やわらかな遺伝子

 「科学」という存在が、人間の知的好奇心を満たす存在であることは間違いがない。
「博物館」に行ったことがあることがある人ならお分かりであろうが、ああした場所は、子供だけでなく大人も楽しめるように出来ている。

 「恐竜が絶滅したのは何故か?」
 「人類は何故誕生したのか?」
 「私達の心はなぜこうなったのか?」
 普通の人であれば、このようなテーマを毎日考えているわけでは恐らくないだろうが、博物館に行ったときは、誰もが一時の科学のロマンに心を誘われる。


 本書、「やわらかな遺伝子」はいわば博物館のような本である。
 博物館といってもテーマは「人間の知能と行動と遺伝子」という専門領域に特化した博物館である。
 何故ある人は頭が良く、別の人はそうでないのか?
 何故ある人は成功する行動パターンを有しているのに、別の人はそうでないのか?
 何故ある人はほんの少しのストレッサーで心が痛めつけられてしまうのに、別の人はそうではないのか?

 今日の社会で、これらのことに「全く無関心」である人がいるとは思えない。
 こうした問いに関して、どこまでが遺伝子のしわざでどこからがそれ以外の問題なのか?というテーマを極めて平易に「陳列」したのが本書である。
 つまりは、人間の「知と行動」に関する夢いっぱいの博物館のような本なのである。
 
 ところがこの博物館の探検には、ひとつ注意点がある。
 陳列内容の「事実」を覚えて帰ることには、ある種の危険を伴うのだ。
 その危険とは「科学」と常に隣り合わせになっている単語、「誤解」である。
 

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 本書の一貫したテーマとして、
「遺伝子の存在は、ある疾患(性質、行動)との関連を必ずしも意味しない。単にそこに存在している(欠損している)だけで、無関係な遺伝子である場合もある」
「遺伝子の機能を考える上で“スイッチ”を入れる領域がいつ働くかは、また働かないのには幾段階もの複雑なステップを要する」
「ある疾患(性質、行動)に対する遺伝子の関与が発見されたからといってそれは必ずしも原因論の全てではない。別の遺伝子が関与しているかもしれないし、ウイルス感染や生育歴などの後天的な要因がトリガーになることもあり得る」
「一方、一見複雑な疾患(性質、行動)がただひとつの遺伝子のわずかな変異で引き起こされ、後天的な責任はなにもない場合がある
「遺伝子の変異というのは“いわゆる親から子への遺伝”以外に偶発的にも起こりえる。従って“遺伝子異常”イコール遺伝性疾患ではない場合もある」
ひとつの遺伝子は違う場所では違う仕事をしていることがあり、○○の遺伝子という言葉が意味を成さないことがある」

 つまりは「遺伝子と疾患(性質、行動)」には深い関係があるが、ある程度系統的な知識を身につけない限りは、それに関する「解釈」をすることは殆ど不可能であるということだ。
 もし本書を読んだ後で、そうした感慨を得たとしたら、それは恐らく著者にとっても読者にとっても成功である。

 そうした「一概に言えない」という事実こそが「遺伝子関連」のニュースを読み解くのに最も大切な「知識」であると思われるからだ。
 
 本書の著者であるマット・リドレーは、こうしたジャンルに関するこうした「理系的教養」を根気強く読者に伝えようと努力をしている。
 決して博覧会的な知識の披露で読者をあっと言わせようとしているわけではない。


 その反対に、本書を読んだ後に、読者が「○○の遺伝子は、△△である」などという事実の「うんちく」を語るようになってしまったとしたら、それは恐らく著者の意図するところではないと思う。


やわらかな遺伝子は下記のような「スタンダードな」または「ホットな」遺伝子と知能・行動に関する話題を取り上げています。
 
*類人猿の進化の過程で急激に変異を起こし、いわゆる「分子時計」として働くモーフィアス遺伝子について

*脳に高次の機能を持たせるスイッチを入れる遺伝子の話。人の第六染色体にあるCMAH遺伝子にはヒトにだけ見られる変異があり、そのためシアル酸のうちのひとつ(Gcタイプ)が、ヒトにおいては全身で発現されない。ちなみに、その他の哺乳類では「脳」のみでこの遺伝子のスイッチはオフになっており、その他の部位ではオンになっている。恐らく、哺乳類の脳はこのスイッチがオフになっていないと働かない。

*遺伝子の“スイッチ”を入れるプロモーターについての簡略な説明。何故同じ遺伝子を利用しているのに違う生体が生じるかはプロモーターの領域のわずかな変化に基づく。このスイッチの質的な違いにより、どのような順序でどのくらいの期間で遺伝子を機能させるかを決定する。例を挙げると、生物の頚椎と胸椎の数を決定するHox8遺伝子(Hox遺伝子群のひとつ)のプロモータ−領域の変異のわずかな差違で遺伝子が発現する「期間」が変化する。その期間の変化により、それにより生物の頚椎と胸椎の数に、種によるバリエーションが生じる。

*Hox遺伝子群は、胎児期のテストステロンの感作の量と併せて、ヒトの指の形成に関与している。これは「指の長さと性的魅力」という話題として、竹内久美子女史の著書を始めとする数多くのエッセイで取り上げられている

*脳細胞の細胞接着因子アノスミンおよびN−カドヘリンが脳のニューロン形成に重要な役割を果たす。カドヘリンの形成には、メッセンジャーRNAの段階で「選択的スプライシング」と言われる、同じ遺伝子を違うメカニズムで切り貼りする働きが行なわれる。それにより「同じ遺伝子」から異なるタンパク分子が作られることが分かった。(1977年にこれを発見したロバーツ&シャープはその後ノーベル賞を受賞している)

*第1染色体上のASPM遺伝子はニューロン形成の量を調節することにより、脳の機能の良し悪し決定する。この遺伝子のエクソンには特徴的な繰り返し配列があり、この繰り返し配列が多い生物ほど知能が高い(ヒト74個、マウス61個、ショウジョウバエ24個、線虫2個)など。

*第一染色体のCREB遺伝子が記憶のスイッチを入れる。

*鳥のヒナが最初に見た動くものを「親」と思うインプリンティングは、脳の左内側上位腹側線条体(IMHV)のGABA受容体のスイッチが生後約10時間だけオンになりその後オフになることにより起こる。

脳神経栄養因子(BDNF)の話。
BDNFは、「神経症性格」と「視力獲得の臨界期」の両者に関与する(ちなみにこの両者には因果関係はない。)

*BDNFを作る遺伝子は第11染色体上にあるがその192番目がGの人とAの人がいる。それによってその部分の指示によって合成されるタンパクがバリンかメチオニンかが決定される。一対の遺伝子のそれぞれの配列は異なることがあるため、.瓮船ニンーメチオニン型 ▲丱螢鵝璽瓮船ニン型バリンーバリン型の3タイプのBDNFを持つ人が存在するが、これは,らになるにつれより神経症傾向が強まる(つまりメチオニン−メチオニン型の人が最も楽天的、混合型は中間、バリン−バリン型の人は最も神経質)。

*BDNFは視覚獲得の臨界期(ある特定の機能を獲得するために限界となる時期)を操作するため、これを多く与えることで視覚獲得の可塑性の存在する期間を延長させようとしたところ、逆に視力獲得の臨界期は短縮してしまった。 過量の“物質”への感作は往々にしてこのような結果をもたらす。
 しかし一方で、もともとBDNFを余分にもつマウスでは暗闇で育てられても、臨界期を過ぎても視力を獲得することが出来る。
(注:ある一定の期間、臨界期を超えて遮蔽などで視力を遮断して育てると眼球から脳に至る視路のコネクションが形成されないので、その後正常な環境を得ても、生涯に渡って視力に問題を来たす)

*視覚獲得の臨界期に関する遺伝子GAD65と上記のBDNPジアゼパムという薬剤(通常は鎮静効果のある薬剤)の関係。
ジアゼパムはマウスにおいてBDNFと同様に視覚刺激の「刷り込み」を起こす作用があるが、臨界期を過ぎたマウスには薬物の効果がない。GAD65遺伝子を欠損させたマウス(ノックアウトマウス)は視覚刺激を認識できないが、このノックアウトマウスにジアゼパムを注射すると、成体になってからでもいつでも「視覚刺激による脳の可塑性」が維持できるという逆転の現象が起きる。

*Y染色体のSRY遺伝子の話

*「愛の遺伝子」の話。オキシトシン(分娩と乳汁分泌に関するホルモンとして普通は知られている)とそれに構造的に似通ったバゾプレッシン(普通は抗利尿ホルモンとして知られている)が哺乳類の「愛」の形成に深く関与しているという説がある。ある種のげっ歯類では、パートナー選択の好み「単婚(一夫一妻)と複婚(一夫多妻)」はオキシトシン受容体を支配する遺伝子のプロモーター領域の変異によって起こる。プロモータ−領域の塩基数の長さが長い種の方が単婚、つまり“誠実”になるのである。ヒトに関する同種の第3染色体受容体遺伝子のプロモーターの“長さ”にも個体差があるが、それがヒトのつがい行動にどのような影響を及ぼすかは、まだ不明である。

 *その他、双生児研究に関する基本的な「読み解き方」、および各種疾患と遺伝子の関係などを網羅的に解説していますが、誤解を生みやすい部分であるため、省略させていただきました。
 *本書は、巻末の文献リストが大変充実しています。

*この著書の最も素晴らしい点は、恐らく上記のような個々の知見について、「何が分かっていて何が分かっていないのか」ということを丁寧に説明している点であると思われます。
 


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