ニューイングランドへ、ようこそ―新・森の生活

この物思いに耽りながらのぶらぶら歩きが、何かの役に立っているとすれば、この土地と私の関係の一種の内的確認作業のようなものだろう。(ニューイングランドへようこそ“「境界巡視体験記」より引用)

    他人の人生と自分の人生の区別をつけるということ


 現代社会の特徴のひとつに、他人と自分の人生の境界線がつきにくくなっているということがあるだろう。
 あらゆる情報が、私達の個人的領域に侵入し、他人の価値観と自分の価値観を隔てられなくなっているのだ。

 本書の著者は、ミシガン州で暮らした少年時代、兄と一緒に父の所有する80エイカー(約32万平方メートル)の農場をくまなく歩き回ることをしていたという。
 この時の彼は、単に農場内をぶらぶら歩いていたというわけではなかった。
自分たちの土地と他人の土地の境界」を意識しながら、その確認作業のための散策をしていたというのだ。


 彼らにとっては、近隣の農場の住人は皆、友人であった。
 従って、子供たちは、「どこまでが誰の土地」かを特別に意識せず、どこの土地もまるで自分の庭のようにして歩き回る日々を送っていたという。
 つまり著者にとっては、ごく幼いところは、隣人の土地も自分たちの土地と同様の存在であったわけだ。

 ところがある日突然、彼ら兄弟は、「どこまでの土地が自らの家族の領域であるか」を確認したいという気持ちに捉われるようになる。
 彼らにとって「馴染み深い」よその農場は、あくまでもよその農場であり、自分たち家族の農場とは別の領域であることに突然気付いたわけである。

 その日から、彼らはひたすら、自分たちの農場の境界線に沿って歩くという「冒険」を始める。
 しかし、著者の言葉を借りるとこの冒険は、「新しい物の発見」のためのものではなく、「古い物の確認」であったという。
 それはそうである。
 この旅は、どこか別の場所に出かけるものではなく、自らに生まれながらに内在している世界をあらためて顕在化する作業であるからだ。

 

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 それは恐らく、自らと他者を隔てる「境界」の確認により自らを知るという、思春期特有の行動の象徴であったのであろう。
 自らと他者との境界は、多かれ少なかれ、どのような「オープンマインド」な人にも存在する。
 それこそが、社会と個の関係が例えどのようなものであろうと究極的に存在する、人間としての「個」を確立する部分であるのだ。

 彼ら兄弟は、農場の周辺をくまなく廻る中で、ある発見をする。
 それは、農場の境界には、さまざまな形態があるということだ。つまりは、はっきりとした石垣が築かれている部分もあれば、隣地との境を隔てる森の中に点在する点在する石として存在する場合もある。
 つまりは、はっきりとした境界と、あいまいな境界の関係だ。
 
 私達は、ある人々との間には高い心の垣根を築き、別の人との間には曖昧で緩やかな垣根を築いている
 普通の感覚をもっている人であれば、自分の、もしくは相手の築いている「心の垣根」を無意識のうちに理解している。
 そして相手との距離感により、そのパーソナルスペースを侵さないような行動が自然に身についているわけである。
 つまりはあらゆる意味で、「私」は誰で「他人」は誰であるかを本質的に理解しているのが人間というものなのである。
  
 恐らく、自らを知るということは、人生を理解するために誰もが踏み出す第一歩であり、かつ、生涯を通じて永遠に続く道程の中で追求しつづけるべきものでもあるのだろう。

 本書には、このことを端的に現すロバート・フロストの以下の言葉を引用している。
石垣を築く前に、私は知っていなければならない。自分が内側に何を囲い、外側に何を隔てようとしているのかを知らなければならない。

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 現代社会では、この「個」の存在がゆらいでいる。
 「共同体社会」であるわが国には存在しないといわれていた「個」である。しかし、過去の時代にも、西洋的な「個」とは異なるかもしれないが、確かに「個」存在した。
 つまりはわが国においては、他者と自己を隔てる境界が、森に点在する石のような存在であることが多かったというだけなのである。つまりは「石垣」がないからといって境界がないというわけではなかったのだ。

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 近年わが国では、自らを良く知る術を知らないままに、他人との間に高い石垣を囲い自らの世界に引きこもる人々の存在が社会問題化している。
 この場合、籠もってしまった人の「世界の狭さ」と「石垣の高さ」ばかりが問題になるが、実のところは最も問題なのは、自らがあやふやなままに境界を築こうとするその姿勢自体なのだ。

 こうした問題を「ニート」などという単語で括ってしまうことを私は好まない。
 何故なら、誰もが、多かれ少なかれ自らを知る手段を失ってしまっているのがこの社会であるからである。
 そうした中で、誰もが多かれ少なかれ、人生の空虚さと戦っている。
 成功者の人生は抜け殻のようであり、脱落したものの人生は経済的な不安に満ちたものになっている。
 つまりは、これらは表裏一体の問題なのだ。

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 「自らを知ることなく終わる人生」の別の側面での問題は、自己イメージと他者のイメージの混同であろう。
 私達の多くはトップモデルでも女優でもないし、破格の成功を収めた起業家でもない。
 こうした夢をもつこと自体は悪くない。
 しかし、「自分の土地とその境界」への旅を終える年代になっても、「他人の土地と自らの土地の区別がついていない」ということになるとそれは問題である。

 このことは、若年女性の健康を害する無理な「ダイエット」から、果てしない夢を求めて実人生への旅に踏み出せない人々まで、個人の精神世界を飛び越えて、社会の問題へと発展しつつあるわけだ。

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 子供たちは皆、そして子供のような大人である私達全てが、自分を愛すること、そして自分をリスペクトすること、そして自分を自分たらしめているものを知らなくてはならない
 境界をどのような形で築くのかを考えるのは、その後で良い。
 高いものでも低いものでも、石垣を築くのは、ある程度、自己と他者の境界を歩く旅を終えてからで構わないのだ。

 そして最終的には、誰かを愛するということは、この「自己と他者の境界の確認作業」である。
 何かを受け入れるのが愛だとすれば、その前提として自らの魂が何を受け入れることが出来るのかを知らなくてはいけないのだ。
 そうでないと、誰かを愛しているつもりなのに、単に自分を愛することを繰り返すに過ぎない人生を送ってしまいかねないのだ。 

 このことを、言い換えると、自分には誰が愛せて誰が愛せないかを知るということだ。
 そして更には、社会で関わりあう「とても自分には愛せない人達」の中に愛せる部分を模索する術を知るということである。
 深い愛を極め、浅い愛を大切にする人生だ。
 つまりは愛という存在の重さと軽さ、自己と他者という存在の重さと軽さを知り、どれに対してもそれなりの「落とし前」をつける術を身につけるということなのかもしれない。

 

ニューイングランドへ、ようこそ―新・森の生活

 「ニューイングランドへ、ようこそ」は最も古いアメリカ(といってもたかだか200年ちょっと前であるが)であるアメリカ北東部のNYCとボストンを北上しカナダに至るエリア(コネチカット、ロードアイランド、マサチューセッツ、バーモント、ニューハンプシャー、メインなどの諸州)の生活を描いたエッセイ集である。
 これらの地域を訪れたことのある方ならご存知であろうが、このエリアの町並みには、まるでユニバーサルスタジオの「昔のアメリカの町」そのままの風景が今も残っている。
 もっとも、これらの町に住む人々も、町はずれにある巨大ショッピングモールで買い物を行い、伝統的な生活を送っているわけでは決してない。
  本書の著者は、ニューハンプシャー州の200年前のオールドハウスを購入して「スローライフ」を体現することにした。
 その経験を通じて、ピューリタン的伝統が根付く「過去のアメリカ」の精神世界を紐解くエッセイを綴るわけである。
 「スローライフ」が、ある意味経済的な自由を得た人のための「最高の贅沢」となったのが現代である。
 その現代社会の象徴のようなアメリカ社会の「スローライフ」は、ある意味では、まるで世界の他の地域から「鉄条網」で囲うことによりつくりあげた理想郷である。
 そんなことを考えるうち、夢のような美しさでさえ、ふと、何故か硬質のプラスチックのような人工的な世界に思えてくることがある。
 しかし、そんなことを抜きにしても私は、ニューイングランドが好きだ。
 目に入るものの全てが美しい世界に住むとき、人の心は平和になるのだ。視覚の美は、間違いなく心に影響するのだ。
 「街の美しさ」を重要視しなかった私達の国の都会は、まるで散らかった部屋のように心にストレスを与えるのは間違いがない。
 「憧れをかきたてる国」が世界の覇者になり続けてきたというのは、ある意味歴史の真実であろう。
 私達の国には、他の国から「憧れられる要素」は、"富"以外の文化レベルの次元で何か存在するのか?
 もう一度考えてみたい問題である


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