アンペイド・ワークとは何か
母が尊敬を失った時代に女性達はいかに生きるべきか?

 「お母さん」という言葉から、自らの母を思い浮かべるとき、そこに「負」のイメージを持つ人は、例外的なケースを除いては少ない。
 恐らく、母という単語が自分自身の母に限定されている限りでは、懐かしさや暖かさ、といったポジティブなイメージがあるのが多くの人の心情であろう。

 ところが、現代においては、社会の総体としての「母」のイメージと地位は低下する一方である。
 母は、子育ての失敗やゆがんだ教育の元凶とみなされさえしている。
 子供を愛すればそれが「過剰すぎる」、足りなければ「母性の不足」と揶揄されるというわけだ。

 個人的な意味での「母」と社会的な意味での「母」の価値は解離する一方なのである。
 一方、「母」となる年齢の女性の社会の評価は「オバサン」という怪物的な名称のもとにひとくくりにされてしまいがちである。
 制度として、女性をモノとして売り買いする時代は終焉したが、その反動として、全ての女性が商品となってしまったかのようである。

 こうしたことに対抗するため、女性達が自らの価値を、経済活動へ参加しているということを証明することで社会に認めさせようとすることが、「アンペイド・ワーク」という概念なのであろう。
 社会の福祉や次世代の育成が、「無償の行為」として女性達の手によって担われていることは確かである。
 そこに経済的な評価を加えなければ、誰もが意義を認められないということ自体が、現代の問題点であるという議論は、そこからすっぽりと抜け落ちている。
  
母性崩壊


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 「アンペイド・ワーク」という概念は、それを広めようとする人以外の関心を集めることは、何故か少ない。
 それは、こうした問題が、とかく既存の社会の価値観を崩壊させる「危険物」として取り扱われがちであるということも一因であろう。
 しかし、その最大の理由は、誰もが自分のために行なっている「家事」の類を、時間×該当する賃金の価値として評価することで強引に社会に認めさせようとすることに、腑におちない気分を感じてしまうからであろう。

 「アンペイド・ワーク」が存在するかと問われれば、それは確かに存在する。
 しかし、無償であるということが、無価値であるということと同義語になったの経緯は一体、どのような理由であるのかが、本当のところは最大の問題であるのだ。
 つまりは<個人的な生活>は<社会的な生活>のおまけに過ぎないのであるか?という疑問がここに生じるわけである。

 このような「価値観の逆転」が起こってきた経緯は、一体、どのようなものであるのだろうか?

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 つまりは「家庭内の経済活動と家事労働の分業」ということは、何故「古代のように」分担労働制と認められなくなったのであろうか。
 
 「お金を運んでいる人」が労働者であり、そうでない人が「無職」であることが、女性達の自尊心を傷つけてきたことが、アンペイド・ワークという概念が生じた事の始まりなのであろう。
 ところが、その「分担労働分」の仕事を、金銭に置き換えることで、その誇りは回復するのであろうか?
 私にはとてもそうは思えない。

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 「自らが稼ぎ」「一人で暮らして自分のことは自分でやる」という「支払われる仕事」と「アンペイド・ワーク」を一人の人間の中で自己完結している人々の存在が、この「分業」の問題をややこしくしてしまった。
 つまりは婚姻の否定による、「分業不要論」である。
 しかし、人間は単性生殖の生き物ではないから、社会的・経済的に自己完結出来ても、「次世代の育成」という意味では自己完結出来ないように創られている。

 しかし、もはや、人々は「アンペイド・ワークがどうしたこうした」という不毛な議論に巻き込まれることを嫌がり、生活を自己完結させようとする流れに向かっているとさえ思えるのだ。
 他人との関係性の拒否と、自らの人生を狭い範囲で自己完結させようとする人間の増大は、この問題と恐らく無縁ではないであろう。
 
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 家族の中の分業体制を、プライスレスな「かつては高尚な目的と誰もが認めていた」愛、次世代の育成、家族の絆と、それを維持するための「外での経済活動」というふうにはっきり分けていた時代、女性達はそれらのことに確かな誇りをいだいていた。
 端的に言えば、外での経済活動は、より重要な目的を果たすための手段であるという考えさえ出来たわけである。
 
 その誇りを奪ったのは、「報酬をえられる労働」の方が、より価値があるという時代の変化である。
 
 そして、それに対抗する論理として、そうした無償の労働≒アンペイド・ワークに経済的な価値をもたせようという議論が盛んに行なわれるようになってきたというわけだ。
 
 ところが「皿洗い10分○○円」「掃除20分△△円」という、アルバイトの時給のような評価の仕方は、むしろ女性達の「無価値感」を高めているような気がしてならない。
 このような方式で「あなたの一日の家事労働は、■○△×円ですよ。すごいですね。」などという議論が一時はやったようだが、そうしたことにより、恐らく女性達の誇りは逆に剥ぎ取られていったということは想像に難くない。


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 人間は、誰かと取替え可能な存在になったとたん、その物事に関して意義と行動意欲を失うのだ。
 それは個人と個人の間の「恋愛」から始まって「結婚」とそれに引き続く「家庭運営」のような、「感情」が支えになる活動に関しては全て同じである。
 「あなたでもいいが、他の彼(女)でも良い」という恋愛や結婚は基本的に存在しない。
 取替え可能なシステムに組み込まれるなら、「家庭」という最小単位ではなく、「社会」そのものに所属したいという人間が男女ともに増えても、それは無理からぬことと言えるのかもしれない。

 私は、個人の生活を奴隷化するような後進国にみられるアンペイド・ワークを容認するつもりはないし、「愛」というオブラートで何もかもを包み込んでしまうつもりもない。
 しかし、全てを経済原理で評価しようとしたとき、全ての個人という存在は無価値化するのだ。
 
 どのような物事にも、一対一対応的な、経済的(貨幣的)価値に置き換えられない、別の意義がある。
 私達がそれを捨て去り、金銭を媒介とした置き換え可能な存在となった時、「アンペイド・ワーク」は本当の意味で価値のない労働となったのだ。
 つまりは、金銭的評価を、個人的生活を含めた全ての労働の価値基準とすればするほど、これらの問題は泥沼に陥る可能性があるということだ。

 「私」が私でなく、誰かと置き換え可能な存在であると感じたとき、私達の全ての労働は無価値化する。
 それは「アンペイド・ワーク」に括られる仕事だけではなく、私達が労働報酬を得ている「職業」であっても同じである。

 それを考えたとき、すべての労働を貨幣価値に置き換えようとする手法に、ある種の虚しさを感じないでもない。
 恐らく、遠い古代では、狩猟をすることも採集をすることも、個人の生活の中の「分担作業」であり、全ての労働は等価であったであろう。
 恐らくその中で、「次世代を生み育てる」という女性の役割は、「分担作業」の中でも最優先的な価値ある労働であったということは想像に難くない。

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 私達の生きるこの社会においては、「能力」よりも「魅力」が最大の価値をもつ。
 その中で、「富」ということが最大の魅力であるという発想自体が、恐らく問題であるのだろう。
 「自らが何を成すべきか」という最大の命題を考える前に、一足飛びに「富」という結果に飛びつこうとする人が増えたわけである。

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 「母」であるということと「女性」であるということは、本来は矛盾しない。
 むしろ、相互に干渉しあって、彼女の人間的な価値を高めるはずである。
 しかし、「母」であることの能力「女性」であることの魅力の経済的価値を天秤にかけたとき、多くの女性が後者を出来るだけ長く選び取ろうとするようになったのは無理もないことだ。
 そこには、それらが相反することだという誤った「社会的刷り込み」や「イメージ」が存在する。

 そうしたことを築き上げてきた過去の「大人たち」が現代の若い女性を「我儘」と呼ぶのは、あまりにも傲慢なのかもしれない。

 母性は、恐らく抑圧されてはいるが、崩壊はしていない。
 
 母であることが義務であった時代から、むしろ「権利」であると主張しないことには、経済原理から振り落とされてしまう時代である。
 「男性社会の歯車になるな」という論議を展開した人々は、時代に逆行する勢力としてことごとく批判を浴びてきた。
 「母になること以外許されない」時代が、二度とやってくることは、勿論私は望まないが、「母になることを許されない時代」もそろそろ終わりを告げても良いのではないだろうか?
 
 これからの時代は、自らの視点で人生を選び取る時代である。
 


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