリストでなくても、そうした報道倫理といって良い感覚を身につけなくてはいけないかもしれないのだ。
 誰もが、誤ったもしくは無神経な情報の受け手になるだけでなく、発信源になってしまう可能性があるからだ。
 公の立場にある人が、個別発信のメディアを規制するようなチャンスを与えないためにも、こうしたことが必要であるのかもしれない。

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 インターネットが普及して、紙のメディアにとって変わろうという今、インターネットは公共性をもった場になってしまいつつある。
 時代と共に、「表現の自由」だけではない「責任」の側面が強くなってしまってきたのである。
 
 その動きの変化に気付かず、もしくは初心者であるがゆえに全く理解せずに、情報を発信してしまうことによるトラブルも目立つようになってきた。
 トラブルになるようなことでなくても、見知らぬ他人の心を傷つけてしまうこともある。
(これに関しては、既存のメディアこそ何も考えていないという側面もあるが。後述。)
 逆に、普通に考えれば全く問題がない表現を過剰に問題視する人もいる。
 
 プロのマスコミは、こうしたことへの対応策のプロトコールを、企業として有している。
 しかし、個人というのは生身の存在であるから、自分で自分を律し、かつ守らなくてはならないのだ。
 そうしたことを考えつつ発信することは、中々面倒な作業であるのだ。

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 記事の更新をやめてしまう人の多くは、恐らくそのように自分に足かせをはめることに疲れてしまうのではないかと思う。
 最初は自由な表現の場を得たような気がして喜んでいても、段々にそうではないことに気付くのが普通の感覚というものであるからだ。

 単純に「ネタがない」というような理由で書くのをやめてしまうのではないのだと思う。
 何故なら、生きている限りは、何かしら日々思うことはあるからだ。
 しかし、それを人目に触れさせていいかどうかは、また別問題なのだ。
 完全に社会性から切り離された自己表現の場というのは、不特定多数の人を対象にした場では不可能なのだ。
 
 そうしたことを考えていくうちに、自らの本音を発表するはずの場が、自分の人格のごく一部を表現する欺瞞に満ちた場になってしまうことは大いにありうる。
 そのように、周囲の状況に配慮をしながら、自分のペルソナ(社会的な仮面)の一部だけを表現する場であるなら、何も仮想社会である必要はない。
 生身の身体を置いているリアルの場で十分であるという考え方も出来るだろう。
 あらためて別の場を設ける必要はないともいえる。
 「バーチャルとリアル」といった世界を区切る垣根は、もはや存在しないのかもしれないのだ。

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 しかし、ここまで書いてきて気付いたのだが、既存のメディア自体は
「正確性や確実性」に注意を払いながら、つまり報道責任に最大限の注意を払いながら良心に則った報道姿勢を貫いてきたのだろうか?

 勿論、プロであるから差別用語といった瑣末な言葉の表現のレベルでの過ちは発信しないようにきちんと校閲されていると思う。
 しかし、中身に関しては、個人レベルと同じくらい偏っていたり、内容不十分だったりすることも多いように思う。

 その理由としては、過剰な情報の洪水の中で自らを際立たせるために、「より強いインパクトを与える」という視点が、内容自体よりも重視されているからかもしれない。
 周りのファッションが派手だと、競い合ってどんどん格好がエスカレートしていくようなものである。

 しかし、私達は、もはやどのようなラッピングにも驚かなくなっている。
 そろそろ、見かけを競うのはやめて、内容自体に重きをおいてくれてもいいのではないかと、ふと思ってしまう今日この頃である。



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