「裸のサル」は化粧好き

ヒューマン・タッチ


「裸のサル」は化粧好きは、動物行動学の権威デズモンド・モリスと化粧の心理学を研究している石田かおり氏が化粧というテーマに語り合っているという、少々珍しい書籍である。。

 デズモンド・モリスは「化粧」を動物の毛づくろいから派生する、触覚による親和性を求める行為だと語る。そうしたお互いに触れ合う行為が「美容」の方向に向けられ発展したこものが「マッサージ」「エステティック」といったものだというわけだ。
 本書には、日常の触覚による安らぎの例として、布団の感触やテディベアのぬいぐるみ、ペットを飼いそれを撫でる行為などが列挙されている。

 それから転じて、自らが施す「化粧」という行為を、自らの体に触れることによる「自己親密性」を高める行為であると定義している。
 つまり、「化粧」という行為は、他者に向けての「美」のプレゼンテーションだけではないのだ。
 それに加えて、「触覚」や「嗅覚(普通化粧品には香りがある)」といった、精神的に心を満たす行為という側面も強いわけである。

 現代人は、自らがあらゆる情報を享受していると信じ込んでいる。
 しかし、それらは視覚と聴覚に限定した情報である。
 それらには、嗅覚や触覚といった、より原始的な感覚からの情報は含まれていない。
 
 私達は、自らの感情と思考を形成するために必要な感覚のうち、ごく一部だけを刺激する情報に囲まれているのだ。
 そうした情報から得た結論は、日常の身体感覚を含む情報から得た結論とは種類が異なる。
 私が言いたいのは、ことの善悪ではない。
 単純に「違う」ということを言いたいだけだ。

 何故なら、いわゆる身体感覚だけで形成された結論は、多くの場合過ちであることも多い
 そうした個人的な好悪の感覚でのみで判断されることの誤りを正すために、私達は広く情報を収集するようになった。
 いわゆる「狭い了見」とは、そうした極端に個人の身体感覚に依存した考えをいう。
 
 ところが、それを是正するために行なわれているはずの、情報収集を高度化する行為が誤った方向に進んでいるのが現代であるのだ。
 つまり、収集した情報が、以前とは別の意味で、一部の感覚から成り立つようになってしまった。
 今度は、極端に身体感覚が欠如した社会が到来したのである。

 私達の原始的な五感を含まないで形成された思考は、主に「論理的な正しさ」からのみ成立した思考である。
 理論的な正しさの根幹を成すのは、勿論、言語である。
 それ以外には、五感の中のごく一部である視覚・聴覚から得た情報が関連する。

 それらは、本当に正しいのだろうか?


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 私はしばしば
「自分が目で見たものや、直接聞いたことしか信じないのです」
という方にお会いする。これは、「他人の意見に付和雷同しない独自の視点をもっています。」ということが言いたいのであり、これ自体は決して悪い考え方ではない。

 しかし、目で見たもの、耳で聞いたものは、勿論のこと全てが真実ではない。特にバーチャルな世界から得た情報の場合は特にだ。

 私達は、テレビの画面で見た「現場」の視覚的情報や、アナウンサーの読み上げるもっともらしいニュースをしばしば信じ込んでしまう。

 しかし、これらの報道はほんの数十秒の間にそれらしく見せるテクニックを駆使して造り上げられた「もっともらしい」画面に過ぎない。
 書かれた言語と違って「理論的正しさ」は含んでおらず、「印象」からのみ成り立っている
 しかも、人間が心にアラートを鳴らすために必要な、触覚や嗅覚といった原初の感覚は含まれていない
 実に、中途半端な情報なのである。

 こうした、自らの心の体験ではない視覚と聴覚からなるバーチャルな体験は、実のところは、私達の思考に錯誤をもたらす
 閉じた世界、つまり自分が生身の身体をおく世界だけに生きていた時には思いもかけない誤解が生じかねないのである。

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 私達は、こうしたいわば「バーチャルな情報から得た情報から断定した思考」だけに基づく結論を目にしたとき、ある種の居心地の悪さを感じるのが普通だ。
 それどころか、何とも言えない不安感や漠然とした恐怖感にさいなまれることすらある。
 
 それらの思考は、正しい結論ですらないのだが、私達はその「理由」を語ることが困難である。
 しかし、それに対する反論としては、スター・ウォーズのハン・ソロお得意のセリフなみの、
I have a bad feeling about this.”「イヤな予感がする。」
レベルのものになってしまい、周囲の失笑をかってしまうのだ。
しかし、その予感は、しばしば正しい。

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 話はややそれるが、賛否両論を呼んでいるH社長の言動に対して、どちらの立場に立つ人であろうが、多くの人が漠然と抱いている不安感は、これらが原因なのかもしれない。

 通常の生身の人間が相互作用として有している「心の理論」の欠如を彼の言動から感じ取れる人と感じ取れない人がいる。
 
 より正確にいうと、そうした違和感を感じ取っているですら、「一見論理的に間違いがないようにみえる」彼の破綻をうまく言い表すことが出来ずにいるのかもしれない。

 そこに、わが国特有の「流行に乗り遅れないようにしよう」という心理が相まって、H社長は「時代の寵児」になろうとしている。
 彼の発信する「得体の知れない恐怖」に対して、便乗したい心理を抱く人もいれば、反論したい人もいるということなのだろう。
 人間は、得体の知れない恐怖を感じたときに、それに同調することで恐怖を回避しようとする感情がある。
 彼に賛同しようとする人々の心理に、そうしたものを垣間見てしまうのは私だけであろうか?
 
 私達は、次世代のボスが誰かを見極めようとする心理的圧力の下に生きている。何故なら、それを知ることは私達にとって死活問題であるからだ。
 人間は「勝ち組に便乗したい」という日和見的な考えを有している。

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 この問題は、よく言われるような「世代間闘争」などという単純なものではない。ましては情報の革新などではない。
 テレビなどの旧世界の情報産業のやり方を、より高度に推し進めようとするやり方なのだ。
 
 恐らく、彼を支持するかどうかは、何を基準に物事を評価するという内面的な価値観の問題なのだろう。
 
 彼のふりかざしている論理は「強者が勝つ」という極めて旧世代的なものであり、決して斬新なものではない。若者の価値観などではないのだ。
 古今東西、過去の時代から、ビジョンが何もない儲けを主体にしたビジネスは存在したし、物事をお金で解決しようとする人はいた。
 そうした人がのし上がる構造というのもあまりにも典型的であり、新味がない。
 お金でモノを買うという行為自体は、いつの時代も合法行為である。
 そこに疑いを差し挟む余地がないことも真実である。
 ところがそこに「IT」という、旧世代の人にとっては斬新なツールが加わった瞬間、それが新しいものであるように見えてしまうのである。
 
 頭で考え出したとたんに、目的のない行為の愚かさが見えてこなくなってしまうのである。

 A新聞とその発行する雑誌を始めとする比較的年代の高い人々を主体にした一部のマスコミが、必死になってH社長の言論を若者の価値観とした誤った印象を人々に植え付けようとしている。
 
 それは、現代において「若者」というのが最大の誉め言葉であるからに他ならないせいなのかもしれない。「若者に人気」と言われると、頭をたれてしまう「大人世代」の人の心理を利用したやり方なのだ。

 情報の無意味化の拡大および情緒の欠落という重要な問題は、こうした議論からは完全に見落とされいる
 
 私は旧来のマスコミ(テレビ)の流す情報には元から影響されたくないと思っているし、それらとITの融合が行なわれようとそうでなかろうと、私の人生にはあまり関係がない。

 しかし、何だかこれらの騒動が、こうした「情報」というものの負の側面の増強につながらないことを願うばかりである。
 モンスターの結婚、つまり悪しきものの増殖を目指す試みにつながらないことを祈るばかりである。

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 やや話題が逸脱したが、上記の例は、私達が「言語、視覚、聴覚」から成る情報からのみ何かを判断する場合にありがちな状況の例である。
 思考とは、以前は正しさの象徴であったが現代ではそうではない。 
 
 過去の時代には全ての五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚)および言語は等価であった。過去の人間たちはこれら全てを統合して何かを「判断」するのが普通であったのである。

 感覚とは、現代においては非論理性の象徴である。
 しかし、実のところは、五感の全てを思考の材料に含めることは、論理性の欠如を意味しないのだ。
 上手に用いれば、むしろ、判断の正確性を高めるのである。

 そうした時代の人が、バーチャルな情報を判断の材料にしている私達を眺めたら、何と不確実なものを拠り所にするのだろうと呆れてしまうに違いない。
 もしかすると、随分と「頭が悪い」奇妙な人々だと認定されてしまうかもしれないのだ。

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 嗅覚は大脳辺縁系に直接入力され、思考を経ずに私達の感情を直接刺激すると共に、思考を経ずに記憶を惹起する作用がある。
 過去記事:スミレの花咲く頃に思い出す愛

 香りは、私達に何とも言えない懐かしさをもたらすこともあれば、耐え難い不快な記憶を呼び覚ますこともある。

 触覚は、これとは異なり、純粋な意味では大脳辺縁系などの旧皮質に直接作用するわけではない。
 皮膚の触点の下に各種の触覚受容器があり、それぞれの受容器は固有の刺激に反応し、一次知覚神経によって伝達され、脊髄を上行し視床を介して、頭頂葉の体性感覚野に達する。このように考えていくと、情動とも思考とも独立した単なる「感覚」に思える。

 しかし、これを打ち破り、この体性感覚こそが人間の根源的な情動に大きな影響を与えるという「ソマティック・マーカー仮説」を打ち出したのが、ダマシオ博士である。
 その仮説の是非はともかくとして、「触覚」が私達の感情を左右する重要な感覚であることを否定する人はいまい。

 人間の触覚の情動に与える影響は、嗅覚ほどは単純ではないので、過去記事を参照していただけると幸いである(この過去記事も細かい点を省略した部分が多いがそれはご容赦願いたい)。 
 過去記事:無意識の脳 自己意識の脳

 実は、私達の世界から取り除かれつつあるのは、こうした原初の「情報」なのである
 それに一抹の不安を感じずにはいられないのだ。

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 言論は、ある意味、私達にとって社会的には最大の武器である。
考えていることや感じていることを、的確に表現出来た時、私達は何ともいえないカタルシスを感じる。ウェブブログがこれだけ発展しているのは、そうした精神的浄化を誰もが(恐らく私も)求めているためだと思われる。

 一般に、女性は会話が好きだと言われている。
 「言葉で言われないと、気持ちが分からない」と仰る方も多い。
 しかし、本来は、言葉がなくとも気持ちは通じるものである。
 人間の親密性には「言語的親密性」と「精神的親密性」という違いがある。

 私達現代人は、「言語的親密性」こそが心を癒す行為だと信じ込んでいる。

 言い換えれば、理論による「納得」こそが、気持ちをすっきりさせる第一義の手法だと信じているわけだ。
 しかし、私達には触覚や嗅覚により、より大きな安らぎを得られるという側面がある。

 私達の生活はいまや、公の場では「言語的親密性」のみで成立し、プライベートな場ではその反動として、「精神的親密性」を過剰なまでに求めている

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 そして過去の世界では、私達は狭い社会の中で生きていた。
 そうした場では、その公と個人の区別は、なだらかなグラデーションを描きながら、いくつものパターンで組み合わさっているのが普通であった。
 ところが、現代では、私達はそれらを完全に分離することを求められている

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 触覚や嗅覚ベースの感覚を満たすことは、本来は、極めてパーソナルな行為である。
 それらにはグレードがあり、ある段階では許されない行為が次の段階では許される行為となる。人間には、プライベートゾーンというものがあり、互いの関係において、どこまでの身体的接触が許されるかが決まっている。
 友人の腕をつかんでもかまわないが、雑踏の中で他人の腕をつかむことはできない。
 赤の他人、同性の友人や親子などの家族、夫婦や恋人の段階で、その許される範囲は段階的に増加する。
 
 多少の文化的な違いはあるが、もっとも親しい関係でのプライベートゾーンに関しては、誰もがそれ以外の人々には触れられて欲しくないと強く感じる部分だ。
 それは、普通の人であれば、説明不要な部分であろう。
 何故なら、そうしたことの是非は、本来は、日常の中で体験的に習得していくべき知識であり、私達の多くがそれを理解しているからだ。
 しかし、現代においては、そうした機会は奪われつつある。
 子供の頃から正しいものと誤った身体接触を繰り返す中で、その行為を大人から注意されたり人から嫌悪され、逆に受け入れられたりして学んでいく機会が失われつつあるのだ
 
 他人との接触ということに関しては、−「禁止されている」ことの次の段階は何をしても許されるものだ−というところまで、一気に飛躍してしまってはいけないのだ。

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 公と個が二極分化された分断され、他人との関係に全か無かの関係が求められた現在では、こうした感覚にゆがみが生じてもおかしくはないのである。

 多くの人が指摘しているように、そうしたことにうまく距離感がつかめない人がもし増えたとするならば、それは人間らしい五感の欠如した社会の責任なのかもしれないのだ。
 あまりにも当たり前の常識的な感覚を育てる素地がないため、あらためて学習しないといけなくなるのである。

 こうした時代においては、私達が、教育や書かれたものから「知識」として得なければいけないものの範囲は広がる一方である。
 このような当たり前のことに対して、「どうしていいか分からない」と感じるのは、ある意味不幸なことだ。

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 本来は、「触れられること」「香りを嗅ぐこと」による精神的な満足というのは、ごく当たり前の日常レベルで満たされる部分であった。
 しかし、現代においては、そうしたものを求める行為は、日常的なものだけではもはや満たされず、何かの「欠落」を埋めるかのように商業ベースでの「過剰な刺激」を求めるようにすらなっている。

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 素朴さとは、愚かさと同義語ではない。
そうした個人ベースの確かな感性に基づかない限り、正しい判断力というものは、恐らく存在しえないものなのかもしれない。
 
 私は、言語と視覚と聴覚だけから成る情報を否定するわけではない。
 これらが存在しなければ、私達は今日の人間的社会は成立しなかったであろう。
 しかし、自らが生きる空間と知識の量があまりにも解離した現在、「適正な判断力をもつ」とはどういうことか?を改めて考えても良いのではないのかと思う次第である。
 

 デズモンド・モリスの他の書籍
 *人間の行動学に関するもの

マンウォッチング―人間の行動学
 古典的名著
  

ボディウォッチング―続 マンウォッチング  


裸のサル―動物学的人間像
 世界的ベストセラー


ふれあい―愛のコミュニケーション
 本書でデズモンド・モリスと対談している石田かおり氏が座右の著としていいるそうです


赤ん坊はなぜかわいい?―ベイビー・ウォッチング12か月



ジェスチュア―しぐさの西洋文化
   
 *動物の行動学に関するもの


キャット・ウォッチング―ネコ好きのための動物行動学


競馬の動物学―ホース・ウォッチング
  
 デズモンド・モリスの「マン・ウォッチング」を登場させた私の過去記事
 表参道のカフェでマンウォッチング
  

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