「準備された死」と「突然の死」のどちらが、まだ受け入れやすいのかということを考えることがあります。
 このことについては、折にふれ考え続けてきましたが、勿論のこと結論など出るわけはありません。

 「準備された死」を待つ期間には、困惑、怒り、抑うつなどの嵐のような感情が本人と家族を襲います。
 そうしたことを考えると、「突然の死」の方が「まだまし」なのではないかという気がしてくることさえあります。

 しかし、今回のJR福知山線の事故に接してあらためて、それが大きな誤りであることを痛感せずにはいられません。

 やはり、予期せぬ死ほど、人間の心を痛めつけ、永遠の傷を残す出来事は他にないのです。

 どのように苦しい過程であろうとも、死の準備期間はあった方が、本人にとっても周囲の人にとっても、やはり幸福であると結論付けざろう得ません
 こんなところで、「幸福」という言葉を使うのは、不謹慎だと思いますが、そうだとしか言いようがないのです。
 「死の準備」には、時には本人や周囲、そして、病の治療に関わる人全てを成長させる力がありますが、「突然の死」には、やはり無力感だけが伴うのです。


 大切な人を喪ったことのある人になら分かるでしょうが、本当に大切な人の死の後は、その人の一部が永遠に自分の心の中に残ります。
 生きている間は、離れ離れであった人が、ずっと自分の内側のどこかに留まりつづけるような感覚です。そして折に触れて、自分の内側にいるその人と、会話を交わすことが出来るようになるのです。
 勿論、それは、いわゆる「自問自答」です。
 しかし折に触れて、「あの人なら、どう思うだろう。」という視点を、それ以降もずっと、持ち続けることが出来るのです。

 「死」というのは、本来、喪失そのものですが、そうした新たな「誕生」のような部分を含んでいるのです。

 しかし、それには、ある程度の準備が必要であることは間違いありません。


トラウマ―「心の後遺症」を治す

 

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 受容された死の場合は、心の中の誰かとの対話は、ある意味有意義なものでありえると思います。
 しかし、あまりにも突然の死の場合は、心のどこかに受け入れがたい「何故?」という問いかけが、永遠に残ってしまうのです。

 誰にでも想像可能のことですが、ある日突然、何の前触れもなく、自分にとってもっとも大切な人の存在が、完全に断ち切られてしまったときのその欠落感は、言葉で言い尽くすことは出来ません。

 ところが、別れの前に、死を迎える人と十分に対話し、元気な時には聞くことさえ出来なかったような深い思いを語りあって満足のいく時を過ごすことが、後になってから、かけがえのない心の財産になります。
 それは、死を予感する以前の楽しい時を過ごした時期と同じくらい<時間がかなり経てば>ある意味では、得がたい想い出になるともいえます。

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 これもあまりにも当たり前のことですが、物事には、取り返しのつくことと、つかないことがあります。
 準備が出来なかった「喪失」は、それが理不尽な理由であればあるほど、人はそれを乗り越えることが出来ないのです。
―「安全」に関わる人の全てが、その重みを忘れずに行動しなければならない―
 当然過ぎて、私が偉そうに主張することではありませんが、全ての価値は、「生命の安全」の次に続くものなのです。
 突然の、ありふれた日常を襲った事故に対して、私が語れることは多くはないですが、ただそれだけを思います。

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 今回のことと話は少しそれるますが、「高度先進医療」「救命医療」「脳死」などの、生と死の境を決定する上での多くのキーワードの解釈の難しさは、多くの人の知るところとなっています。
 理論を重視してディスカッションの場を設ければ、過剰な医療はない方が良く、全てが過不足なく行なわれることが理想的な状態なのかもしれません。

 しかし、「最も大切な人」ということに限定すれば、「ただ温かい手を握っていられるだけで幸せである」と感じるのが、正直な心境であったりするのです。
 つまりは、こうした問題が自らの身にふりかかった瞬間に、「生への期待値がゼロではない」ということが、最も大切なことになるのが人間というものなのかもしれません。

 「生命」に関わること全般に関して考えると、時代が進むにつれ、こうした多くの矛盾を抱え込むようになってきています。
 生と死の境が曖昧になってしまった現代においては、この曖昧さを解決出来ないジレンマというのが存在し続けています。
 自分や家族の「死の境界線」を、「相談の上」決めていかなくてはいけない重圧が存在する社会は、過去の時代には存在しませんでした。
 つまりは、死が物理的現象ではなく、倫理的な問題になってしまっているのが現代です

 しかし、そうした生命倫理にまつわる重い命題ですら、このような「ぷっつりと人生を断絶させる」事件の後では、どこか贅沢な議論に思えてなりません。



約束された場所で―underground〈2〉
 「加害者」の心の仕組みや病理を知ることで、事故や犯罪を防ごうという考えは、決して間違いではありません。

 地下鉄サリン事件を被害者の方々の視点から捉えた「アンダーグラウンド」がどこかとらえどころがない日常を切り取ったものであるのに対し、「加害者」である宗教の加入者たちへのインタビューである「約束された場所で」を読むと、彼らには、終始一貫した「主張」があります
 当然といえば当然の事実です。

 多くの場合、「加害者の論理」というのは、このように分析の対象になり得る上、長く興味の対象であり続けます。
 しかし、「被害にあう」ということは、偶然であり、ある意味で分析不能の状態です。

 多くの場合、事件を起こす立場の側には、「信念」「確固とした価値観」もしくは、「理由」を何とか見出すことが出来るもの。
 もちろん、それは理不尽で、納得のいく理由ではない上、多くの場合、いい加減に分析されていたりするものです。
 しかし、少なくとも、ある程度理由付けが出来るのが「加害者」の立場であり、曖昧な立場であるのが被害者の側なのです。


 あまりにも当たり前のことですが、被害を受けた立場の方々というのは、いつでも、本当に何の脈絡のないままに、偶然そこに行きあっただけなのです。
 「被害者の心」というのは、「その時」以来、行き場のないエアポケットに落ち込んでしまうのですが、それを理解することは、本当の意味では到底不可能なのです。
 そこにいきあったことで変質した「人生のその後」の苦しみは、アンダーグラウンドに描かれているように、百人百様であり、「事件」という総体では語れない個別的なものなのだと思います。

 何か事件があるたび、私達は「理由」を分析することでそれを乗り越えようとします。
 客観的な態度としては、それは極めて正しいとは思います。
 「理由」の部分を解決することは、もちろんのこと、当事者の方々の心をある程度は癒すことが出来ます。
 しかし、当事者の立場からすれば、それらの疑問の答えは、たとえ理論の部分が解明されても、永遠に解決することはなく、ひたすら「何故?」という気持ちを抱え続けることになります。

 ところで、「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」を読み比べたとき、冷静に考えれば考えるほど、人間は被害者より加害者になる可能性が高い生き物であるということが分かります。
 誰もが認めたくないことだと思いますが、これはある意味真実です。
 何かを感じ、目的意識をもって行動するということの本質には、結局そうしたものが潜んでいるとしかいいようがありません。
 つまりは、価値観を感じることは極めて大切であるけれども、その価値観がどんどん間違った方向にずれていくということが、最大の問題ではないかということです。

 今回の事件の本質には「ダイヤの厳守」という背景があったように分析されています。
 事件の後で、それを聞くと、私達は、「何だそんなこと」と思いますが、普段は一体どうでしょうか?

―日常のレベルで、とても大切だと思われていた価値観が、こうした事件の後では、全て無に帰する−
 最大の問題は、私達の殆どが、普段はそうしたことに気付くことが難しい、ということなのでしょう。つまりは、私達の価値観は、日常のレベルでは、常に本質からずれている場合が多いというわけです。
 これは、普段は気付きにくいことですが、極めて重要なことだと思われます。
 
 本来は、何に注意を向けたらいいのか?という根源的な目的意識の後に、全てを肉付けする思考の習慣をつけなければいけないのだと思います。
 つまりは、より副次的なことと本質を見極めることが、どのようなときにも瞬時に、「ぶれなく」できる訓練をすることが、安全に関わる人間にとって最も大切なことなのでしょう。
 しかし、これは言うは易いですが、行なうことは、想像以上に大変なことです。

 何故なら、多くの場合、日常的な「成果」の前には、そうした本質的な価値観は見失われてしまいがちだからです。


アンダーグラウンド


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