ベル・カント

 ここにいる男たちは例外なく、自由時間という概念にまったくなじんでいない連中だった。
 裕福な連中は夜遅くまでオフィスで仕事をしていた。(中略)
 若く貧しい連中もそれに劣らず必死で仕事をしていた。ただし、異なる種類の仕事だった。割るべき薪や、掘るべきサツマイモがあった。
                   (“ベル・カント”より引用)


 世の中の最上層の人々と、虐げられた世界の人々は、どこかに通った部分を共有していた。
 それは「煩雑な日常」もしくは「抑圧」にからめとられた、自らの人生が自らだけのものではない人生である。


最新人気blogランキング!


 
 本書は、現実に起こった南米ペルーの大使館人質事件にインスピレーションを得た小説である。
 とある南米の国の副大統領邸。日系企業の現地社長「ホソカワ氏」の誕生日を祝うパーティが開催され、各国の大使や現地の上流階級の人々がそこに招かれていた。
 
 そして、世界的な女性オペラ歌手ロクサーヌ・コスが、彼女のファンであるホソカワ氏のために歌うべく、ゲストとして招かれていた。

 ところがそのパーティを、反政府組織の一味が、襲撃する。
 彼らの目的は、パーティに出席しているはずの大統領の暗殺と政府の転覆であった。ところが大統領は、「都合により」欠席しており、目的が果たせなかった彼らは、パーティの出席者全員を人質にして副大統領邸にたてこもることにする。

   ***********************

 犯行に及んだ一味は、現地で家ももたず、ジャングルで生活をするような最下層の世界に生きる若者たちからなるゲリラ部隊であった。
 そして人質となった人々は、現地では最上流の人々である。

 ここに、貧富の激しい地域における、社会の最上層の人々と最下層の人々の奇妙な出会いが実現したわけである。
 
 この彼らには、「まるきり自分がない生活を送っている」という共通点があった。
 最もエグゼクティブな人々も、貧しい人々も、自分の意志に関わらず時間に追われているということには変わりがないというわけだ。

 そして、彼らの間には、「貧しくとも富んでいても、どちらも人間性を奪われた生活を強いられているという」点において、共感が芽生え始める。


  *****************************

 ゲリラ達は、ほどなく女性達を解放することに決定する。
 そして、男性とただひとり女性の中では世界的なオペラ歌手のロクサーヌだけを人質として残すことにした。オペラ歌手を残したのは、彼女が有名人であるため、交渉に有利となるという判断からであった。

 ロクサーヌは、長い人質生活の中で、歌が歌えなくなることを恐れ、歌の練習を開始することを要求する。
 ところが、人質生活の中で、ピアノ伴奏者が病死してしまったのだ。そこで、ロクサーヌの歌の伴奏をすることになったのは、「ホソカワ氏」の部下の副社長であり、それまでは何の変哲もない会社員と思われていたテツヤ・カトウであった。
 彼は、それまでも、出勤前に毎日一時間づつピアノの練習をしていた。
 しかし、「そのような個人的なこと」は会社員生活においては、秘密にすべき出来事だと考えていたのである。
 人々は「平凡と考えていた男の密かな才能」に驚愕する。

 そして、とにもかくにも、カトウ氏の伴奏の元で、彼女は再び歌い始めた。
 そしてその類い稀な歌声は、もともとオペラに精通し音楽を愛する上流生活の人々のみならず、ゲリラの若者達の心にこそ深く響いたのだった。

「この世にこんなに美しいものがあったのか」
 貧しい世界で生きてきたゲリラの若者たちにとっては、「芸術」は全く無縁の世界の事象であった。
 恐らく、芸術とは富を搾取する人々達の贅沢な玩具であり、反感の対象ですらあったのかもしれない。

 しかし、ロクサーヌの歌をきっかけに、ゲリラの若者達は、上流階級の人々は、贅沢と搾取に明け暮れ、単に富を占有しているだけの存在ではなく、この世の文化や芸術といった類いまれなものの守護者であることを知る。

 ゲリラの若者たちにとって、生活に追われて今まで知ることもなかった、「愛」「芸術」が自分の心にとって、必要不可欠な存在になっていく。
 彼らは、立てこもり生活の毎日の中で、ロクサーヌの歌を聴くことを心待ちにするようになるのだ。

 反面、人質である各国の大使などの上流階級の人々は、そして、「美しいもの」を理解する、という点において、彼らと自分たちに何の違いもないことを知るのである。


   ****************************

 このストーリーは、象徴的な意味では、「大人と子供の出会いの物語」でもある。
 何もかもを占有している大人に、次世代の若者が反抗し立ち向かう。
 歴史の中で繰り返されてきた出来事だ。

 つまりは「地位」「名誉」「富」を既に築き上げている大人達の代表が、上流階級の人々である。
 そして、いまだ何も持たず、それらの大人の「旧来のやり方」に反抗し打ち砕こうとする「子供」の象徴がゲリラの若者達である。

 しかし、ゲリラの若者たちは、ロクサーヌの歌という「芸術」をきっかけに、成熟した大人の世界の揺るぎない文化の存在を知り、それに対して敬意を表するようになる。
 反抗の対象に過ぎなかった、大人の世界の奥深さを知るのである。

 一方、大人たちは、自分たちが虐げている「どうしようもない」はずの若者達が、愛情をもって教育すれば自分たちと同じ場所にたてる資質を有していることを知る。
 そして、人質となった上流階級の人々の中には、ゲリラの若者を「本物の息子のように」思い始めるものさえ現われるのである。

  **************************


 そして、このストーリーのもう一つのテーマは、
「内省の時間をもつこと」が人間に何をもたらすかということである。
 あまりにも日々の生活に追われていたエグゼクティブな人々にとって、立てこもりによって「まるきりなじみがなかった怠惰な時間が訪れた」のだ。  
 彼らにとって、死と隣り合わせの人質生活を経験することにより、自らの心を深く見つめる静かな時間が初めて、手に入ったのである。

 上流階級の彼らにはとっては、過去に築き上げてきた揺るぎない地位や生活が存在した。
 普段の彼らは、無論、それらに対して疑問など抱いたことなどなかった。
 ところが、余計なことに妨げられて、見つめることのなかった自分の本当の気持ちと向き合うことになってしまった結果、「本当に自分が求めていることを知ることになるのである。

 その中で、上流世界の男性のある者は「普段は省みていない妻」「家族」を本当はとても愛していることを知る。
 しかし、別の者は、残念ながら、「妻を尊敬しているが本当の愛をいまだに知らなかった」ことを理解してしまう。

 私達の日々は、与えられた日常を抜きにしては、理解することが出来ない。 

 そう考えると、「日常」がすっぽり抜け落ちた「非日常」の中で得た思いが真実であるとは限らない。
 こうした奇妙な共感に基づいた、「静かな生活」がどのような結末を遂げるのかは、ここに書くわけにはいかない。
 しかし、それは究極的には、非日常の価値観が、日常の価値観に戻る瞬間と言えるかもしれない。

  ***************************


 「出会い」そして「語り合う」きっかけがないという理由で、私達の多くが、どれほど互いに分かり合えるきっかけをなくしているのだろうか。

 私達は、日常を共にしている相手の内面的な世界を驚くほど知らない。

 「このような人だろう」と決め付けているものの多くは、単にその人の社会的仮面に過ぎないことが多い。
 自分自身も、その仮面をいつしか、自分自身だと信じ込んでしまい、その「仮面」にふさわしい人物こそが自分の友人やパートナーにふさわしいと思い込んでしまうことになる。

 確かにそうした人々は、「私達が現実の生活を送るのに必要不可欠な人々」である。
 それらの人々が、「この世の最後にも一緒にいたい人々」である場合は幸福である。しかし、あまりにも自分の内面と異なる仮面で自分を欺いている場合、自分の求めているものと現実の生活が解離してしまう。

 人は、何かのきっかけに、現実のしがらみから自由になった時、自分が築き上げてきたものが本当に揺るぎないものであったか、それともただの欺瞞であったのかを知ることになる。

 ******************************

 しかし、私達にとって「日常」とはある意味、生きていく世界の全てである。
 そう考えると、「非日常」の世界の内省で得た「真実」が必ずしも私達を幸福にするとは限らない。
 別の言い方をすれば、揺るぎない現実の中で手に入れたものこそが、心の中で憧れとして抱いているもの以上に、私達自身を現しているとも言える。

 そのように考えていくと、「日常」と「非日常」のどちらで得た思考が本物であるか?という問いに対する答えは、永遠に謎のままである。

 目に見えるものだけを信じて生きていくか、それとも心の中を掘り下げてみるか?どちらが人を幸せにするのかという疑問に答えるのは、極めて難しい。
 
 一つの答えとしては、「何事もなく無事に人生をおくれるのであれば」表面だけを眺めている方が幸せであるのかもしれないということだ。
 しかし、何かのトラブルに行き当たった時は、内面をきちんと見つめている人の方が幸せであるということなのかもしれない。

 人生とは、順風満帆であろうか?
 絶対にそれはありえない。
 そう考えていると、自ずと答えは明らかである気もしないではない。

 「まず現実を見ろ。」
というのは、いつの日も有用なアドバイスである。
 しかし、その現実というのは、本当の意味での現実を意味する。
 つまり、現実とは、「諸条件」といった表層的なことを必ずしも意味せず、自分の内面を含めた包括的な真実のことなのかもしれない。


この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!


元祖ブログランキング ほかのブログも見てみたい!