夏服を着た女たち
 僕はこの街でピクニックでもしているような気分なんだ
(アーウィン・ショー 夏服を着た女たち より引用)


 「夏服を着た女たち」はアーウィン・ショーが25歳の時に執筆した、ニューヨークに住む若い夫妻の日常を切り取った小説である。
 アーウィン・ショーの不在中にこの小説の原稿を読んだ彼の妻が、腹を立てて滞在していたホテルの窓からこの小説を投げ捨てようとしたという、いわく付きのエピソードがある作品だ。
 
 小説のような存在をテーマ化するのはあまり気が進まないが、あえてそれをさせていただくと、
「完璧な日常の中に潜む不安」
といったものがこの小説の根底に流れる主題であろうか。

 タイトルは「夏服を着た女たち」であるが、時は11月のある暖かな日曜日。
 美しい陽だまりのニューヨークの街を美しい若い夫妻が、「今日ははフットボールの試合を観てステーキを食べるか、それとも友人夫妻と田舎へ出かけるか」などという他愛もない話をしながら歩いている。

 彼らのある日曜日は、一見、完全無欠であるようにも見える。
ところが、完全に幸福になるはずの二人に、「何か別の気分」が侵入し始める。
 それはいわば、自分達の愛が永遠のものではないという疑いだ。

 その疑いを生じさせているのは、いってみれば「未来への可能性」だ。
 素晴らしい人々が世界中から集るニューヨークの街。
 通りを歩けば、傍らにいる自らのパートナーより「素晴らしいかもしれない」可能性を秘めた人々が街を行きかっている。
 そうした街では、自らの人生を「選び取ってしまう」ということは、あたかも自らの未来を閉ざす行為のようでもあるのだ。


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 ただひたすら街を歩くだけで、より良い情報が個人の生活に侵入してしまうのが「大都会」の生活である。

 そうした街を散策するうちに、妻は、冬であるのに「夏服」を着た美しい女性が通るたびに、自分の夫が彼女たちを見つめているのではないかという不安に捉われはじめる。
 自らも完璧なまでに美しい妻は、夫にとって結局自分は「街を歩く美しい女性」のひとりに過ぎないのではないかという不安に捉われはじめてしまったわけだ。


 最初は妻のその疑いを否定している若い夫であるが、二人で昼下がりのカフェでお酒を飲んでいるうちに、知らず知らずのうちに
「自分が他の女性を眺めている理由」
を妻に語り始める。
 −僕は、ニューヨークを彩る美しい女性が好きだ。
 しかし、とりわけ君が一番美しい−
 というのが彼の言い分である。

 それを聞いた妻は、「自分が取り替え可能な存在」である可能性を感じ悲しむが、夫はその理由が分からない…。

 人は誰かの「魅力」を愛する。
 しかし、普通、愛された方は「魅力」ではなく、より個別的な魂を愛されることを望む。
 それは「魅力」、特に外見的な魅力を含めた、いわゆる雑誌のアンケートなどで「好みの異性」の条件として明文化されているような事項は、結局は誰かが誰かを選び取る理由としては、最終的には大した意味を成さない。
 結局は、それらは場合によっていは、他者の「魅力」と交換可能な部分であるからである。

 愛というのは、ある時期を過ぎると普遍的な魅力を突き抜けた個別的な存在になる。
 つまりはありきたりな条件を超えた個別的な存在になった時にこそ、愛が育ちつつあるといえるわけだ。

 結局この小説の妻の不安は、「自分が夫にとっていまだに個別的な存在に至っていない存在」「多くの選択肢のひとつ」であるということに起因するのだろう。

 ところで、私は学生時代にこの小説を始めて読んだ。
 その時は、このストーリーを「大人の愛」の物語として捉えた。
 何故なら、「真っ直ぐな愛が子供の愛で、矛盾を含んだ愛が大人の愛」であると思っていたからである。
 ところが今では、このストーリーが、微笑ましい子供の愛の物語にも思えてきた。
 実のところは、愛の真実は(恋愛に限らず)「直球勝負」なところにあるような気がしてきたせいであろう。
 
 
 明快で、シンプルな駆け引きのない愛は、実のところは最高の贅沢である。
 物質的なシンプル・ライフが存在しない都会という場所では、精神的な意味でもシンプル・ライフを獲得することは大変なことだ。
 その理由は、「はてしない可能性」を自らの人生から排除することが困難であるからだ。

 自らの人生を選び取ることが困難な時代に、私達は何をどのように選び取っていったら良いのであろうか?

 狭い可能性の中で生きることは不幸であるが、ありあまる可能性も同じくらい人間を不幸にすることが、もしかしたらあり得るのかもしれないのだ。
 



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