巨大企業は、ひとつの国家である。

 国家のように、所属する人民(社員)の人生を守り、反面、管理する。そこに所属しているものは、経済的な部分だけではなく、個人の健康(社内の健康管理システム)や居住地(転勤)といった私的なものまでを全て企業に委ね、それと引き換えに、人生を捧げる。

 主に巨大企業という「国家」に所属するのは、古代の軍事大国「スパルタ」のように、主に男性であった。
妻は、「国家」に所属する男性に帰属することにより、間接的にそこの一員となり、同様の保障を得る。
 企業という国家には、すなわち、ひとりの男性が雇用されていながら、「家族」という小さな集団が無数に所属している。

 その巨大企業が、まるでかつての恐竜のように絶滅する日が来るのだろうか?
 企業自体の経営の問題で、個々の企業が崩壊(つまりは倒産)するということであれば、過去の歴史において例挙にいとまがない。
 しかし、「理由なき理由」により、こうした組織のシステムの全てが内部からメルトダウンするというようなことが、今後あり得るのだろうか?
 つまりは、そうした巨大企業に所属することを誰もが望まないような社会がやってくるか否か、ということだ。

 少し言葉を変えれば、「個々の人間が、個人の価値観を重視するようになり、このようなシステムに所属することを望まなくなったという理由で起きる、こうした組織を中心とした社会のゆっくりとした落日が、いつの日か訪れるのだろうか?」という疑問である。

 そのような「兆候」が現代の社会には現れているのだろうか?
 勿論のこと、個人の潜在意識のレベルでは、「歯車的な人生」を嫌う心がどこかにあるかもしれない。しかし、実際の職業選択においては「巨大企業」の人気が衰える気配はない。むしろ高まる一方である。先行きの不透明感が、「寄らば大樹の陰」という気持ちを却って高めているかのようである。


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 過去においては「優秀な若者」というのは、制服のように「反体制」を身にまとっていたこともあった。だが、現代においては、年齢が下になるほど、「体制的な価値観」をうまく利用することにより、うまく「世渡り」をしようという思考が強くなっている。
 その象徴的な人物が、このブログの場をお借りしているH社長であろう。
 つまりは「恐竜」の世界の中での覇者の交代を皆が目指しているだけであり、恐竜から哺乳類へといった、ドラスティックな歴史的転換が起こっているわけではない。
 過去のやり方を踏襲し、過去の人がやったやり方でのし上がろうとしているわけだ。

 つまり「巨大企業」という形態への憧れは、一向にしぼむ気配はないのだ。
 こうした事実と、それぞれが「個別的な人生」を歩もうとする願望を抱いているという一見矛盾した現実を、これからの社会はどのように解決していくのであろうか?
 つまりは、企業というのは、こうした個人の意識の変化を組織の運営に組み込んでいきながら、内部の構造を変化させていきながら今後も存続していくのだろうか?という疑問である。

 このような疑問をいだく理由というのは、原則として、「誰もが所属することを望まない不快な社会」というのは、いつの日か崩壊するように出来ているからだ。
 これはシンプルであるが、歴史的にみて明らかな事実である。

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 まず第一のキーワードは女性である。
 過去20年間、女性は男性を介して間接的に「組織」に属するのではなく、自分が直接的にそこに所属する人生を選び取ろうとした。
 そのような人生を望む女性の存在というのは、過去の企業にはそれこそ「想定外」であり、異物である彼女たちを排除しようとする有形無形の仕組みの苦しさを過去の世代の女性は受けてきた。
 この物事に対し、「男性はもっと大変だ」という反論が見られる。
その意見を理解しないでもないが、「男性は大変であるが、女性達も苦しんだ」というのは事実を述べているということに着目していただきたい。
 
 この「女性の社会参画」によって生じた異文化交流は、スパルタ国家的社会であった企業文化においては、ある種の価値観の変革を迫られる、「組織の危機」として捉えられてきた側面がある。
 それを危惧する人々の「意向」から振り落とされないようにするため、過去の女性達は、自らに「男性兵士」に模した人生を課すことで、問題を切り抜けようとしてきた。

 ところが、あっさりとその「危機」は、回避されてしまうかもしれないのだ。

 現在では再び、女性達は過去のやり方で「間接的に」社会に帰属する道を模索し始めているようにも見える。
 こうしたある意味「先端の」ムーブメントは、むしろ優秀で目先が利く女子学生を中心に起こっている。
 「賢い生き方の再認」が起こっているようにも見えるのである。
 つまりは、賢いというのは、ある意味「生きかた自体が賢い」のだ。
 企業という組織自体が、数々の苦しみを受けて「彼女達」を受け入れるシステムを築き上げてきた矢先の、思わぬ揺り戻しである。

 これは恐らく「個別的な人生」を求めた過去の世代が、余程の能力のある人を除いて、「不透明で不安な人生」を歩んでいることも理由のひとつに挙げられるであろう。
 それからもうひとつ、「当たり前の人生」こそが「狭き門」になっていることが挙げられるだろう。

 つまりは、こうした普遍的な人生のある種の難しさに、現代の学生は気付き始めているのかもしれない。
 嫌な言葉だが、「勝ち組は誰か」ということに目覚めたのだろう。
 この結果、「若さ」という「功利的」な物事から最もかけ離れた年代の世代が、そうした物事に走っているという結果に陥っているのだ。

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 聖書に出てくる「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。(マタイによる福音書七章13節)」という言葉は、困難な道に耐えて利他的な行動をとりなさいという意味であろう。
 しかし、現代社会において「狭き門」とは自らの安住の地を求めるために先を争って入る「お得な道」という意味に捉えられている。

 恐らくその理由は、「個人的な生活」という美名のもとに、あまりにも「広い門」のみを求めた過去の世代の反動がやってきたのであろう。
 しかし、「狭い門」が「理想」という言葉を意味した、更に過去の世代の人々の意識は、私達には「ミーム(文化や伝統を伝える意識が世代を超えて遺伝子のように伝わるという造語)」としては伝わってはいないように見える。

 こうした中で、巨大企業は、個人のライフスタイルの変化といった要望を取り入れながら、崩壊を避け、未来への軟着陸先を模索しているように見える。
もっとうがった言い方をすれば、それぞれの個人自体が、何よりも大切な「ライフスタイル」のためには、より大きな組織への帰属を求めるのが正解であると、再び考え出しているようにも見える。

 つまりは、「恐竜の落日」は今の所は、まだやって来ないようにも思えるのである。
 かつて地球上に隕石が落下したり氷河期が訪れるようたことに類する「変動」が、私達の経済社会に訪れない限りは、この時代は続く見込みなのではないかとさえ思えてくるのである。

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 ただひとつの過去との違いは、「企業」が以前と違って、
「丸抱えする」社員をセレクトし、不要な人を容赦なく振り落とそうとしていることかもしれない。
 つまりは「組織」と「体制」は揺るがず、変化しているのは個人の立場であるということになる。
 個人のレベルで考えると、「以前は当たり前」の人生が、今後は文字通り「選ばれた人(エリート)」の人生として羨望の時代になる日が来るかもしれないということだ。

 恐らく、現代の問題点としては、そうした組織から振り落とされてしまう人の人生をいかにするか?という議論に焦点が移ってきている。
 つまりは、以前のように選択的に「自由な」人生を歩んでいるわけではなく、強制的に組織から弾き飛ばされてしまう人の人生をどうするのか?という問題である。
 人々は、「自分が企業を選ぶ」のではなく「企業も自分を選ぶ」ということに、今更ながら気付き始めている。
 それによる閉塞感がいまだかつてないほど高まっているということが言えるのかもしれない。

 こうしたことから全く無関係な「突き抜けた」人生を送れる、特殊な才能に恵まれた人も無論大勢いる。
 そうした人は、過去の時代にも、こうした問題からは無縁であり続けた。
 華やかなマスコミの寵児になるのは、恐らくそうした「特別な人」である。
 誰もが特別な人になれるのか?
 その問いに答えるのはとても難しい。



希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
 
 
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