大人になってから、全く新しいジャンルの知識を身につけるために大切なことは何だろうか?
 世の中のあまたの天才・秀才を差し置いて、私ごときが偉そうに何かの「勉強法」を語る資格はないような気が明らかにするが、我慢してお付き合いいただきたいと思う。

 実のところは、何かを学ぶときの極意は、「最初の開始点のレベルをどこまで引き下げれば理解出来るか」を見極めることである。
 自分がどこまで分かっていて、どこからは分かっていないかを見極めるのが大切だということだ。
 つまりは、現状把握である。

 あくまでこれは最初のスタートラインを見極める、という意味であり、「最終到達目標のレベルを下げよ」と言いたいわけではない
 最終到達目標がどのように高かろうと、始めのスタート地点は身の丈にあったものでなくてはいけないという意味だ。

 当然、もしその分野に対する知識が「ゼロ」であれば、最初の一歩から始める。
「学問を構成するパーツ」つまり知識の断片や「用語の意味」を理解するだけではいけない。その学問全体を通して通用する「きまり」、即ちロジックの基本を理解することも同時進行させなければいけない。

 例え自分が何歳であろうが、他の分野ではプロフェッショナルやエキスパートであろうが、博士号をもっていようが、その分野に関して初学であれば、何かを身につけるための初歩の初歩から始めなければいけないのだ。

 何かを始める時には、算数を初めて学ぶ子供であれば、数の数え方を、ある語学を初めて学ぶのであればそれを著すための「文字」を学ぶことと同じレベルから始めるわけである。
 
 もっとうがった言い方をすれば、算数であれば「数学的概念」を語学であれば「文法」を体系的に理解しつつ、これらを活用する練習を組み合わせながら同時進行的に行なっていくわけだ。
 つまりは「用語」を覚えることは、「概念」「論理」と同時進行的に行なわれて初めて意味を成すわけである。

 「そんなのは当たり前でしょ」と誰もが思う真実であるが、この前提が崩れていると、どのような勉強も、決して身に付くことはない。

 大人になって始めた勉強が身に付かない大きな理由としては、多くの人が「記憶力の減退」などを挙げることが多い。   
 ところが、実のところはそのようなことは大した問題ではなく、このシンプルな大原則が崩れがちであるという、テクニカルな部分が大であったりもするのだ。


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 ある程度の年齢の人であれば、例えその分野の初学者であっても、他のジャンルでは高度な知識を身につけていたりするものだ。
 そのため、何か新しいことを学ぶ時に、その「自分の中のレベルの高い部分」に合わせて学習を始めてしまうわけだ。
 最悪な場合は、基本的なロジック抜きで「高度な専門用語の断片」を身につけることに終始してしまったりするわけである。

 つまりは「大人としてのプライド」が学習の妨げになってしまうのだ。
 その「プライド」は周囲への見栄に起因することもあるが、単純に自分への現状認識の甘さである場合もあり得る。

 あるジャンルで「論理的思考」が本当に身についていると、他のジャンルでもそれを発揮しやすいということは、確かにあるだろう。
 だからといって、いきなり「難しい論理の習得」を開始点を定めて良いわけでは決してない。
 逆に、もし全く新しい分野を学んだときに「闇雲に手探りで」知識の断片を仕入れたり「高度な論理」から習得しようとするようなやり方をするということは、それまで取り組んでいたジャンルに関しても、単に「経験則的に」断片的な知識が身についているだけで、本当には理解していなかった可能性すらあるのである。

 勿論のこと、「大人の学習法」としては、自分が良く知っている分野とうまく関連付けながら裾野を増やしていくというのは正解である。しかし、 しかし、それは つまりは「自分が知っていること」をベースにして、回路を増やしていく行為であり、「自分のレベルを知る」という議論と矛盾しない。

 大人になると、実のところ「自分がゼロの状態である、もしくは低レベルな状態である」ことを認めるのが困難になる。
 「このような簡単なことは分かりきっている」と初学者向けの内容を馬鹿にし、「もっともらしい本」を沢山買い込んでしまったり、インターネットで専門用語をキーワードにして、沢山情報を仕入れてしまったりしがちである。
 ところが、それは「ざるに水をためようとする行為」に他ならないから、どのように頑張っても目的の内容が身に付く日は永遠に来ない。

 大人になってプライドを捨てるということの難しさは、言葉でいうほど簡単ではないが、所詮、「人はそんなに自分のことを見ていない」のである。
 格好をつけない者が、勝者になるということは往々にして真実であることは間違いがない。


 
さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 

 この本は「知識がゼロ」の状態の人が読むための会計学の本である。
 本書は、「利益をあげる」とは結局どういうことなのか?という根本概念を、「知識の断片」を省くことによりより明快にするために著されている。

 私は、この本を買ったくらいであるから、勿論のこと会計学の知識は「ゼロ」に等しい。
 
 私と「会計」のお付き合いは、学生時代にクラブの会計係を仰せつかったことと、個人的な簡単な家計簿(というか出納記録)をつけるくらいのレベルである。
 
 本書の著者の姿勢で「素晴らしいな」と思ったこととして、
殆ど一切の専門用語を省略している」ことにある。
 本書の著者は、公認会計士、つまり会計のプロである。
 そうした立場の人が本を書くにあたって、「専門用語を省く」ことがいかに大変であるかは想像に難くない。
 
 それが困難である理由はふたつある。
 
 ひとつは、専門家にとっては専門用語(つまりその業界の論理)を用いてモノを語る方が手っ取り早くて簡単であるということが挙げられる。
 専門用語というのは、基本的にはそれに通じている人達の会話の疎通性を高める「共通語」である。他のジャンルの人には「ちんぷんかんぷん」かもしれないが、専門家にとってはこの上なく便利な「隠語」であるのだ。それを捨て去ることは、本当に面倒な行為であるのだ。

 次に、物事を簡略化するためには、「自分を専門家らしく見せたい」というプライドを捨てなければいけないという「自己との戦いの部分」があるということが挙げられる。
 簡単に言ってしまうと、「小難しい専門用語を適当に貼り合わせたほうが、自分を賢そうに見せることが出来る」ということだ。
 この誘惑と戦うのは中々困難だろう。

 これには受け手側の問題もある。
 自分が「全く良く分かっていない分野の本」を購入したり、その分野の人から話を聞こうと思った時、そうした専門用語が散りばめられていると安心してしまうという心理が人にはあるのだ。
 人間は「相手に価値がありそう」と判断するときに、そうした表面的なことに捉われやすい性質があるのは間違いがない。
 つまり人間は「権威付け」に弱いということだ。
 それにより、「良く分からないことを書いてある本」「良く分からない話をする人」というのが、「いかにも専門家らしい」「権威者」として信頼を得てしまうわけである。

 本書の著者は、そうした「誘惑」をきっぱり捨て去り、
 「キャッシュフロー」ということを、表題に挙げている「さおだけ屋は何故、めったにさおだけが売れなくても潰れないか」などの、ごく身近な話題を例に挙げて、「素人」に解説する「決意」をしているところが潔い。
 そういう意味では、「どっちつかずの半専門書」とは一線を画した、「初学者向けの導入編」に特化した目的のはっきりした本であるといえる。

 蛇足であるが、本書に挙げられている、在庫管理における「カンバン方式」つまり、「必要な製品を必要な量だけ必要な時につくる仕組み」はまさしくDNAがRNAを介してタンパクを合成する生体の仕組みと同じであるという感想を抱いた。
「会計学」も「自然の摂理」も「無理のない仕組み」というのは、全く同じ仕組みなのかもしれない。
 つまりは、究極の合理性である。


人間は、子供のままの好奇心を一生保てる生き物であることを忘れてはいけないと思います。この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


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