ふれあい―愛のコミュニケーション
 
 人間の一生は、母親の胎内でしっかりと「抱きしめられた」状態から始まる。
 デズモンド・モリスは、「出生」を、母との完璧な身体的親密性を失う人生最大のイベントと定義している。

 しかし、それ以降も、肉体は母と「分離」しても、母親や家族との身体的親密性の強い幼児期は続く。
 
 そこから、子供時代から思春期にかけて、徐々に個を確立して精神的にも物理的にも(身体的にも)、オリジナルなファミリーから独立した個人になるというのが人間の成長過程である。
 「独立」とは「決別」ではない。
 成人後の家族の絆は、どちらかというと、幼児的な依存というより大人としての人間愛の賜物なのである。

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 デズモンド・モリスは著書「ふれあい」の中で、人間の恋愛と結婚は、人間の誕生から成人までの過程をなぞらえるようなものだと語っている。

 愛の始まりは幼児的である。
 大人になって失っていた、幼児のような親密な身体接触性を取り戻す日々が始まる。デズモンド・モリスは「ふれあい」の中で、恋愛によって人間が再び身体的親密性を取り戻すことを、「第二の幼児期」と名付けた。
 この時のカップルは、自分たちの世界に他者が侵入してくることを嫌い、まさしく「巣ごもり」のような状態に近くなってくる。

 ところが、それらの「二人だけの世界」は、しばらくすると変化の時を迎える。
 あたかも幼児が子供時代を迎えるとともに母から独立したがるように、デズモンド・モリスいうところの、「くるみこむような親密性」は徐々に減少する。
 これをモリスは、愛における「第二の子供時代」と名付けた。

 パートナーが過去の親密性に固執して行動制限をした場合は、それをを疎ましく思いはじめたりするわけである。
 あたかも、それまでは母の庇護なしには生きていけなかった子供が、母親の「世話」を干渉と感じ始め、行動の自由を奪われているように感じはじめるのと同じだ。
  
 これは、モリスいわく、「自然の成り行き」であり、愛が減少したわけではない。子供が成長するのと同じ過程である。
 ところが初期の恋愛の閉じた親密性が失われたカップルは、自分の愛が間違いであったと感じ始め、「別れ」を決意してしまったりする。


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 その後も恋愛や結婚が続くと、その後、「第二の子供時代」から「第二の思春期」に入る。
 愛の青年期である。
 この頃になると、青年が家族から独立して孤独を求めるように、ある程度は「一人でいたい」要求が生じてくる。
 これが高じると、結婚しているならば、あたかも成人が元の家族を放れるように「離婚」をして家族を分解してしまう心理が働く。

 それを切り抜けた恋人や夫婦だけが、人間の「成熟期」と同じ生涯にわたる持続的な愛を気付きあげるというのが、モリスの主張である。
 勿論のこと、この愛の歴史の全てを通じて、ある意味「幼児的な」身体的接触は存在し続ける。
 愛の晩期には、「ルームメイト」のような存在になるということのが普通だということが言いたいわけではない。

 モリスいわく、別れたカップルは再び別の相手とこれらの過程を繰り返し、場合によっては再び「第二の子供時代」や「第二の思春期」の時に、愛を育てることに挫折をするのだという。
 もちろん、それに至る過程には個別的な理由がある。
「別れ」や「離婚」を選んだ人のすべてが「我慢が足りなかった」というわけではない。
 恋愛の初期には異性としての性的魅力が重要であり、後期には人間的な共感が大切であることを考えると、「甘い夢」が終わったときに人間的な違いが浮き彫りになるということもあるだろう。

 しかし、過剰なまでに恋愛の「幼児時代」のみしか受け入れることが出来ない人もいる。その場合は、生涯に渡り、「愛の一生」の全貌を知ることは出来ず、誰と恋愛しても、あるところで「納得がいかなくなってしまう」場合も見受けられる。
 そうなってくると、恐らくそれは、パートナーとの相性の問題というより個人の恋愛感の未熟性が原因となってくるわけである。


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 モリスは、その理由には踏み込んではいないが、恐らくそこには個人が求める「親密性」の程度の問題も関わってくるのだと思う。
 
 お互いに大人として「一人対一人」の関係を心地良く感じる人は、比較的「第二の思春期」以降の恋愛(結婚)関係を快適に感じる。しかし、「親密性」を過剰に求める人は、初期の段階に留まりたがる。
 これは、恐らく、実際の人生における、精神の成長とも関係している。まだ幼いティーンエイジャーの恋愛は、「幼児期」が終われば多くは別れにつながるのかもしれない。

 ところが、実年齢は「大人」でありながら、ティーンエイジャーのように、いつまでも「第二の幼児期」のみを反復する場合は、その人は心の奥底に耐え難い寂しさを抱えているのかもしれない。
 要するに、「さびしがり屋」の人だ。
 愛を育てることが出来る人格のためには、まず自身の精神的成長を果たさなくてはいけないのだ。
 すなわち、「個の確立」である。
 個の確立とは、他者との関係を拒絶したり、孤独に生きるという意味ではない。精神的な成熟のことである。
 
 恋愛の歴史を先に進めるには、ある程度、人間として完成度の高さを要求されるのだ。それは恐らくいわゆる「恋愛の場数を踏む」というようなこととは関係がないのかもしれない。

 どちらかというと、「精神的に安定」していることが、重要のように思われる。そこには相手の人格や人生を受け入れる許容性や包容力が必要になってくる。
 これは、どちらか一方だけでなく、男女両性が双方向性に受け入れあわないといけないものである。

 逆にいうと、相互の真の尊敬がなければ、この段階には至れない。そうした関係が築けない「違いすぎる」相手とは、愛が終わってしまうのは、ある程度仕方がないことなのだ。
 その場合は、誇りをもって愛を終わらせ、もう一度別の生き方を探すのもやむを得ないのかもしれない。

 大切なのは、二人の関係が「以前とは違う」理由を見極めることなのだろう。
 ただ「違う」からといって、出会いと別れを繰り返していたのでは、これらの「愛の一生」の全過程を知らずに人生を終えることになってしまいそうである。


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愛はなぜ終わるのか―結婚・不倫・離婚の自然史

 「愛は四年で終わる」という流行語を生んだヘレン・フィッシャーの著書。
 愛の本態は身体的接触に基づく親密性であり、形は変われども「愛は続く」と考えるモリスに対し、結婚を「子育てを目的にした一過性の生物学的な絆」と考えるフィッシャーの対比が興味深いです。

 過去記事:「裸のサル」は化粧好きでデズモンド・モリスの著書を扱っています。



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