意識には、理性や精神の働きを通して、そして理論や論理、あるいは仮説を用いて獲得した意識がある。
 しかし、よく知られているように、「直観」は、直接ディテールをつかみ、「直観」にふさわしい形で音楽を感じ、また理解することを可能にしてくれる。
 優れた水準にある意識と同じように、このような画期的な直観は、とりわけ表現の自然さや純粋さ、そして芸術の中できわめて重要な価値をもつ新鮮さによって特徴づけられている。
 (“ベネデッティ・ミケランジェリ”より 引用)



ベネデッティ・ミケランジェリ―人間・芸術家・教育者
 
 世の中には、芸術家であるが良き教育者ではない人は大勢いるし、その逆も大いにあり得る。
 「芸術家」という部分を、「専門家」「経営者」などの他の単語に入れ替えてもこの事実は成り立つ。

 この世の中を漸進的に進歩させていくためには、どう考えても未来を担う人材を育てなければいけない。
 自分が優れた人間たるべき努力をするだけでなく、それを次世代に伝えなくてはいけないのだ。

 「豊かな人間性」と聞いて思い浮かべる人物像は人それぞれであろう。
 しかし、私にとっては「心の豊かさ」とはあくまで人生を自己完結させないということを意味する
 自分ひとりのために技能を身につけたり、富を占有しようとしたりといった努力は、ある意味、誰にでも出来る。
 しかし、人間は誰しも自己を完成させた後は、それを誰かに伝えてこの世の生を終えなければいけないのだ。


 「一億総コドモ時代」の最大の弊害は、恐らく誰もがコドモ世代に留まり続けたがることなのかもしれない。
 これによって生じる問題は、個々の人間の精神の未熟さといったことだけではない。 
 
 こうした時代において、「次を育てる」ということに意義を感じる人間の数が、減少する一方であると感じるのは私だけであろうか?
 自分が蓄えた技術や知識を、あたかも既得権か財産などのように抱え込んでしまう人が増えたのだ。
 コドモ化した社会の最大の問題は、実のところは、次世代への経験や知識のリングが途絶えてしまうことなのである。


 
ミケランジェリ ある天才との綱渡り


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 ある意味、次の世代に何かを伝えることは、自らの人生のライバルを増やす行為である。
 生命予後が延長した現代では、自らもいつまでも「引退」せずに市場における労働価値をもつ商品として存在し続けなければならない。
そうした環境の中で、次世代に何かを伝えようとすることの価値は薄れる一方である。
 その端的な表現ともいえるムーブメントが、自らの子孫を産み育てることへの意欲の減少=つまり少子化なのかもしれない。
 
 もはや包括的な意味でも、「次世代を生み育てる」ことは、現代人にとって自らの人生の「足手まとい」になってしまったのであろうか?
 現代においては、直接の子孫といった意味合いだけではなく、間接的な意味での「次世代」という存在の全てが、次第に無価値な存在になってしまったようにも思えるのである。
 しかし本来は、次世代という存在は自らの「子供たち」であり、愛を注がなければならない対象のはずである。
 
 自らのもてる経験、特に文字にあらわすことが出来ない無形の、いわば「意識のあり方の総体」(つまりそれを文化というのだろう)を次世代に受け渡して私達は自らの生を終えなければいけないはずなのである。

 ところが現代社会では、例え世代の格差があろうとも、全ての人は水平方向の関係で成り立っている。
 もはや次世代は何かを伝えるべき「弟子」ではなく、自らの同格のライバルだとでもいうのだろうか。

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 直観(直感)というのは教えられるのですか?
という質問を受けたことがある。
 つまり、熟練した技術者や経営者などが内部に有している、言葉に出来ない判断力は、「教育」で伝授できるのか?という質問である。

 これに対する私なりの答えは、「イエス」である。
 しかし、それは、紙に書いて説明したり出来るか否かという意味では「ノ−」である。
 直観≒正しい判断力を次世代に伝えるためには、彼(女)を自らの側において、自分の日々の生きかたを通じて、包括的に教えなければならないのである。
 中世的な徒弟制度を復活させようというつもりはみじんもないが、これは事実であると思う。

 考えてみれば、次世代を傍らにおいて自らの生きかたを示す、というのは、昔から親が子を教育する時の基本的な手法でもある。

 私達は、学ぶものとしては謙虚な「子供」となり、次世代にとっては偉大な「親」にならなくてはいけない
 「これは」と思う人がいれば、思い切って懐に飛び込んで人生を学び、自らも次世代のために同じことをする。
 決して、その逆ではいけないのだ。
 つまりは学ぶものとして尊大な「大人」の態度をとり、次世代に対し水平志向の「子供」の態度をとるやり方である。

 こうしなくてはいけない理由は極めてシンプルである。
 いつの日か、私達の誰もがこの場を去らなくてはいけないからだ。
 
 偉大なピアニストであるミケランジェリは、
「有名なピアニストである自分」ではなく「音楽」そのものを愛していた。

 私達も彼のように、自らの名声ではなく、自分が属する社会そのものを愛することが出来るのであれば、きっと次世代に何かを伝える生きかたが出来るはずである。



ベネデッティ・ミケランジェリ―人間・芸術家・教育者
 世界的なピアニストであるミケランジェリは、イタリア貴族階級の出身である。
 「貴族的な」なということは「鼻持ちならない」の代名詞ではない。
 ミケランジェリにとっての「貴族的な」ということは「欲のなさ」を意味する。
 ミケランジェリは、商業主義的な宣伝を嫌い「謙虚さや誠実さ、正直さ、その他あらゆる自然な行動(嘘、偽りのない行動)をもつ人間を好む(“ベネゲッティ・ミケランジェリ ”より引用)繊細な人物であった。
 芸術以外のことに時間を遣うことを嫌ったが、反面、後進のピアニストの教育には惜しみない時間を注いだ。
 「芸術」という宝を自らの世代から次の世代に伝えることを重視していたのだ。
 人間性、才能を兼ね備えて、かつ教育者でもあるという生きかたは誰にでも出来るものではないのかもしれない。
 しかし、私達の誰もが、彼の人生のエッセンスを盗むことは出来る。
 誰もが「かけがえのない自分」をもっている。
 その自分の大切な部分を誰かに伝える喜びは、本来は自分がそれを発揮すると同格の喜びである。
 それを忘れがちな現代人に、ひとつの「古典的」「王道的」な人間としての生きかたを示してくれる書籍である。

 *過去記事:未熟なオトナと不遜なコドモ
において「人間の関係が水平方向によってのみ成り立つ社会」についての記事を書いています。


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