Small World
 邦訳:小さな世界 デヴィッド・ロッジ 白水社(現在絶版)

  世界は今やグローバルキャンパスさ
   (デヴィッド・ロッジ“小さな世界”より 引用)
 

 
 興味が個別化している現代では「有名人」も個別化している
 正確にいうと、「有名人」という存在は雲散霧消している。
 過去記事で取り上げた東大で上野千鶴子にケンカを学ぶには、テレビを見ないために「テレビタレント」を知らないアカデミックな世界に生きる人々が出てくる(アカデミックな世界に生きる人が皆テレビを見ないわけではないが)。
 それに対して、タレント」である著者は、学問の世界を知らなかったために「学問の世界の有名人」を誰一人知らない。

 このようなことは、現代の社会ではいくらでもある。
もはや「芸能人」という存在すら、「有名人」と同義語ではない。
 学問の世界に生きる人に限らず、情報を得るためにテレビを見ない人の比率は、某社長が言い出す以前から増加する一方である。
 テレビを始めとする、マスコミ自体が半歩遅れた存在であるのだ。いまや、そうした手段を介して多くの人がその情報を「知る」段階では、それが古い情報になっている。
「遅れている」などという言葉自体が「遅れている」のだ。

 こうしたことを抜きにしても、どのような人物であれ、ある世界でどれほど知られた存在であっても、他の世界でも「価値のある存在」であるとは限らない。

「自分は、別の世界では何者でもない」
 この当たり前の事実を理解出来ない人が、この世には存在する。
 というより、私達の誰もがそうなる可能性を秘めている。
 自分の良く知っている世界を一歩外に出て、肩書きも経歴も無関係な世界に行けば、人間はひとりの個人であるのだ。

 そこには「自分」という看板しかない。
逆にいうと、「名刺」や「履歴書」を示さなくとも、「この人は素晴らしい人である」ということが伝わってくるような生き方をしなくてはならないのだ。
「衣装」を身にまとわなければ価値が示せないということは、ある意味、とても淋しいことなのだ。

 私は一人一人の方が自分の人生を賭けて築き上げてきた「履歴書」を馬鹿にしようというわけではない。
 誰もが、それを誇りに思うべきであるし、私達の誰もがかけがえのない個人ではあることは間違いがない。
 しかし、そうした価値というのはあからさまに誇示するものではなく、その人の存在からにじみ出てくるものなのだ。

 まず、「自分の価値を相手に分からせひれ伏させる」ことから人間関係を始めようとする人は、相手に薄っぺらい印象を与えることは間違いがない。
 また、相手の肩書きを確認しないことには「不安」で人間関係を築けない人は、長い人生のなかで、人を見る目を全く養おうとしてこなかったということになる。

 

1984年


最新人気blogランキング!
 
 「客観的な事実が大切なのです」
 という言い分は分からなくもない。
 私自身、客観的な情報を極めて重視しながら生きている。
 しかし、それをどのように極めても、情報というパーツを張り合わせた総体は、あくまで無意味な「ジャンク」であるのだ。

「故に、情報を一つの建物に溜め込んだり、一流の学者を一つの大学内に囲いいれたりする必要はもはやないのさ。ここ二十年間に学問生活に革命をもたらしたものが三つある、もっともその事実に気付いているものはごく少ないけどね。−ジェット機旅行、区域外直通ダイヤル電話、ゼロックス複写機。今じゃあ、学者はお互いに啓発し合うために同じ機関で仕事をするなんて必要はない。互いに電話をかければいいし、国際学会で会える。それにデータを集めるため図書館の書架を探し回る必要もない。面白そうな本や論文はどんなものだってゼロックスで複写して家で読めばいい。(デヴィッド・ロッジ “小さな世界” 白水社刊より引用)」

 この本の刊行は、1984年である。
 ジョージ・オーウェルの小説
1984年で、「近未来」であると予想された1984年だ。

 1984年は、現在から見ると「過去」である。
 この時代の、「情報」の拡散法は、現代から見るとあまりにものろのろとした存在に見える。
 一枚一枚、ファックスを送り、海外の人と瞬時に連絡を取りたい用があれば高価な国際電話をかけなければならない。
 しかし、当時はそれらは「画期的」であったのだ。

 この「ジェット機旅行、区域外ダイヤル通話、ゼロックス複写機」を「インターネット」に置き換えると、これはまさしく現在、なされている議論と同じである。
 実のところは、情報の爆発的な拡大が起こるたびに、「私達はもはや全てを手に入れた」という論調の、同様の主張が繰り返されてきた。
 過去記事:読書の歴史

 得られる情報の量と瞬時性が高まるたびに、「物事というものは、そうした情報を何かに『入力』しさえすれば、誰もが客観的に判断出来るようになる」と信じられてきた。
 しかし、今も昔も、情報や知識自体は「無色透明」な存在であり続けている。
 そこに価値をもたせるのは、あくまでもそれを利用する個人の力量なのだ。
 
 情報とその伝達手段について、「新しい」か「古い」かなどということを云々すること自体が、無意味である。
 情報は、それをどのように構築するかを知っていてこそ、意味を成す。
 私達の思考によって構築された世界は、昔から「小さな世界」であり続けたし、これからもそうである。
 反語的表現をすれば、その小ささこそが、ある意味では私達の個性であり、「らしさ」であるのだ。
 
 私達は、個別の世界感を築き上げなければいけない。
 その上で、それと同時に、自身の世界が脆くはかないものであることを知らないければいけないのだ。
 自らと対峙するとは、おそらくそうしたことなのだろう。
 情報で飾り立てて、自らの中身のなさをカバーしようとしても、自ずと全てが透けて見えてしまうものなのだ。

  ******************************

 私達の先人たちは、今までに幾度となく、
「我々は二度と互いに顔をあわせなくても全ての事物が判断できる。それは、個人の感情といった“バイアス”が入り込まない分、より正確で有用である」
という結論に達し続けてきた。

 しかし私達は未だに「外出」を続けているし、個人の感情は、いまだに物事の判断において「思考」と双璧をなしている。
 それが善か悪かは別として、人間はそういう風に出来ているのだ。

 客観性が重要な局面で、極度にウエットな思考をするのは良くない。
 しかし、心の中で「何か」が「ノー」とアラートを鳴らす時に、それを無視することは、必ず判断の誤りをもたらす。
 実のところ、成熟した感情というのは、長年の経験と思考の蓄積により、それらを統合した機能でもあるのだ。


 ある一部の人々は、鼻息も荒く、「できるだけ正確な情報の断片」を集めれば、世界を構築できると信じている。
 恐らく、彼らの描いている未来は、小さな額縁に入った、ジグゾーパズルで構成された絵画のようなものなのだろう
 未来図が決まっているからこそ、何もかも予測的に決定できると信じているのだ。
 しかし残念ながら、この世はジグゾーパズルのような閉じた世界ではない。
 ジグゾーパズルは完成形が決まっているが、この世の現象にはそうした答えといえる「未来図」はないからだ。

 恐らく、未来の人類は「インターネット」の出現によって全能になった考え有頂天になっている私達を見て、大いに笑うであろう。
 
 「情報の量と伝播の速度」は世界を何も変えはしないのだ。

***************************

 私達は、二重の意味で、「小さな世界」に生きている。
 
 まず第一に、私達はある程度は利他的な存在として、いつかどこかで無関係であるはずの他者とつながる「小さな世界」に生きているという意味合いである。
 この世は広いようで狭く、私達は互いにつながりあっているというあまりにも当たり前の事実を知らなければならない。

 次には、私達がどのように努力しても、ある意味では、閉じた世界の住人であるということだ。
 私達が何かに成功したからといって、それは全世界を制覇することを意味しない。
 人間は、ふと巡りあった成功をきっかけに、自分がとてつもない「パワー」の持ち主であると錯誤することがあるが、それは幻想に過ぎないのだ。
 普通、成功の時から時が経てば経つほど、人間はそれを理解する日がやってくる。
 
 私達が、自分の生きている世界に“意義”を求めようとするのは、ある意味当然のことだ。人間は、アイデンテティを確立することなしに生きていくことは出来ない。

 しかし、それと同時に、私達は
「誰も自分を知らない」
ということを知らなければいけない。


 
Small World 小さな世界

 
Small Worldは入れ子式に複数のストーリーが重なり合った多層的な小説である。
 主人公は、アイルランドの大学に所属する”世間知らずな“大学講師パース・マグリグル。彼が追い求める魅力的な女性「アンジェリカ」は聖女か、そうでないのか。
 そもそも、何故彼は「アンジェリカ」を追い求めているのか?

 劇中劇のように展開する、さながら
マディソン郡の橋を思わせる、大学教授フィリップ・ザップの“ジェノバの飛行機事故の恋”のエピソード。
 これは、「マディソン郡の橋」さながらに、「生涯忘れがたいひとときの強烈な恋」で終わるのか?

「昔は美しかった」引退した学者であるミズ・メイドンの秘密とは?

 学問という「閉じた世界」に生きる人々が(本人達は世界中を旅して回っており、そうは思ってはいないだろうが)繰り拡げる、これはどちらかというと「喜劇」であろう。
 さながら、ファッションの世界に生きる人のように、「学会」の流行から進みすぎず遅れすぎず生きることが彼らの目的である。
 もはや、学問は手段であるかに見える、学者たちの姿を痛烈な視線で描き出している。
 彼らにとってはもはや、学問とは退屈でしかないのだろうか?
 学問も、恋愛や結婚などの個人的生活も、過去には「新鮮であった」全ての事象が、時を重ねるにつれ単なる生活の背景になってしまった「教授」達の風景に、ある意味、胸がつまるものを感じずにはいられない。

 本書は、そうした複数のテーマが交錯する、アイロニーに満ちた作品である。
 単一なテーマの、分かりやすい小説に飽きた方にはお勧めだと思います。

 ただし、この本を読んだ後は、かなり虚無的な気分になる可能性があります。
 解毒のためにも家族愛を扱った名画
黄昏
でも見て、心を浄化することをお勧めいたします。

 *本書は、同じくデヴィッド・ロッジ著の
Changing Places(邦題:”交換教授” 白水社刊 こちらも現在絶版)の続編です。
 交換教授の方は、イギリスとアメリカの大学で半年づつポストを取り替えた二人の大学講師が、異文化体験による精神の変化を通じて「妻」まで取り替えようと考えるに至ったという物語。
 過去記事:イギリス的生活とアメリカ的生活


この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


元祖ブログランキング ほかのブログも見てみたい!