退屈の時代には「憩いの場」ではなく「危険の場」が必要である
         (デンジャラス・エッジより 引用)


  人間には、自らが不快であると思うものや危険と思うものを、あえて求める心理がある。

 エキセントリックな事件やスキャンダルなどが、繰り返しマスコミを賑わせる心理の根底にはこのことがある。
 そういった事件の報道が、最初は単に「事実に関するもの」であったものが、徐々に興味本位の内容に移行していくのは何故だろう。

 その理由としては、勿論、「今後そのような事件を防いでいく」といったある意味正当な発想によるものもある。
 事件の背景を探ることで、そうしたことを分析しようというわけである。
 
 ところが多くの場合、そうした事件の報道の内容は時が経つにつれて、事実関係を離れて、全くその事件に関係のない部分に関する関係者のプライバシーといったことに展開していくことが多い。

 人間には、本質的に「共感」したいという心理がある。
 しかし、これらのいわゆる興味本位の報道を求める心理は、多くの場合、事件の関係者に対する「共感」をベースにしているわけではない。
 中には、自らの経験に引きつけて興味を覚える人もいるかもしれない。
 しかし、極端に猟奇的な事件などの場合は普通の人であれば、それは不可能である。
 何故なら、それらは、私達の人生にはありえない出来事であるからだ。

 むしろ「観客」は事件の当事者でないからこそ、それらの報道を「楽しめる」のである。
 楽しめないタイプの人であれば、ある程度の事実関係を知った時点で、その事件の無関係な詳細をえぐり出そうとはしない。

 楽しめるとは、随分な言い方にも聞こえる。
 しかし、映画を観て涙を流すのと、自分の人生の悲しい出来事に接して涙を流すことは違う
 それと全く同じ意味で、ある種のカタルシスを視聴者に与えているという意味で、このような事件の報道は、どのような陰惨な事件であっても、<誰も認めようとはしないだろうが>広い意味では視聴者を楽しませているのである。

 人間は、安全な場所にいる時は刺激を求め、刺激の多すぎる場所にいる時は安らぎを求める
 こうした報道とは、極論すれば、安全な場所にいる人々の刺激を求める心理に基づいた「現代のレジャー産業」なのである。
 レジャーなのであるから、そこに善悪の価値観などというヤボなものを持ち込むのは「無粋」とされてしまうわけである。


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 世の中には常に安全を求める人や、常に危険を求める心理状態の人も確かに存在する。
 しかし、多くの人の場合、絶妙な均衡でこれらの二つの心理の間を行ったり来たりするのが普通であるのだ。
 つまり、安定した状態の時には冒険を求め、毎日がスリルに満ちている時は安らぎを求める心理が心のどこかにあるのである。

 勿論これには、元々の気質も、大いに関係する。

 いわゆる「新奇性探求(Novelty seeking)」の高い人々は、冒険好きである。
 これは、人間の興奮性・活動性を司るドーパミンという神経ホルモンの受容体に関する遺伝子の多様性(*1)や感情の安定性に関係する、同じく神経ホルモンの、セロトニンの脳内での運搬に関する機能の多様性(*2)などが複合的に関与していると言われている。
 *1:dopamine D4 receptor (DRD4) gene exon III repeat polymorphism (VNTR)
 *2:serotonin transporter-linked functional polymorphism (5-HTTLPR)

 つまり、遺伝的にある程度は、慎重かチャレンジャーかが決まっているという考え方も出来るのだ。
 しかし、「慎重」か「大胆」かというのは、それだけでは一概には決まらない。
 多くの人は、状況によって、そのどちらを適応させたら良いかを<ある程度は生まれながらの気質の影響はあっても>後天的に学習していくのである。
 最終的な選択として、どちらを好むかという傾向はあっても、状況によって両者を使い分けるのが、多くの人のやり方なのだ。
 

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 人間が冒険できるか否かには、ベースとなる感情が大切である。
 
 極端に安全を求める人の心理の根底にあるのは「不安」である。
 冒険出来ない人の心理を、「安全なところでぬくぬくしていたいため」と解釈するのは少々間違っている。

 人間は、基本的な「安心感」、つまり心の安全領域が確保されていないと、冒険出来ないのである。
 人間は、「確かな精神的基盤がないところでは冒険出来ない」のが普通なのである。

 つまり、子供がお母さんの見ているところでなら、安心して遠くまで走っていけるのに、見知らぬ人ばかりのところでは立ち尽くして泣くばかりなのと同じである。
 
 冒険出来ない人というのは、心の中の安全ゾーンが狭い、もしくは不安定なために、思い切ったことが出来ないのである。
 つまり、普通の人なら全く平気なことが心配でならないのである。

 それには、先ほど挙げた神経ホルモンにより形成された「不安の強い気質」ということもあるかもしれないが、生い立ちや教育により、成熟した自我を与えられるチャンスを奪われてしまった場合も考えられる。
 実のところ、これを確立するのが教育の大きな目的のひとつであるのだ。
 
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 良い意味での「チャレンジャー」つまり、冒険好きな人というのは、基本的に、心の中の安全ゾーンがきちんと確立している人である。
 人間の進歩の殆どは、新しいことへのチャレンジにより達成されている。
 従って、ある程度「向こう見ず」といって良いくらい大胆な人の存在は必要である。

 勿論、こうした人の中には、環境や学習によって培った、確かな根拠や実力に基づいて心の安全ゾーンが確立している場合もある。
 また、先ほど述べた気質の問題もあって、不安に感じる状況(つまり恐怖)を克服出来る「心の強さ」をもっている場合もある。
 恐らく「最善のチャレンジャー」はこれが善き方向で導かれた場合にこそ誕生しえるのだろう。
 このような場合は、「世界的な冒険家」「優れた外科医」「尊敬される政治家」「歴史に残る経営者」など、新しい分野を切り開く偉大な人物になることが出来る。

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 ところが、「根拠のない自信や全能感」に基づいて何でも行動に移してしまうという場合がある。

 「普通の人であれば、不安に思うようなことに平然としていられる」というのは一見誉め言葉であるが、その裏側の意味を良く考えてみて欲しい。
 それが逸脱した方向に向かったものの究極の状況が、いわゆる犯罪行為なのである。
 つまり、自分や他人の身体・生命・財産を危険に曝すようなチャレンジをしてしまうというケースだ。
 分かりやすいものとしては、公道での集団暴走行為、反復する他人に対する詐欺行為、病的なギャンブラーなどが挙げられるであろう。

 付け加えて言うならば、こうしたことを律していくことを教えるのが、教育の別の目的なのである。
 教育とは、先に述べたように確かな自己を築かせことと、自らを本当の意味で知ることを一人の人間の中で両立させることを教えるものなのかもしれない。

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 ともかく、慎重さであれ大胆さであれ、それ自体に善悪はない
 慎重さは臆病さでもあり、賢さでもある。
 チャレンジャーは、良い方向に向かえば社会の牽引力になるし、悪い方向に向かえば社会を破壊する。

 ただひとつ言えるのは、どちらの性質であれ、それが本人もしくは他者の人生の足かせになった時は、それは「病的な心理状態である」と判断されることになるという点である。


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 このように、人間の活動性には、ある程度の気質に基づいた一定の傾向があるにはある。
 人間には、ある程度は気質の違いにより、本業の忙しさとは関係なく好みの「余暇」の過ごし方が存在する。

 新奇性探求の強い人は、「ストレスの多い一仕事」を終えた後にも、家でゆっくりと過ごすよりも、いよいよ精神の高揚を感じて夜の街で馬鹿騒ぎをすることを求める。
 より内省的な時間を求める人もいる。
 この違いというのは「能力」や「仕事の完成度」とはあまり関係がない
 「出来る」イメージがある精力的な人を「仕事が出来る人」と決め付けることは出来ない。
 また、一見生真面目に見られる静かな人が、必ずしも思慮深いとも限らない。
 あくまで、生き方のスタンスなのである。

 過去記事:ルーカス帝国の興亡―『スター・ウォーズ』知られざる真実

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 しかし、多くの人は、それほど極端には走らない。
 程度問題はあれ、多かれ少なかれ多忙な時には安らぎを求め、そうでない時には刺激を求めるのである。
 それが自然に調節できない人は、心のバランスを崩しやすい。

 都会に暮らす人は、休暇には自然を求め、郊外に暮らす人は都会に繰り出す。
 そうして日頃の生活では得られないものを満たすのである。

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 人間は、心の中のセーフティネットが存在している時にこそ、刺激を求めたくなり、不安定な世界をのぞき見たい気持ちになるのである。
 つまり、私達の世界の平和さと安全さが、「レジャー」のあり方を変えてしまった可能性があるのだ。

 ストレスフルな毎日の反動で、「スローライフ」などの「癒し」がキーワードとして取り上げられることも増えた。
 しかし、「平穏さからの一時的な逃走」を願う人の比率は、まだまだ減少してはいない

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 スキャンダラスな報道に話を戻すと、その証拠に、そうしたものは、世の中の人にとっては、ある種の人生の格好の「暇つぶし」である。

 自分自身が大変な問題に巻き込まれている時、極めて多忙な時にこうした情報を詮索しようと思う人はあまりいない
 ゴシップが好きな人が、ゴシップに満ち溢れた人生を歩んでいることはまずないのである。
 そうした人は、多くの場合「安定した人生」を送っている。
 別の言い方をすれば、それはその人にとって「退屈な人生」であるのだ。

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 誤解のないように言っておくと、客観的な意味では、世の中に「退屈な」人生など存在しない。人生をどう捉えるかは、あくまでも主観的な問題なのである。
 毎日、シンプルな生活を送っていても、何気ない日常の心の移り変わりに深い満足を送ることは出来る。
 心の充実というのは、表面的な成功不成功などの、外からの物差しでは測れない。
 これはあくまで、その本人の潜在意識下での世界観の問題なのである。

 また、「ゴシップ好きな人」というのはもはや特別な人々を差別する言い方ではなく、現代人の殆どが、ある意味ではここに属するのである。

 どんどん過激になる露悪的な報道の根拠は、それぞれの個人の状況ともかく、私達が生きる時代の「総和としての」退屈さと平和さである。
 現代の先進国には、安全に生きていられる、「高みの見物が出来る」人の方が圧倒的に多いのだ。

 「面白ければ、それで良い」と感じるのは、現実の人生から、「面白さ」がどんどん剥ぎ取られている証拠なのかもしれない。

 何故なら、本来は「自分の人生が一番面白い」のが、人間という生き物であるはずなのだ。
 私達の人生は、そうしたものに依存しなければならないほど、つまらないものに変化してしまっているのだろうか?
 

デンジャラス・エッジ―「危険」の心理学
 私達が「危険を求める心理」を総括的に考えた書籍。
 −安全な社会に生きる人間には、レクリエーションとしての「危険」を求める心理がある−という理論に違和感を感じる方もいるかもしれません。
 しかし、それはある意味での真実をついていると言わざるを得ません。
 専門家ではなく一般の人を対象にしているという著者の言葉通り、とても読みやすい本です。
 気質と遺伝子の問題などの知見には触れておらず、あくまでも目に見える問題を取り扱っている書籍です。


これ以外にも、人間は刺激に慣れやすいという性質があるということも、見過ごせない事実としてあるように思います。この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


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