アダムの呪い 

 本書は、ベストセラー
イヴの七人の娘たちの著者である、ブライアン・サイクス博士の近著である。

 人間の性染色体のうち、女性はX遺伝子を二組(XX)、男性はXおよびY遺伝子をもつ(XY)というのは、今日では良く知られた事実である。
 しかし、Y遺伝子のどの部分が男性であることを決定付けるのかは、長い間知られていなかった。

 実のところは何かの遺伝子が存在するだけでは、それがある機能の鍵になっているかどうかにとっては”状況証拠“でしかない。
 過去においては、男性と女性の性別を決定するのは、Y遺伝子の有無ではなく、X遺伝子の数である(つまり、Xがひとつなら男性になり、ふたつなら女性になる)と考えられていた時代も存在した。
 つまりはY遺伝子は、「余分な遺伝子」と考えられていたのだ。

 1990年のネーチャー誌にて、その性別決定に必要な一連の命令に必要なタンパクを合成する命令の部分が、Y遺伝子の短腕のわずか35Kbの短い部分、名付けて「SRY(sex-determining region)遺伝子」に存在するということが発見された。

 Nature. 1990 Jul 19;346(6281):216-7.
“A gene from the human sex-determining region encodes a protein with  homology to a conserved DNA-binding motif.”

 このSRY遺伝子が男性決定の因子である証拠として、遺伝的に完全に女性である(XX)にも関わらず、身体的には完全に男性である人物の常染色体に、このSRY遺伝子の転座(遺伝子が生殖の過程で偶然に切れて他の遺伝子に乗り移ること)が起こっていることが挙げられる。
 また、完全に男性(XY)であっても、このSRY遺伝子の部分だけが失われている人物では、その身体の表現型は完全に女性であった。
 実のところは、SRY遺伝子はそれらの事実から割り出されたのだ。

 性別決定因子としては、母体でのテストステロンへの感作が知られていたが、それに加えて遺伝子レベルでの決定的な証拠が見つかったのだ。



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 著者らは、その事実を踏まえ、
「Y遺伝子は父から息子にしか受け継がれない男性を決定する遺伝子である。ならば、女性のみによって伝えられるミトコンドリア遺伝子で母系家族をたどれるように、男系家族の遺伝ツリーを描けるのではないか?」
 という疑問に答える研究を行なった。
 過去記事:イヴの七人の娘たち

 すると、確かにY遺伝子の特定のパターンにより、人類は、同じ父の遺伝子を共有するいくつかの息子のグループに分けられる。その始祖は、女性の祖先がアフリカのただひとりの女性「イヴ」であったように、ただひとりのアフリカの男性「アダム」にさかのぼる。
 ここまでは、イヴの七人の娘たちの男性版という展開である。

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 ところで、これらの二つの研究、つまり女性の歴史と男性の歴史を重ね合わせることによって、いくつかの重要な(当たり前といえば当たり前の)事実がわかったのだ。

 この研究は母系と父系の両方の先祖を正確にたどることができる。
 その結果、例えばであるが、世界中の植民地の人々が、どのようなパターンで入植者(もしくは侵略者)の血を受け継いでいるかを知ることが出来る。
 
 つまり、男性のみがやってきて平和的にしろそうでないにしろ、土地の女性と結ばれたのか、家族単位で平和的に移住したのかという歴史の痕跡を遺伝学的に調べることができるのだ。

 例えば、ミトコンドリア遺伝子の殆どが現地の土着の民族に多いパターンに由来し、Y遺伝子においては入植者の民族にみられるパターンが多かったとする。
 すると、その植民地では、入植は家族単位の移住という形ではなく、男性のみがその土地にやってきて、現地の女性と通婚したということになる。

 そして、実際のところ、多くの植民地ではこのようなパターンが見られたというのだ。

 また、モンゴル帝国のチンギスハンなどの支配者に関しては、それを始祖とすると思われるY遺伝子をもつ「息子たち」がかつての領内に多数存在ということも明らかになった。

 つまり、侵略・支配・戦争などにより、その男性のY遺伝子は世界中に広がり、被支配者のそれは淘汰されるわけである。
 これが何を物語るかは、これ以上の詳しい説明は不要であろう。
 過去記事:銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎

 人間の行動が「遺伝子の乗り物」であるという有名な理論がある。
 そのひとつの「証明」として、Y遺伝子にとっての侵略や戦争の有利性が明らかになったわけである。
 男女両性にどちらにとってもあまり愉快な話題ではないが、そう結論付けているのは私ではないので、どうかご容赦願いたい。

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 ところで、世界中の多くの文化で、「性別産み分け」という観点からは男の子が重要視される。その理由については、父系社会の維持、Y遺伝子の繁殖性の高さなど多くの理由が考えられる。
 
 つまり、「Y遺伝子の戦略」が仮説として考えられるわけである。
 
 性染色体以外の遺伝子である、常染色体にとってもY遺伝子と仲良くしていた方が、多くの遺伝子を後世に伝えられる可能性が高い。
 それらの理由から、「Y遺伝子」は、珍重されてきたのであろうか?
 しかし、これからもそうであるとは限らない(あくまでも遺伝学的に)。

 著者らの試算によると、ショッキングなことに、そのY遺伝子は「約12万5千年後に滅びる」というのだ。
 Y染色体の機能が5千世代の間に、現在のレベルの約1%にまで落ち込むと推定されるためだ。
 
 ちなみに、この「傷付いたY遺伝子」ということは、即座に「男性性の減少」などといったふうに、男性の人格や性質に影響を与えているわけではない。
 
 それはともかく、遺伝子に傷があると、それは次世代には受け継がれにくくなる。
 基本的に、妊娠・出産において、傷ついた遺伝子は、淘汰されてしまう仕組みがあるからだ。
 しかし、普通に考えると、それはすなわち人類の滅亡を意味する。

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 著者らは、こここからややSF的な議論を開始する。
 Y染色体の滅亡は、「男性」の滅亡を意味するが、人類の滅亡を意味しないのではないか?という仮説である。
 タイトルの「アダムの呪い」とは、Y遺伝子の栄華の終わりのことであったのである。

「将来的には人類には<現在の意味での>男性が必要なくなるような新たな遺伝的な仕組みを獲得するのではないか?」
という仮説である。
 
 つまり、SRY遺伝子もしくはその下流の性別決定に関わる遺伝子全体が、常染色体(性染色体以外の、いわゆる遺伝情報を司る染色体。22対存在する)のどこかに「転座」つまり引越しをしてしまえば良いというのである。
 
 つまり、性染色体においてはXX(つまり現在の女性)であるが、しかし、他の常染色体のどこかには性別を決定するSRY遺伝子(もしくはその仲間)が存在しているため、身体的な男女の別は存在し、婚姻も可能である。

 そして、受精後の常染色体同士の減数分裂による遺伝交換の際に、性別が決定するわけである。
 つまり、現在の男性決定遺伝子であるY遺伝子は滅亡しても、性別が存在することは可能であるという、かなり「大胆な」意見である。
  著者はこの架空の遺伝子を「アドニス遺伝子」と名付けた。

 そうした未来の人類の性染色体は全員XXであるので、現在の感覚からいうと、身体的にはともかく、それらの人類は遺伝学的には少なくとも全員「女性」ということになってしまう。

  実際のところ、「モグラレミング」というげっ歯類は、この方法でY遺伝子を放棄した。SRY遺伝子の下流のタンパクにスイッチを入れる部分を、他の遺伝子に移住させたのだ。
 つまり、彼らはY遺伝子をもやは持たないが、性別は存続しているのである。
 モグラレミングは、この手法による「Y遺伝子を原因とする絶滅」を防いだのである。

 ちなみに、母系の遺伝であるミトコンドリア遺伝子は、閉じた空間にあり、遺伝的に傷を受ける可能性は少ない。人類が存続する限り、母から娘へ受け継がれ続ける可能性が大なのである。

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 本書の最後は、いささかSF的な終わり方をする。
 ただひとついえるのは、生物の仕組みというのは、未来永劫、同じやり方を続けるとは限らないということだ。
  
 
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