今日、久しぶりに、心を打つ言葉を聞いた。
 しかも、ある小学生の女の子からだ。

「あのね。塾の先生と学校の先生の違いはね…。」
彼女は、きっぱりと言った。
 「塾の先生は、勉強を教えてくれるけど、学校の先生は心も教えてくれるんだよ。」

  「そうなの?」と私が尋ねると、「当たり前じゃない。」という自信に満ちた答えが返ってきた。

 勿論、塾の先生だって、子供達と心の交流をしている方も多いだろう。



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 それに、心を教えない学校の先生もいれば、心を教える塾の先生もいらっしゃることだろう。
 そのような塾の先生の皆様にとっては、
「自分たちだって子供に心を教えているのに…。」
と心外という気持ちでいらっしゃるかもしれない。

 付け加えるならば、今の学校教育の現状を考えると、実際の「学力」の側面は、塾に頼りっぱなしという事実もある。
 であるから、子供たちの学力を引き上げようと日夜努力している塾の先生方を貶めるつもりは毛頭ない。
 
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 しかし、彼女は塾の先生を低く見て、そんな発言をしたわけではないと思う。

 シンプルに、小学生の子供にとっては、学校の先生というのはある意味、そこまで絶対的な存在だということなのだ。
 私がある意味衝撃を受けたのは、その「絶対者」としての先生という存在の価値は、現代においても実のところは全く揺らいでいないということに対してなのだ。

 教育のことをあれこれ批判しているのは私達大人であって、子供にとっては、今の時代でも、「先生」は唯一無二の存在なのだ。
 
 この当たり前の事実を、一体、何人の大人が気付いていることであろう。

 そう信じている、子供たちの心を傷つけてはいけない。

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 そして、子供たちは、どのように時代が変わろうとも「心」を教えてもらえることを望んでいる。
 自分自身が小学生だったのは、あまりにも以前の出来事すぎるため、それを忘れかけていたが、やはりそうなのだ。
 何故そんなことを忘れていたのか、今更ながら、不思議になる。

 今の小学生の子供たちがいくら現実的な考え方をするからといって、「勉強」という戦略を教えてくれるだけの存在は、やはり彼らの中では、広い意味では「先生」とは呼べないのだ。

 翻って考えると、「先生」という立場の方に限らず、私達大人は、すべからく子供に「心」を教えようとしているだろうか。 現実の処世術やお得な生き方などをダイレクトに教え込もうとはしていないだろうか。

 実のところは、そんなものは、「心」という核があれば、いくらでも後から身につけることが出来る。
 しかも、そうした「生き方の技術」は、人から教えられたものではなく、自分がある程度痛い目に逢わないと身につかないものなのだ。

 今の子供たちは、ドライで人とコミットすることを求めていないと言われて久しい。
 しかしそれは本当だろうか?
 良く考えてみれば、私達自身がそのように言われ続けてきたが、本当はそんなことはなかったような気がする。

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 子供たちは成長の過程で、一時、大人たちに対して
「放っておいてよ。」
というメッセージを出すことがある。
 しかし、それは、関係性の拒否ではない。
 むしろそういう時こそ、ある意味、自分に共感を示してくれる大人を心の底で強く求めているのだ。

 だから、大人たちは、その思春期の子供たちの拒否的なメッセージに怖気づいて、彼らを手放してはいけないのだ。


バッテリー

  ただ、嬉しかった。誉められたからではない。
   洋三が、巧自身の力をちゃんと理解してくれたからだ。
             (“バッテリー”より引用)

 

 小学校を卒業したばかりの春、原田巧はある地方都市に引っ越してきた。
 巧は天才ピッチャーである自分の才能に酔いしれ、他者を切り捨ててしまうところのある少年であった。
 そんな彼のもとに「巧とバッテリーを組みたい」と強く願う、同級生の永倉豪が現れた。
 居丈高な態度を豪にとる巧と、あくまでもそれに柔和に応える豪。
 
 豪は自らの才能と技術をもてあまし、格好ばかりつけている巧に、
本気になること」を教えようとする。
 豪の存在で、巧の心は変わっていくのだろうか?
 
 「才能とは、結局はひとつの運命なのか?」
 という問いへの解答の一つが本書にはある。
 
 しかし恐らく、
―天才であればあるほど、他者から理解されることによってしか才能が開花しないのかもしれない―


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