未熟なオトナと不遜なコドモ―「きょうだい主義社会」への処方箋 
 
 われわれの社会は、物欲まみれの資本主義だけではなく、長老や祖先から伝えられたあらゆる思想、宗教、文学に不審を抱く愚かさによっても損なわれてきた。多くのきょうだい主義者たちは、誰からも価値あるものを受け取ったことはないと確信している。だが昔は、すべての男女は現在過去を問わずその他すべての人々に恩義があり、動物や植物や神々にも恩を受けているというのが真実だったのだ。(未熟なオトナと不遜なコドモ より引用)
 
 本書で用いられている「きょうだい」という単語は、血縁関係のことではない。また、男性のみに限定されて用いられているわけではない。
 本書の一貫したテーマは、「人間関係が水平方向だけで成り立っており、過去や未来、つまり垂直方向の関係から分断された時代の人間像」である。

 私達の世界は、「強烈な仲間意識」で成り立っている。
 大人たちは、若者へと退行することで、その社会のルールから脱線しまいと努力を続ける。
 そこには「優雅さ」「賢さ」などで敬意を集める大人になるのではなく、「迎合」と「偽の共感」でいつまでも仲間に加わろうというわけだ。
 その結果、大人達は下の世代からの尊敬を失っていく。
 
 そして誰もが、「上の世代」に括られることに恐怖を覚え、「退行」への涙ぐましい努力を続ける。そして、そうした努力が馬鹿げていると思ったとたんに、突然、居心地の良い「おじさん」「おばさん」の座に居座ろうとする。
 下の世代に何かを伝えようとするわけでもなく、その新しい世界で閉じた社会を形成し、「不愉快な」若者の世界と永遠に決別してしまうわけである。

 この構図は、「下の世代が上の世代を拒否する」というような単純な図式ではなく、双方向性に互いの関係を断ち切っているのである。

 現代は、どの世代もが居心地の良い水平社会に安住し、垂直方向の関係を遮断する方向に向かっている。


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 広告会社重役の平均年齢は、たとえばマッキャン=エリクソンなら、今や三十四歳かそこらだ。テレビでも映画でも音楽産業でも、若者が若者のために広告を流し、年長の指導者はほとんど残っていない。年長の男女に特有な美点である精神の深化と強化は、きょうだい主義者が動かす企業ではお呼びではない。(未熟なオトナと不遜なコドモ より引用)
 
 ところが、いわゆる「若者文化」の価値観はここ50年近く、何も変わっていない。ジーンズも革ジャンもロックミュージックも、もはや「大昔」から存在している。
 世代交代しながら、似通った文化の中に人々が「参加」しては「卒業」していくのである(卒業しない人もいる)。
 現代は、文化的には、懐古趣味的な時代であるのだ。

 前の世代より学ぶことは何もないといっているわりには、コマーシャルに使われる音楽といえば、60~80年代のいずれかの時代に流行したもののリメイクが多い。新しい映画ですらも古い映画からイマジネーションを借りたり、場合によってはリメイクものだったりする。
 
 90〜2000年代に生まれた新しい“様式”というのは、殆どないのだ。
 どうやら現代は「創造の世紀」ではなく「模倣の世紀」であるらしい。
 文化は、一種の膠着状態になっている

 音楽の様式の例を挙げれば、自分たちの聞いている音楽が、過去の時代の遺産だと思っている十代はあまりいない。
 五十〜六十代の人は、実際は自分たちの時代のリバイバルのような音楽を聴いているはずなのに、何故彼らがそれらに魅かれるのかを理解しようとはしない。
 
 実際は十代から六十代まで、同じ音楽を理解出来る時代なのであるが、誰もがそれを認めようとしない。
 ビートルズが出現した時の60年代に世代間の感覚のジェネレーションギャップがあったのであれば理解は出来るが、現代においては、いわゆる「感覚のずれ」は過去最小なはずである。

 ファッションや文学などの他のジャンルでも、目を見張るような革新がこの10年くらいの間に起こったということは何一つない。

 ところが、現代では誰も、それらのスタイルを創りだした前の世代の人々に敬意を払うことはしない。自分たちが模倣の世代であることにすら気付いていないのだ。

 何故ならそれらは、「親から子へ」大切に受け継がれた種類の文化ではなく、他人やマスコミによって伝えられた、単なる生活の背景であるからだ。
 現代人で、「前の世代と文化を共有」しているという感慨をもつ人が殆どいない理由のひとつは、その伝播が個別的なものでないせいなのかもしれない。

 「私は誰からも何も教わっていない」
 「前の世代から学ぶことなど何もない」
 と誰もが思う現代は、至上最大の模倣の世紀であるのだ。
 


未熟なオトナと不遜なコドモ―「きょうだい主義社会」への処方箋 ロバート・ブライ著
 
 本書は、この「水平方向への関係」のみで成り立っている社会を「父性の不在」というキーワードで読み解こうとしている本です。
 しかし、ロバート・ブライは、強権的な父性の復活や女性を抑圧する社会をもたらそうとしているわけではありません。
 「父性による若者のイニシエーションの消失」が男性の人生から目的意識や行動規範を奪っている、ということを述べているに過ぎません。
 この理由として、誰もが並列的な関係以外を持ち得ないという状況を挙げいるのです。
 本書では、その根底に、父性と男性性が「前時代の遺物」であり価値のないものと見なされている以上、あえてその役割を果たす人間はいないという心理があるのではないかという問いかけをしています。

 また、「水平化社会は女性の社会にも及んでいる」というのが著者の視点です。過去の「女性を社会の呪縛から解き放とう」という運動に敬意を払わないわけではないと著者は述べています。
 しかし、全ての女性が社会の中で、まだ十代のうちから「ピンナップガール」のように堂々と消費の対象であると見なされた文化はかつてありませんでした。つまり「所属」の対象が、家庭から社会に変わっただけで、人間的な価値の向上という点では、何も前進していないという考え方も出来るというわけです。むしろ、「消費される存在」である分、価値を減じているのかもしれないというのがブライの考え方のように思います。
 「女性の価値」が「商業主義」的な評価に基づくようになったことこそが、女性が退行を演じるのひとつの理由なのかもしれないという読み解き方です。
 
 男女共に、「既存の社会の厳しいルールから開放されたはずであるはずなのに、あらたに『商業主義の奴隷』になっているに過ぎない」という現代社会の病理を、神話や童話を題材にしながら読み解こうという著書です。


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