ゲノムが語る23の物語

脳細胞に新しい結合を生み出すプロセスを学習と呼ぶなら、古い結合を失うプロセスもまた学習といえる。
 (“ゲノムが語る23の物語”より引用)


 唐突ですが、あなたは「忘れ上手」だろうか?
 人間の精神のバランスの要になる究極の「能力」は恐らく「忘却」であろう。
 この能力は、少しばかりネガティブなイメージがあるために、高い評価を受けることは少ないと思う。

 しかし、「忘れる」ことが「覚える」こと以上に、人間の学習の要になっていることは間違いがなさそうである。


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 人間の細胞にはすべからかく、プログラムされた死(アポトーシス)というものがあり、それらは遺伝子によってコントロールされている。
 ced-9遺伝子はアポトーシスを抑制し、ced-3遺伝子は、アポトーシスを促進する(Nature. 1997 Nov 20;390(6657):305-8.)

 「ゲノムが語る23の物語」の言葉を引用すれば、「不要な脳細胞が死んでくれないので、脳が秩序を失い、オーバーロードの状態となって機能しなくなる」状態に陥ってしまうというわけだ。

 この本では、この脳細胞のアポトーシスを「ced-9遺伝子の刺激で起こる」と説明している。
 私の知りうることによると、細胞死のプログラムに関する遺伝子の機構としては、正確には上記に記載したごとく、大雑把にいってced-9遺伝子(細胞死の抑制)ced-3遺伝子(細胞死の促進)の拮抗によって調整されていると理解している。
 従って、本書の記載はやや意味不明というか、やや理解不能である気がしたが、本書全体の素晴らしさを考えると重箱の隅をつつくのはやめようと思う。

(その他にもアポトーシス関連では、哺乳類の細胞死の抑制に関わるbcl-2、腫瘍細胞を「自殺」させる遺伝子p53などのキーワードを耳にしたことがある方もいらっしゃると思うが、説明が長くなるのでここでは割愛させていだだく)。

 しかし、そうした細かいことはともかく、「プログラムされた細胞死」が私達の脳の機能にとって重要であることに変わりはあるまい。
 
 勿論、例えば私のように、失われる記憶の方が、覚えていくことよりも多い(つまり忘れっぽい)というのは相当問題であろう。
 しかし、何もかもを記憶してしまうということは、即ち、脳の機能がきちんと働かなくなってしまうということにつながるのは間違いがない。


ゲノムが語る23の物語

 本書は、人間の22対の常染色体とXYの性染色体(男性であれば)計23組の染色体のそれぞれにまつわる、ストーリーを、こうしたジャンルに無関係な方でも「わくわくするストーリー」として楽しめるように綴られた物語である。

 上記には第17染色体にあるced-9の物語を紹介させていただいた。

 しかし、それ以外にも、近年の遺伝子関連の興味深いトピックをほぼ網羅していることが素晴らしい。記述は、「一般の方向け」に徹しており、恐らくゲノムに全く関係のない人でも、たやすく理解できる点でお勧めと思われる。


 本書の最も素晴らしい点は「脳と身体と遺伝子は三位一体の関係にある」ということを繰り返し強調していることであろう。
 つまり、「原因が遺伝子にあるのならばそれがヒエラルキーの頂点」であるという発想に繰り返し釘をさしているのである。

 「物質至上主義」とは「明快な答え」を求める私達の心の副産物である。
 私自身、出来る限り事実と客観性をベースにものを考えたいとは思っている。
 しかし、それは文字通りの「事実」でなければいけないのだろう。
 間違っても、「事実」の一部である遺伝子の知見がひとり歩きしてはいけないと思う。

 「遺伝子が見つかった」という事実ほど、もっともらしく聞こえるニュースはない。その「ハロー効果」には、誰もがひれ伏したくなるというのも理解出来ないでもない。

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 もっとも恐ろしいのは、ニュートラルな事実を政治的な目的によってねじ曲げてしまうことであろう。主に知能の関連では、IQの人種差などの測定において、不幸な「優生学」の歴史が過去に存在した。
 
 例えば、「英語が分からない人に英語で問題を出す」などの調査法によってゆがめられたデータが用いられてきたなどという事実を、本書ははっきりと記載している。

 これらは二重の意味で不幸であろう。
 「虐げられた人々を生み出す」ということと「その後の本来の意味での学問の発展を停滞させる」という結果につながるからだ。
 こうしたIQ研究の不幸な歴史とタブーについての本書の記載は、一読に値すると思われる。

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 ちなみに、「遺伝子と知能の影響」は、年齢が高くなるほど、顕著になると考えれている

 これは、「教育など意味がない」という意味ではない。
 年齢が幼いうちほど、教育によって、個性がマスクされるが、年齢が高くなるほどに「その人らしくなっていく」という意味合いである。
 これは能力というものが、もともとハワード・ガードナーが提唱した多重知能の理論が端的に示すように、複数のファクターで成り立っていることを考えると、決して差別的な意見ではない。

 過去記事:MI:個性を生かす多重知能の理論


 また、本書の中で著者は、「人間の社会が平等になればなるほど、『遺伝子』つまり固有の能力というのが大きな意味合いを持つようになる」という理論を展開する。

 つまり<あり得ないことであるが>真に教育や貧富、栄養状態などが平等になれば、固有の能力のみが意味を成すということになるはずである、ということだ。

 しかし、反語的に考えれば、私達の世界が決して平等ではないことを考えれば、いかに「遺伝子」が部分的な存在であろうかということが理解できよう。

「その人自身の賜物を見出す」ことが大切であることを考えれば、「違い」とは不平等ではない。
 ビネー式知能検査の提唱者、アルフレッド・ビネーは、当初、知能テストを「才能に恵まれない子供に特別な教育上の配慮を与えるため」に開発したという。しかし、現在、知能テストがどのように捉えれているかというと、この真逆の利用のされ方をしている側面が多いのは不幸なことであろう。

 最大の問題は、私達が「事実をベースに考える」ということを、「物事の一部を材料にして判断する」と曲解している点にあるのだろう。


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 ところで、本書にも紹介されているが、ロバート・スタンバーグは人間の知能を
 
 1.分析的問題を解く知能
 2.創造的問題を解く知能
 3.実際的問題を解く知能
 
の三つに分けている。
 
 このうち,諒析的問題を解く知能というのは、いわゆる「前提となる確固とした仮定条件に伴う問題を解決する能力」である。
 つまり、一般的な意味での学校教育の「テスト」はこれを意味する。
 
 しかし、研究や芸術活動などに必要な◆日常生活に必要なには、まず誰かが与えてくれた仮定が存在しない
 しかも、これら↓を解決するのに必要な事実は、相互に矛盾していたり、必要なことが欠けていたりする不完全な情報である。
 「思考」を行なうその前提として、それらのカオスの中から、自ら必要な事実を補い、不必要な事実を削ぎ落とす作業を、まず第一に行なわなければならないのだ。
 すなわち、自らが問題を提起することから始めなくてはいけないというわけだ。
 この「問題提起能力」があるかどうかは、実際のところ、学生生活を終え、社会に出てみないと分からないという側面が存在する。
 
 勿論1−3の全てに長けた人物というのは存在するが、これらの能力の一部だけが優れている人物もいる。このことに関連して、「様々な知能は全て相関する」という“g”という理論があるが、これに関しては異論が噴出しているようだ。


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 ちなみに本書は、こうした論考を深めるのに役立つだけではなく、「身体の対称性が高い人のほうが知能が高い」「自分と違うHLAをもつ異性に魅かれる」などの、この手の著書にはおなじみの「トリビア」的な知見もちりばめられており、そうした路線の読み物としても楽しむことが出来る。
 


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