医療人類学―世界の健康問題を解き明かす

 変化は本来、集団に損害を与えないし、ストレスは必ずしも人を苦しめない                   (医療人類学より引用)

 人間は、異文化に接することにより、大きなストレスを受ける。
 これは個人レベルでの旅行、留学、海外赴任などでもそうであるし、異なる文化をもつ集団同士が初めて接触した場合にも起こりうる。

 ちなみに「ストレス」というのは、一般に考えられているのと異なり、必ず悪い側面ばかりを有しない。
 もしかすると、「ストレス」ではなく「刺激」という言葉を用いた方がこの語義の二面性を端的に説明出来るのかもしれない。

 多くの場合、刺激が適度で個人あるいは集団の許容範囲内であれば、それは正の意味になる。
 あくまで、生物学的または文化的な意味で刺激に対する不適応が生じたときに、初めて問題が生じるのだ。個人レベルでは心の問題を引き起こし、集団のレベルでは集団間の軋轢と闘争が生じる。

 
医療人類学―世界の健康問題を解き明かす
では、過去に起こった異文化ストレスの例として、「食物の供給源の破壊と消耗、疫病の流行、奴隷化、居留地の強制移住、大虐殺」などを挙げている。
これらは全て、異文化をもつ集団間の物理的接触に伴い起こってきたものである。

 今日では、物理的な異文化接触によるこうした闘争的で明快なストレッサーは、<疾病を除いては>ほぼ消滅しつつある(疾病だけは新種の感染症が世界に広がる伝播の速度が過去に類を見ないほど加速化している)。
 
 ところが今や、異文化ストレスは、こうした空間的な移動を伴うことなしに、私達の心に深い影を落とし始めている。
 今日の異文化ストレスは、こうした物理的な要因でではなく、むしろ情報への接触によって起こっていると考えるのが妥当であろう。
 私達は例え、一歩も外に出なくても、世界中の異なる世界の人々の多彩な価値観に接することが出来る。


 こうした情報の多くが「この世にはあなたの知らない世界がある」
「あなたにはもっと自分の気付かない可能性がある」「チャンスは無限大だ」という“幻想(あえてこういう表現を使わせていただく)”を私達に与えてくれる。

 無論のこと、情報の増大は、今まで一握りの人に占有されていた“チャンス”を私達の全てに与えてくれるというわけだ。
 つまり、現代においては、全ての物事に対して機会は均等に開かれているようにも思えるのだ。
 現代は至上最高の「機会均等社会」なのであろうか?

 ところが、現代人は多かれ少なかれ、かつてない程の「不平等感」「不公平感」「不全感」などに悩まされている
 その理由は一体何故であろうか?


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 異文化が接触することによる、最も悲劇的な結末は、片方の文化の絶滅である。

 しかし、多くの場合、異文化接触は一方の文化の絶滅のような極端な「変化」をもたらさず、文化変容と呼ばれる現象を生み出す。

 文化変容は二つの異なる文化をもつ集団が持続的に接触した結果、自らの社会を大規模に再構成することを指す。
 こうした文化変容は、現在の地球上では、国家レベル・民族レベルで日々絶えることなく起こり続けている。

 この文化変容という事実は、もはやノスタルジックな感情によって、誰かが止めることの出来ない、大きな歴史の流れであるのかもしれない。
 この「変容」の中には、大国の論理が小国に伝播するというものだけではなく、小国のそれがエスニック文化という形で徐々に大国に浸透するということをも意味する。

 こうした中で、適切な学びの場を持たない「小国」の最も優秀でしかも富裕な層の若者は、学業の場を異国に求め(現代ではアメリカに)るという「物理的な」頭脳の流出はもはやとどめようもない。
 世界中の若者は「母国」という枠組みを超えて、世界のどこにチャンスがあるかを情報として知っているし、それを自らの人生に取り入れる権利をもっている。

 情報がもたらすこうした「行動につながる変容」は、確かに個人の生活に有用であろう。
 しかし、情報がもたらすいわば「意識の変容」いわば行動につながらない変容は、現代人にとてつもない「無力感」をもたらしている
 つまりは、私達はもはや、「身の丈にあった人生」で満足が出来ないほどの情報に曝され続けているのだ。

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 かつての社会では、「ムラ」の価値観に沿って、先祖代々の職業に就き、親の取り決めた結婚に従うという文化が世界の至るところで見られた。
 ちなみに、私は何も、こうした文化に所属することが人間の幸せだと言いたいわけではなく、「そうした事実が存在した」ということを言いたいだけである。

 しかし、今やこうした文化を存続することは、もはや不可能である。
 その最大の原因は、何よりも、「もっと別の生きかたがある」という情報の浸透であろう。
 現代人は、家にいながらにして多くの異文化体験を果たすことが出来るのだ。
 そう、机上のグローバル・キャンパス(デヴィッド・ロッジの“小さな世界”の言葉を借りれば)であるインターネットの発達は、かつてないほどにその情報の速度とそして「個別性」を高めている。

 これが決して悪いというわけではない。
「情報を遮断することにより不満を押さえ込む」
という方法は、過去にも現在にも多くの独裁者が試みているやり方である。
 何も知らなければ、過酷な人生に耐えられるというのはあまりにも馬鹿げた考え方である。

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 しかし、こうした情報化の中で「より多くの情報を活用するためには、より多くの知性≒思考が必要である」というもっとも大切な側面が、すっかり抜け落ちている傾向が存在する。
 より複雑な現象を取り扱うには、より多くの個人的な思考のレベルの向上が必要なのである。
 ところが、まぶしいばかりの「情報」の洪水と、それを吸収することに要する時間の増大は、私達からこうした知性を育てる時間を奪い去っているのである。

 私達が、個人レベルの生活に満足出来ない例は、恋愛・結婚から職業選択、経済活動までの多岐に渡っている
 多くの情報は現代人の耳元で、「もっと良い恋愛がありますよ」「もっとあなたに向いた仕事がありますよ」「もっと儲かる方法がありますよ」と囁き続けている。
 もはや、私達の未来には、現在の生活では計り知れない広大な可能性が広がっているようにさえ思える

 しかし、人間は、所詮は「身の丈にあった生き方しか出来ない」ように出来ているのである。この言い方が悲観的に思えるのであれば、「私達は自分自身でしかいられないし、自分の生きた分の成果しか得られない」のである。
 それは、情報を得ることを行動のきっかけに出来る人、つまりはそれによって自分の枠を広げることの出来る人にとってのみ情報は有用であるという意味である。
 そうでない人にとっては、恐らく、情報は自己の不全感を募らせる原因となる。
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 つまりは現代は「羨望の時代」なのである。
 この世には、自分より恵まれた誰かがいるというのは、古今東西当たり前の事実である。
 しかしその事実がここまで個人の精神生活に「無力感」という形で浸透しているのは、恐らく現代だけであろう。

 情報を自分を知り、何かに向けて努力するきっかけにすることが出来るなら、恐らく「情報という異文化」は、私達の味方となり得る。
 しかし、情報の存在により「可能性」という魔物に魅了されてしまった時、私達は自らの人生を完結出来なくなってしまう
 情報という「大国」に個人という「小国」が飲み込まれてしまうわけだ。

「もっと良い自分がある」という幻想は、ほどほどにしないといけないのだ。

 自分自身の未来の人生は、過去と現在の自分の上に築かれていくものなのである。


医療人類学―世界の健康問題を解き明かす

 先進国においては、もはや基本的医療が完全無欠であることは必要最低限の事実となっており、もはや高度先進医療レベルのものが「間違いなく、滞りなく」行なわれるかどうかが人々の満足感の指標になっています。
 ところが世界の他の国々では、脱水症を治療する一本の電解質輸液、一本の砂糖水、プリミティブな感染症を治療する抗生剤の有無が、未だに人々の生死を分けている社会があります。
 「情報の浸透」が行なわれ、私達は、世界を掌握しているという幻想に捉われています。しかし、私達のもとに伝わってくる情報というのは、多くの場合、水が高いところから低いところに流れるように、「恵まれた世界」の情報が中心です。
 つまりは私達は、世界で何が行なわれているかを、本当に知ろうとしているわけではなく「自分を羨ませてくれる情報」を求めているに過ぎません。
 かつての物理的な文化の伝播が、より豊かな世界からそうでない世界に向けて一方通行的に行なわれたものと同じことが、私達の手元の小さな世界(インターネット)で起こっていることを忘れてはいけないように思います。
 トランスカルチュアルというのは、これからの世界を理解するキーワードであると思いますが、それを私達は自分たちの都合の良いように曲解しているのかもしれません。


医療・合理性・経験―バイロン・グッドの医療人類学講義
 こちらも名著です。


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