「死を違った視点から見れば、人間を成長に導くのは、人生の他のいかなる力よりも、死が迫りつつあることと、死までの過程を経験することである。」(E・キューブラー・ロス 死、それは成長の最終段階 続 死ぬ瞬間より)

      〜これは私達自身の物語である〜


アルジャーノンに花束を

 この本を読んだのは、まだ思春期の頃であり、私はこのストーリーを「科学によって翻弄される一人の人間の物語」として捉えていた。
 
 
アルジャーノンに花束をは、幼児と同じ知能をもつ32歳の男性チャーリーが、脳外科手術によって、きわめて高度の知能をもつ男性に変身する物語である。
 しかし、その手術は恒久的な効果はなく、彼の知能は徐々に元の状態に戻っていく。
 その過程で、彼は「自分の知性が失われていく恐怖と悲しみ」を体験するのである。
 
 その後、私は本書を何度か再読しているが、その度に視点は変わっている。
 
 今回、これの何度目かの再読をしてみると、この本は「ひとりの特別な青年チャーリーの物語」ではなく、私達自身の人生そのもののストーリーであることであることに気付かされたのだ。

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 チャーリーのたどる足跡は、私達の人間の一生そのものである。
 幼児として徐々に成長を遂げ、知性としっかりした自意識を有する青年期から壮年期を経て、徐々にであるが、そうやって得たものを<程度問題ではあるが>失ってしまう最晩年の日々に向かう。

 この物語でチャーリーが得たものは「高度な知能」だけではない。
 実のところは、そうした高い思考能力によってチャーリーは、より豊かな感情を得た。
  
 私達は「愛」や「感情」には一切知性が関係ないと思っている。
 しかし、本当の意味での優れた知性(学校の成績や学歴といったちっぽけなことではない)というのは、私達の心に豊かな愛や、より複雑な感情をもたらすのだ。
 それは、単なる反射的な情動ではない。
 チャーリーは、高い知性を得ると共に、それと車の両輪のような関係にある深い愛を知った。
 
 チャーリーが失うことを恐れ苦しんだのは、実のところは知能そのものではない。「感情を失うこと」そして、初めて知った「愛」の記憶を失うことなのである。

 
死、それは成長の最終段階―続 死ぬ瞬間

 
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 それにしても、このストーリーは、「普通の大人の人生を知らなかった一人の男性が、科学によって高度の知能を与えられ、それによって愛を知ることすら出来るが、またそこから再び奈落の底に突き落とされる」という悲劇的なストーリーなのだろうか?
  
 まず第一に、チャーリーは本当に不幸であったのか?
 この問題を、私達の子供時代は、大人である現在より不幸であったかどうかという問題に等しいのだ。
 
 学校に上がる前の子供時代はまさしく、「遊びをせんとや生まれけん」という過ごし方をしている。
 子供時代、現在の私達より圧倒的に狭い世間で生きていた。
 所属する社会は、肉親と地域社会がほぼ全てであったはずだ。
 今より明らかに「何も知らなかった」はずなのに、心は「何でも出来る」という全能感にあふれていた。

 現在より精神的にも物理的にも持ち物は少なくとも、総体的には「輝かしい日々」を送ることが出来るのが子供時代であるのだ。
 それは、心の豊かさと呼べなくもない状態である。

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 正直なところ、子供にも心の葛藤はある。
 大人が考えているほど、幸福な日々を送っているわけではない。子供の頃の 私達は、周囲の大人たちや友人たちに翻弄され、屈辱を感じることだってあったはずである。
 高い知能を得る前に、パン屋で働いたチャーリーが、周囲の人間に馬鹿にされ、「かしこくなりたい」と心から願っていたのと同じである。
 大人になることは、子供の「夢」であるのだ。

 私達は「もっと賢くなりたい」「もっと何かが欲しい」と願って、大人になるまでの長い日々を、学びと経験を積み重ねて生きてきたのである。
 
 チャーリーは、幼児と同じ状態から、医療によって高度な知能を与えられ、学びながら徐々に成長していく。
 そして、そうやって得た成長の蓄積を失うチャーリーの過程は、ある側面から見れば、私達の人生そのものである。

 私達自身も彼と同じ過程を、今現在たどっている最中なのだ。
 私達は誕生から死までのいずれかの瞬間にいる。
 それは、生命そのものということだけを意味しない。
 私達の意識、知能、肉体の全てが成長、充実、そして黄昏のいずれかの段階にいるのだ。

 私の言いたいのは「人間は成長しきったら後は衰える一方である」
ということではない。
 私達の人生の瞬間は、それぞれどれも素晴らしい。
 私達自身の人生は「蓄えたものをただ失っていく」だけのものではないのだ。
  
 そして、文頭に引用したロス博士の言葉どおり、私達は自らの最後の日々をイメージした瞬間に、圧倒的な精神的成長を遂げることが出来るのだ。
 ある意味では、最後の段階にこそ、最も大きな喜びがある。
 それは苦しみを伴う喜びであるが、その時初めて「自分を知る」ことが出来ることは間違いがない。

 ところが、その時計のねじを無理やりに元に戻そうとする空虚な試みは、私達の心に想像を絶する苦しみをもたらすのだ。

 それは、もうすぐ自分の知性が失われてしまうことを「予感」した時のチャーリーの苦しみそのものである。

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 恵まれた状態を知った後に、それを失うことは、それを知る前とは違う苦しみが存在する。

 多かれ少なかれ、私達の全員が壮年期から人生の終末にかけてのいずれかの段階で、その葛藤を味わうことになる。
 チャーリーの苦しみは、私達全ての苦しみである。
 だからこそ、「アルジャーノンに花束を」は、私達全員の人生の物語なのである。
 主人公のチャーリーは、その経過を駆け足で歩んで見せてくれたに過ぎない。
 肉体の健康が保障された現代では、そうした期間は長引く一方である。
 それは、現代人である私達の「過去には存在しなかった種類の悩み」なのである。
 現代人の人生に置いては、長寿によってもたらされた認知の変化により、もはや愛する人の顔さえ見分けられない苦しみを味わうことになる可能性がある。
  そうした感情を失う過程での葛藤というものを、これからの時代は真剣に考えていかなくてはいけないのだ。
 自分自身ということに限らず、大切な人が変化していく過程に寄り添わなくてはいけない場合もある。


 再び知能を失って行く彼を見守るアリスの姿も、自らにとって大切な人の「変化」を悲しみ、それを受容していく私達の姿そのものである。

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 文頭に文章を引用した
続・死ぬ瞬間―死、それは成長の最終段階は、終末期医療に関する古典的名著
死ぬ瞬間―死とその過程についての続編である。
 
 この本には、ミクロネシアのトラック諸島の人々の死生観が紹介されている。
 その島では、今でも(1975年当時)カヌーで漁業をし、パンの実を木に登って集める狩猟・採集生活をしている。
 
 その島では、40歳になるまで、つまり「人生の決断を下し、自分で人生を歩めるようになるまで(死、それは成長の最終段階より引用)」大人とは見なされないのだという。

 そして、そうした人生の絶頂期を迎えた後、すぐにやってくる肉体の衰え(カヌーをうまくこげなくなったり木に上手に登れなくなる)以降は、「死の準備」をする期間だとみなされるのだという。
 
 つまり、「アルジャーノンへ花束を」のチャーリーのように、無から徐々に上り詰め、頂点に達した後は、すぐに衰えに向けての準備をしなければならないのだ。
 
 しかし、トラック諸島の人々は、本質的に死を肯定する文化をもっているため、こうしたことを「苦しみ」や「屈辱」だとは感じないというのだ。つまり、ありのままの自分の人生と捉えているのだ。
 
 これは私達の文化と真逆である。
 私達の文化は、老いや死を語ることは、ある意味タブーである。
 これはある意味、人生の全ての過程に尊敬を払っていない証拠でもある。
 私達は、それらがまるで存在しないかのように振る舞い続け、ある日突然何の心の準備もないままに、それを受容するか否かを突きつけられさえするのだ。
 過去記事:人はなぜ老いるのか

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 私達は、内的な世界から「外的な世界」を、意識という窓を通して眺めている。
 
 その奥底に存在している、無意識、単純に生命を維持する行為やむき出しの情動などは、生涯を通じて存在し続ける。
 その「意識」のツールは、私達の得た知識と知性であり、それによる思考である。いわばそうした、「確かな個人」というものは、私達が年齢と共に積み上げてきた獲得した個性である。
 過去記事:無意識の脳 自己意識の脳
 
 そして、私達は、最後の日を迎える直前に、それを段々に失っていく。
 それらを失うまでに要する期間とスピードには、勿論、個人差がある。
 しかし、私達は確実に「子供として生まれ、また子供に帰る」のだ。

 それらは、私達の気付かないうちに進行するため、多くの場合私達は自分自身の「意識」の変容に気付くことはない。

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 「アルジャーノンへ花束を」の主人公チャーリーは、高度な知能を徐々に失っていく過程で、次のように語る

「ぼくは音楽会だって博物館だって行きたくない、外国の映画だって見たくない、自分のことや人生のことなんかをむりやり考えさせられるようなことは何にもしたくないんだ」(アルジャーノンへ花束を より引用)

 これは、私達人間が、日々、少年少女の時代の好奇心(いわゆる新奇性探求)を失っていく過程そのものである。

 それは精神的な「落ち着き」でもあるが、再び知能がゆっくりと退行していく過程のチャーリーと同じく、老いへ向けてのゆっくりとした準備であるのかもしれない。

 徐々に知能を失っていくチャーリーに対し、最初は彼の教育係であり後に恋人になるアリスは、それを失わせまいと、このようにアドバイスする。

「もしこのまま新しいものを読んだり学んだりしていったら、たとえ古いものは忘れていっても、わずかな知能でも引き止めておけるかもしれない(アルジャーノンヘ花束を より引用)」
 
 これこそ、私達大人が、毎日の生活の中でやらなくてはいけない行為そのものである。
 私達は「学び」を忘れたとたん、過去に得たものをどんどん失ってしまう。
 自らが人生で蓄積したものを保持するためには、常に前に進んでいかなければならないのだ。
 しかし、それは失われるものにすがるような行為であってはならない。
 1970年代のトラック諸島の人々のように、死に尊厳がある文化では、「老い」というのは、先進国のような、揶揄の対象ではないのだ。
 
 私達は、人生のゴールを「怒り」や「不満」ではなく成長する日々として過ごすことが出来る。それは決して諦観ではなく、人生を総括するような気付きの日々を送ることなのだ。
 その時私達は、もはや傲慢になったりせず、ありのままの自分を受け入れることが出来る。

 私達の意識、感情そして知能は、良い意味でも悪い意味でも変化し続けている。それは一本の線で上昇と下降の放物線を描くような単純な変化ではない。
 
 人生の全ての過程は、等価であるのだ。


*昨日の記事で、ダニエル・キイスの自伝、アルジャーノン、チャーリイ、そして私を取り上げさせていただいています。
 


このような大きな問題をひとくくりにして書くのはとても難しい問題です。現代人の多くが過去に執着しながら生きていくことこそが、人間としての価値を高める行為だと思っている部分があるのかもしれません。この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


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