The Face of the Century: 100 Years of Makeup and Style
the face of the century

   アイドル、イコン、そして「私」の間で

 「美の雛形」を創り上げた女優がいる。
 マリリン・モンロー、ブリジッド・バルドーといった女性達のイメージは、ある種の「概念」となり、繰り返しその時代を代表する女優やモデルたちに利用され続けている。
  
 マリリン・モンロー→マドンナという流れはあまりにも有名であるが、バルド−のイメージも、クラウディア・シファー→ジゼルという、いわゆる「スーパー・モデル」の系譜にその流れを見ることが出来る。

 このような美のプロトタイプを創り上げた女性達は、時代の「イコン」であり、女神である。
 彼女たちは、たとえ異性である男性の人気で世に出たとしても、ある時から必ず、同性である女性達の憧れをかきたてる存在に変化する。

 ところが、普通、多くの男性はそうした神格化された女性ではなく、「隣の女の子」的な女性を求めるものである。
 そうした女性の象徴的存在であるのが、いわゆる「アイドル」である。
 彼女達の特徴は、一言で言えば、「平均顔は美しい」ということを具現化したような、癖のなさである。
 「イコン」となった女神たちの、人生の多くが陰影に満ちた、時に壮絶なものであるのと正反対に、彼女たちは、いまだに自分の人生を歩み始めていては“いけない”。

 ところで、こうした「隣の女の子」的な美しさは、あり得るようであり得ない、手に入りそうで手に入らない、一種の幻のようなものである。
 個性的な「女神たち」の突出した「美」以上に、「隣の女の子」とは、いわば「想像上の生き物」である。
 それは、どのような「女の子」であれ、リアルの世界の普通の女の子には、彼女なりの人生が存在するからである。

 そうした意味では、「イコン」の人生のほうが、女性達にとってはより自分自身に近く、「アイドル」という存在が自分と程遠く感じるのは、恐らく当然の心理であるのだろう。


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 実のところは、元々の容姿はどうであろうと、こうした「人工的な」時代のイコンの風貌は、化粧や髪型、服装などでかなりの線まで近似させることが出来る。
 だからこそ、「彼女達」のイメージは、ある「典型的な美の形」として時代が移り変わっても、繰り返し利用され続けてきたのだろう。
 つまりは、一種の「記号」であるイコンは容易に真似できる存在でああるのだ。

 かたや、「アイドル」とは「私」を捨て去った存在であり、その無色透明さは、リアルの女性が決して持ち得ない部分なのであろう。
 アイドルとは、「女性性の総体」である。
 つまりは、ある意味、極めて分かりやすいように見えて分かりづらい存在なのだ。

 実のところは、個性的であるということは容易であり、無個性であるということは容易ではないのであろう。

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 そうした理由で、彼女達は、「アイドル」ではなく容易な道である「イコン」を目指す。
 しかし、本当のところは女性達が目指さなくてはいけないのは「私」である。
 あまりにも膨大な「魅力」とは何か?という情報のもと、「私」という存在に価値があるのかどうか分からなくなっているというのが、恐らく正直なところであるのだろう。
 
 ところで、こうした時代の象徴となった女性達の人生は、実のところはあまりにもエキセントリックであることも多い。
 彼女達の表面的にイメージを真似ることが出来ても、その実人生は、恐らく普通の女性には耐えられないものなのだ。
 「特別な人」になることを良しとする時代の中で、ことの本質であるその事実は、置き去りにされかちである。
 
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 人間は、社会に出ると、ある程度はどのような意味でも「無個性さ」を演じなくてはならなくなる。
 恋愛→結婚という流れが、より社会で価値を持っていたとき、女性達が社会のマナーとしての「無個性さ」をあたかも会社員の背広のように身にまとうことが当然の時代もあった。

 現代の女性にとっては、もはや、そうした男性の「期待値」を平均化した無個性な存在になることが良しとはされていない。
 「隣の女の子」には、もうなれない、というわけである。
 おそらくそこには、「なれない」「なりたくない」「なりたいがそれがためらわれる」それぞれの理由があるのだろう。
 
 男性側の立場にたてば、彼らとて、現実の人生において、決して取替え可能な「無個性さ」を求めているわけではない。
 しかし、あたかも男性の幻想が、彼らの全てであるかのような誤解が女性達に浸透し、その結果「そうはなれない自分」は恋愛市場から無関係な存在であるというあきらめを生じさせている。
 本当のところを言えば「アイドル」の特徴であるような「ナチュラルさ」「純粋さ」は全ての女性が持ち合わせている部分であり、素直にそれを表出すれば良いだけのことなのであろう。

 <恐らく>男性たちも、「男らしさ」という幻想を幼い頃から植え付けられることに、もはや疲れ果てているのかもしれない。
ところが、そのような実体のないものを、恐らく女性の側も実のところは、誰も求めていない。

 つまりは、個人と個人の関係が「情報」を介して形成されているのが、現代の特徴なのかもしれない。

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 そうした中で、「誰を」「どのように」愛するべきかという情報だけが、どんどん勝手に独り歩きしてしまいがちである。
 お互いを見つめ合うこともなく、「情報」という実体のない幻想を介して互いの心情を推し量るようになったとき、人生を共に築きあげる二人の関係性が成立しづらくなるのは、無理からぬことであろう。

 情報に疲れ果てて、リアルの世界の目の前にいる「大切な人」を見つめなくなったとき、より「個人的な関係」は成立しえなくなってしまうわけである。

 そうした中で、あくまで「隣の女の子」として存在しつづけられる女性には、以外にも高度な知性と常識が必要とされるのかもしれないのだ。
 以外にも「彼ら」が求めているのは、その部分だったりするのだろうが、その意図は恐らく「彼女達」には伝わっていない。

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 どのように時代が変わろうとも、究極的には、個人的なレベルに限定するのならば、男性は女性の女らしさにしか魅かれないし、女性は男性の男らしさにしか魅かれない。
 それを考える上で、忘れられがちなのが、個々人の求めるそれらの「女らしさ」「男らしさ」とは極めて個別的なものであり、全体の総意として情報で伝えられるものではないということである。
 つまりは、こうしたことを考える上では、箇条書きにされた「条件」は、全て無意味なのである。

 そして、「女らしさ」「男らしさ」の根底にあるのは、究極的には双方向性の包容力と、一種の大らかさであろう。
 それは、それぞれの意識が、「私」の価値を高めるためだけの目的で、自分の内側を向いているうちは、決して得られないのかもしれない。

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 「男らしさ」や「女らしさ」を求めるのは自然な感情であろうが、そうした個人的な感覚を公共の場に持ち込むことは、確かに問題であることは間違いがない。
 そして、年余にわたり、そうした感情を社会に持ち込むことで生じる諸問題(つまりはセクシャルハラスメントにまつわる問題)を解決するための努力が重ねられてきた。
 しかし、それが行き過ぎたあまり、個人レベルでの異性に関する自然な価値観までもが、まるで「やましいこと」であるかのように否定されてしまうという、一種のねじれが生じている。

 こうした一種のねじれや苦しみから無縁の人生というのは、いまだに存在し続けているのだが、それに対する社会の評価は恐らくあまりにも「低い」。
 少なくとも、「特別な人」になる教育を受けた女性達には、恐らくそれが耐え切れないのであろう。
 これからの時代に最も必要なのは、恐らく、「他人の評価を気にしない訓練」なのかもしれない。

 「個性尊重」の時代である。
 しかし恐らく、個性とは、「誰かと明らかに違うこと」ではなく、もっとひっそりとしたことであるのだ。
 


Making Faces



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