誰かの心の垣根を飛び越えなくてはならない時にどう振舞うか?

 基本的には個人主義者の私である。
 個人主義者といっても、他人との関わりを拒否しているとか、他人のことなどどうでも良いという考えをもっているわけではない。
 どのような人でも、最終的には「ここだけは踏み込んで欲しくない」という部分があることを理解し尊重したいと思っているだけだ。

 幼い頃、祖父の家と隣地の敷地の境界には塀がなく、ゆるい間隔で植えられている植栽がその代わりをしていた。
 今では信じられないが、東京23区内でも、その位ゆったりしているエリアもまだ存在しえる時代だったのだ。
 しかしまもなく、私が少し大きくなった頃、お隣が代替わりして家を建て替えたときに、隣地との間には高い塀が築かれた。

 私の住む家と隣家の間には塀があったが、何と、その間に通行可能な木戸が設けられていた。実際にその木戸を通って頻繁に隣家を訪れていたのは、子供である私だけであった。
 私が少し成長し、我が家も隣家も改修工事を行なう時に新たに築かれた塀には、木戸はなかった。
 何故、親戚でもない隣家との間に木戸があったのか今では謎であるが、要するに、「そういう時代であった」ということなのだろう。

 
 現代の都市において、「自分の土地」と「隣人の土地」ははっきりと隔てられている。
 隣地との敷地に関して、境界が曖昧であるなどということはない。
 自分と他人の土地をしっかり隔て、きっちり守るのが、現代のこの都市の手法である。 それは価格が下落したとはいえ、土地が「高価」であるということや、「他人」の侵入というのが、即、犯罪に結びつくことなどの、複数の理由があるだろう。

 現在、都内の住宅街では、「○コム」などの民間警備会社と契約している家も多い。
 もし都市部で犯罪に巻き込まれたら、恐らくどこかに「自己責任」という薄ら寒い言葉が紛れ込んできそうでもある。
 人々は、見知らぬ人の間に分厚い防護壁を築き、何かあった時に、せめてそれが「自己責任」ではないようにと祈りながら、個人的な生活のなかに引きこもろうとしている。

 このような社会の中で、問題となってくるのは、誰かが心の危機に陥っている時に、どうやって強引にでも相手に関わっていくのかという問題である。
 もはやこの時代においては、「隣人の土地」に踏み込んでいくことは、「礼儀知らず」な行為である。


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 相手が、何かの危機に陥っているのが分かっている。
 それを何とかしなくてはならないと思う。

 しかし、そんな時にそうした行動をすることが出来る人の範囲は、
家族、恋人、親友…そうした「余程親しい人」もしくは教師やカウンセラーなどの「職業的にその権限をもつ人」のみに許された「権利」になっている。
 下手をすると、そうした極めて身近な人や、職業的に関わるべき人でさえ、 自分以外の誰かの心の領域に入り込んでいくことがためらわれてしまうのが現代の特徴であろう。

 そうした中で、私達は、もはや偶然に関わった人の人生に踏み込んでいったり、必要な愛を示したりする「権利」をもたないのだろうか?
 人生の中で自分と何らかの形で接点をもった人を幸福にするのは、「義務」であると教えられてきた。
 しかし、もはやそうした利他行動は「権利」であるようにも思われてならない。何故なら、単純にいって、誰かのために何かをすることは、相手を幸福にするだけではなく確実に自分をも幸福にする行為であるからだ。

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 ところが、現代社会においては、双方向的にその「幸福」を味わう権利を失っている。
 さりげない愛や親切が、ここまで「不自然」に捉えられかねない時代はないだろう。
 そうした中で、人々は、自分の「善」なる部分をひっそりとしまい込み、自分の殻に閉じこもることを余儀なくされる。
 新たなストレスの発生である。

 自分と自分に属するわずかな人々を中心とする安全な「シェルター」に引きこもらない限り、最低限の身体的・精神的平和を守ることが出来ない社会においては、誰もが多かれ少なかれ、自分の世界の中に引きこもっている。
 その引きこもりの部分は、最小から最大まで、なだらかなグラデーションを示しているが、恐らく誰の心の中にも存在する。

 そして、その「孤独」さの種類は、かつての時代に「揺るぎない自己」としとされていた精神的な核となる部分とは、全く違った種類のものなのだ。
 つまりは、揺るぎない自己は安定しており、孤独な自己は不安定である。

 揺るぎない自己は、誰かに踏み込まれてもそれを受け入れる力があるが、孤独な自己は、そこに踏み込んでしまう人によって容易に打ち砕かれてしまうのだ。
 私達が、他人の心に踏み込んでいけない大きな理由は、潜在意識のもとで、この事実を理解しているからに他ならないのだろう。

 他人の領域に入り込めないその理由が、「誰にも侵しがたい確かな自己を尊重する」ということであれば良い。
 ところが、実際のところは、単に、「相手の脆さに怖気づいてしまう」というのが本当の理由であったりするわけである。
 「確かな自己」と呼べるものが、ほとんど存在しない人の内面に、強力に干渉することはできないのだ。

 この「核」を失った新種の正体不明の孤独を感じながら、社会に参加せずに時を過ごす人々の存在が「ニート」「引きこもり」などという名称で問題化して久しい。
 それこそが、私達の精神のデフォルメされた形なのかもしれない。
 別の言い方をすれば、私達の精神の「負の部分の総和」が彼らなのである。

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 今日、私は、信じられないような晴天の中、久しぶりに昼間の街を一人で歩いた。
 一人で本を買い、一人でカフェに入り、一人で本を読む。
 しばらくぶりの経験であった。
 喧騒も雑踏も、一人でいることも、私にとっては「新鮮」な体験に思えた。孤独は<幸いにして>、物理的な意味でも抽象的な意味でも、私にとってある種の贅沢である。

 その理由は、恐らく、幸いにして私がいつも多くの人に囲まれているからであろう。
 例え私の表層的な意識が、「わずらわしい日常にうんざりしている」と思い込んでいたとしても、結局は、そうした日々は私にとっては幸福であることは間違いのない事実なのだ。

 「私」が一人でいても孤独を感じないのは、私が強いためでも人間が出来ているためでもない。
 「私」の周りの多くの人々が日常のレベルで愛を与えてくれているためであるからに過ぎないのである。
 しかし、もし、本当の孤独な中に私が日々を送っているのだとしたら、きっとこうは思わないであろう。

 そうした確かなものに支えられていない孤独は、本当に「単なる孤独」であるのだ。

 
 何かの拍子に、「孤独」「引きこもり」という人生のエアポケットに陥ってしまった人の心の領域に、私達はどのように踏み込んでいったら良いのだろうか?
 つまりは「壊れやすい孤独」の取り扱い方である。
  軟着陸的に少しづつ?それとも強引に?
 それとも、あくまでも「隣人の土地」を侵食しないことを選ぶのが正解なのであろうか。

 高い垣根の奥に、「揺るぎない自己」の代わりに、限りない迷いと空洞が存在している種類の孤独に、誰もが陥る可能性がある。
 それは、今日は彼(女)の問題であるが、明日には「私」の問題であるかもしれないのだ。
 そして、現代社会には、そうした果てしない孤独や喪失感を救うシステムというのは、実のところ存在していないのだ。


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 過去には、ほとんど何の関係性もない人の人生を、誰もが救おうとしていた時代があった。
 今、深い関わりをもつべき人の人生ですら、救うことが出来ない時代がやってきている。
 それは、いうならば、救おうとして飛び込んだとたんに、相手の不安定な自己を破壊し尽くしてしまう危険をおびていることが最大の原因であるのかもしれない。

 広い意味でも、浅い意味でも
「誰かが誰かを愛する」
ことにはあまり理由はいらない。
 ところが、現代では、そのようなことにも「理由」「意義」「目的」を見出さなくてはならなくなっている。

 隣人が高い塀の向こうにいる時代に、私達に出来ることは一体何であろうか?
 誰かのために、喜びを与えたい欲求は誰にでもある。
 その気持ちを開放するためには、まず何を築かなくてはいけないのか、それを考える時が来たように思う。

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 私自身、特別なパワーを帯びた人間ではないし、自らが誰かの救いになるなどと自惚れているわけでは決してない。 
 むしろ、害をなすのではないかと恐れることすらある。
 しかし「何が出来るのか」などと自問自答しているうちに、チャンスが失われてしまうこともある。

 高い壁や塀の向こうの「他人の場所」に踏み込むのは、本当に勇気がいる。
 しかし、どうしてもそうしなければならないことは、多分、確かにあるのであろう。

 恐らく、「私」に出来る最初の一歩は、相手の心にずかずかと踏み込む前に、私自身が垣根を低くし、
 「こちらに踏み込んできてもいいのですよ」「待っていますよ」という姿勢を示し続けるなのだろう。
 そして、恐らく次のステップは、踏み込んでいくことで、相手に嫌われることを恐れないということだ。つまりは悪者になる「覚悟」である。
 そのような繊細かつ大胆な行動を適正に行ないえる人間だという自信は正直全くないが、「自信のある人」など恐らく存在しないのだろうと思って行動する以外、恐らく方法はないのであろう。
 
 
過去記事:境界巡視体験記〜ニューイングランドへようこそ〜でも、「自己と他者の境界」のことを語っています。


”バブル”がもたらした物質至上主義の後遺症は、恐らく、それを知る人にも、知らない人の人生にも、いまだに影を落としているのかもしれません。つまりは、「自分の住む土地」の価値が高まったことが、このように心の敷居を高くして自分を守らないといけない都市へと、この街を変えてしまいまったのでしょう。
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