往診はサファリの風にのって―若い女医の診たアフリカ
 
 本書の著者のルイーズ・アレック・アール女史は、1931年ノルウェー生まれ。スイスの医大を卒業した後、熱帯医学の専門家としてアフリカで臨床活動に従事、その後も精神医学、文化人類学、海洋学などの多彩な専門領域にわたって活躍するという経歴をもつ人物である。
本書は、アール女史が若き日に、タンザニアの奥地で医療活動をしていた日々のを綴ったエッセイである。

 本書の中に、マスキニ・ボーイと題する一文がある。
 マスキニ(Maskini)とは、「哀れなやつ」という意味であり、病気、老齢、その他の原因により社会的一員としての役割を果たせなくなったみじめな人々のことを指すのだという。
 しかし、実のところを言うと、マスキニという立場であるとみなされるには、はっきりとした原因は必要がないのである。
 人々が「役立たずである」と見なせば、その身分に落ちてしまう類のもののようだ。

 彼女がタンザニアに渡ったのは、1959年である。
 当時の彼の地では、「マスキニ」とみなされると、社会の中で果たすべき義務がない代わりに、人々の話に加わって、意見を述べることさえ出来なくなってしまったということなのだ。
 
 衣食住を与えるのは、ひたすら他人のお情けにすがるしかなく、それを担当するのは、主に身内などの血縁関係にある人であったということだ。
 しかし、身内の人間は、マスキニを気に入らなければ追い出すことも可能であった。
 彼(女)達、マスキニの身分の人間は、ひたすら人の上にたたないように控えめに生きなければいけないのだという。

 つまり、社会的に無力化された存在が「マスキニ」であったわけなのである。


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 「マンマ・ドクター(本書では“おなご先生”と訳されている)と呼ばれたアール女史は、ふとしたきっかけから、このマスキニの身分に落とされてしまった少年と出会う。
 少年は、人懐っこい性格で、しかも賢い性質を持っており、女史は何故彼が差別を受けているかを全く理解できずにいる。

 そんなある日、女史は、少年がけいれんの発作を起こしている現場に遭遇する。
 少年には、「てんかん発作」の持病があったのだ。
 アフリカでは「てんかん」は悪霊が取り憑ついたと信じられていた。
 少年がマスキニの身分に陥ってしまった理由はそこにあったのだ。

 しかし、この病気は、有病率も高い極めてありふれた病気である。
 脳腫瘍や脳出血、その他の後遺症として二次的に起こることもあるが、特に脳の器質的疾患を伴わない特発性のケースが多い。
 知能や性格異常などとも無関係な場合が大多数である。
 難治性のものも勿論あるが、多くの場合、投薬により全く発作が起こらないように治療することが出来、いたって普通の日常を送ることが出来る例が殆どである。

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 女史は、少年に薬物治療を開始し、少年がてんかん発作を起こすことはなくなった。
 「おなご先生、ケイレンはもう起こらなくなりました」
 西洋医学ではごく当たり前の治療が、ひとりの少年の運命を変えたのである。
 ところが、その世界では、病気が治ったことで、一旦マスキニに転落した身分が変わることはない。
 そこで、アール女史は、少年を自分の助手にすることを決意する。
 そのことによって、マスキニの身分から少年を救い上げようとしたのである。
 少年は、そんなアール女史に感謝し、助手として全力を尽くすことを誓う。

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 実は、少年がこの病気になった経緯というのが、少々込み入っているのだ。
 この少年は、マスキニの身分に落とされるまでは、極めて優秀な少年として近所にも知られた存在であった。
 人も羨む難しい名門校の入学試験にパスし、少年の母親は、周りから羨望の目で見られていた。

 ところが、それを妬む近所の母親が少年が勉強をしている部屋に入ってきて、少年の額に手を当て、
「お前はもうすぐ病気になる」
と告げた。

 少年のてんかん発作は、それ以降に始まった。
 勿論、このエピソードは偶然であり、少年はこのことがあろうとなかろうと同じ病気になったのは間違いがない。

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 当時のアフリカでは(場合によっては現在でも)、あらゆる病気は、悪魔憑きのしわざであり、治療は、それを取り除く「霊媒医師」が行なうのだ。

 人も羨む優秀な息子をもった一家は、一転、周囲の人が忌み嫌う「悪魔憑き」の一家になってしまったのである。
 皆がその一家を避けるようになった。
 少年が病気になる前は、一家が羨望の対象であったことが却って災いした。 人々はその反動で余計に激しく一家を攻撃し、黙殺するようになったのである。
 
 もしかしたら、少年が病気になる前にそれほど優秀な存在でなければ、もっと大目に見てもらえたかもしれないのだ。
 この辺りの反動形成という心理は、どうやら人類共通であるらしい。
 「美女が犯罪者であると余計に刑が重くなる」などと同じ原理である。

 少年の父親は、「隣の女が息子に呪いをかけた」と村裁判に訴え出た。
 ところが、当然ながら、目撃者がいないので、裁判に勝つことはない。

 その結果、少年の家族は自分たち全員が人々に排除されることを防ぐために、息子を「マスキニ」と呼ぶことにしたのである。
 そうすれば、少年一人が忌み嫌われるだけで、一家に対しての咎めだては消滅するのである。
 
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 私達は、このストーリーを後進国特有の馬鹿げた論理による、「いじめ」や「差別」のストーリーだと笑うことが出来るであろうか?
 実のところは、殆どのいじめや差別がこれと同じような原理で起こっている。
 差別するに至った事情も差別する側の心の動きも、ほぼ共通している。

 私達の社会は、ごく簡単な誤認から、特定の人物を無用の長物と決め付けてしまう可能性がある。
 私達が他人を評価する指標は、何故ここまで短絡的なものなのであろうか?
それは、複雑さは私達自身の心を混乱させるからである。

 社会構造がプリミティブな社会、および、より未熟な人間は、
「功利的な意味では役に立たないとみなした人間」を排除する。
 ある意味、ヒューマニズムというのは、成熟の賜物なのだ。
成熟とは、心の中に複数の価値基準を混在させ、それを統合する能力なのかもしれない。

 精神的な成熟というのは、恐らく、経済的な成長と同義語ではない。
 むしろ、経済原理を主体とした社会ほど、複合的な価値観は存在し得なくなる。
 それは、私達自身が一番良く分かっているはずだ。


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