子どものための美しい国
「王さまって、なんのためにいるんでしょう?」
とマットは無邪気にきいた。
「もちろん、王冠をかぶるためだけではありません。自分の国の国民に幸せをもたらすためです。ですが、どうしたらかれらに本当の幸せをもたらすことができるでしょう?わたしはいろいろな改革を試みました」
話が面白くなってきた、とマットは思った。
「しかし改革というのはまことにむずかしいものです。何がむずかしいといって、改革ほどむずかしいものはありません」
(”子どものための美しい国”より引用)
父王の死去に伴い、わずか十歳の少年皇太子マットは国王として即位する。
国の混乱に乗じて宣戦布告してきた隣国の三国に対して、国の総理大臣たちは和平を望む。
戦争を密かにを支持するのは、ただひとり陸軍大臣のみ。
ところがマットは 陸軍大臣以外の大臣をすべて解任してでも、あくまでも強硬に戦争を行なうことを主張する。
「何故、敵に屈服しなくてはならないの?」
それがマットの率直な思いであった。
最新人気blogランキング!
幸いにして、その戦争はマットの国の勝利で終わり、そのことが彼を勢いづかせる。
「やはり僕の判断は正しかったのだ。」
―いままでは、子供として、皆のいいなりになってきたが、これからは国王なのだから、自分の好きなようにやりたい。そして国中を改革して、自分の好きな国を創り上げるのだ―
マットはそういう理想を掲げて、思うとおりの政治を行なうことにする。
「マット改革王」
それが彼の新しい呼び名であった。
マット改革王は、これからは子供が自分のことを自分で決めることの出来る国を創ろうと決心する。
大人たちによって一日のスケジュールを決められ、勉強ばかりさせられていた束縛だらけの毎日を、彼はまず第一に改革しようとする。
そしてマットの考えた具体的な「子どもたちを幸せにするための政策」は、すべて自分の願望を次々に実現することから成り立っていた。
−子供たちにキャンディやチョコレートを配り、教科書には美しい絵を載せる、全ての学校にシーソーやジャングルジムをつくる、子供は毎夏キャンプに連れて行ってもらえる−
そのようにして、マットは、王の権限によって、これらの自分の今までの子どもらしい「夢」を次々と現実のものとしていく。
***********************
次に彼は、大人中心の政治のしくみの改革に取り組む。
国会も大人の国会と子供の国会の二つを開催することを決定し、大臣も大人の大臣と子供の大臣の二本立てで任命することにしたのだ。
その「子どもの議会」で、子どもの国会議員たちは、色々な意見を述べる。
「すべての子どもは、毎日、サーカスを見るべきです」
「毎日をハローウィンにしてほしい」
「すべての子どもはラッパをもつべきです」
「それから拳銃も」
「女の子をみんな、なくしたい」
「小さな子をなくしたい」
「すべての子どもは、車をもつべきです」
「船も」「家も」「鉄道も」
「子どもも好きなだけお金をもち、ほしいものはなんでも買えるといい」
子どもたちの意見は、「自分の欲しいものを手に入れ、自分の不快に思うものを抹殺する」ということに次第に、集約していくのであった。
力をもった子どもたちにとって、すべての自分の欲求は、「正しさ」と同義語となりつつあった。
そして、それを導く大人たちは、この国にはもはや存在しないのだ。
これらのあまりにも身勝手な子どもたちの意見を、王であるマット自身もまずいと思い始めるが、一旦「法律」で決まった国会と国会議員の力を抑えるのは、極めて困難なのであった。
********************
大人はもはや、子供のことに何も口出しすることは出来ない。
気に入らない頭の古い「大人の大臣」は、何かあると解任されたり禁固刑に処されてしまうので、うかつに何も進言することは出来なくなってしまった。
ところで、マットは、ただの利己主義で我儘な少年ではない。
いつでもどこでも、「皆を幸せにするにはどうしたら良いか?」
ということを考え続けているのだ。
彼は彼なりに、純粋な気持ちで「本当に良いと思うこと」を実行しようとしているのだ。
彼はあくまで、「正直」な少年であった。
そのような日々の中、マットの心には、以前に訪問した隣国の王様から聞いた次のような言葉がふとよぎるのであった。
「改革者の道はけわしいといったことや、改革者はしばしばみじめな最期をとげるといったこと、改革者が死んだあとではじめて人びとは、かれの言葉が正しかったと気づき、彼を立てる記念碑をたてる」
(“子どものための美しい国”より引用)
しかし、マットは、そうした不安を振り払うかのように、こう考えていた。
−でも、ぼくの場合は何もかもとんとん拍子に運んでいるー
彼には、物事をどうしても「別の側面」から見てしまいがちな大人たちは決して持ち得ない、揺るぎない自信があった。
**************************
今や、新聞も、ふたつにわかれていた。
勿論、子どものための新聞をつくったのはマットだ。
「子どもの読みたい新聞をつくるのだ。」
というのが彼の考えである。
頭の古い旧来のマスコミではなく、
「自分が手中に収められるマスコミをつくりたい」
というのがマットの考えであった。
今や、この国には、マットを褒め称える子どものための新聞と、マットの政策を厳しく批判する大人のための新聞が存在した。
そして勿論、マットの読むのは、自分にとって心地よい意見だけが書かれた、「子どものための新聞」だけである。
***********************
そして、ある日、暴動と他国との戦争が勃発する。
そして初めて大臣たちは、マットに批判で固められた「大人の新聞」を彼に見せる。
「子どものための新聞は嘘ばかりなのです。こちらを御覧なさい!」
しかしマットは
「こちらの新聞の方が、嘘で固められているのです!」
と叫び、記事を信じようとしない。
「子どものための美しい国」をつくるはずだったマットの政治は、どのような結末を迎えるのであろうか?
結末は、本書をお読みいただければ幸いである。
****************************
「理想を追いかける」
誰にも反論できない、素晴らしい考えである。
しかし、理想とは何であろうか?
理想は美しく、現実は薄汚れているのであろうか?
現実とは、すべての人の理想を、何とかすり合わせようとした結果生じた苦肉の策である。
従って、誰の心を満たすことも出来ないという側面をもつのは間違いがない。
しかし、「誰かの理想」だけを特化して築き上げた世界は、恐らく別の人にとっては理想的ではない。
「理想」と極めてパーソナルな「欲望」は、私達の心の中で混同されがちな事柄である。
それらの区別をつけていくことこそが、私達にとっての成長の過程なのであろう。
しかし、個人の「欲望」を是とするこの世の中でその成長が可能であるかは、難しいところである。
「個人の理想」は、普通は、学習や人間的な成長によって年月と共に成熟を果たすのだ。
勿論、「幼い頃の夢」が純粋なものである場合もありうる。
私達の願いとしては、「子どもの夢」こそがこの世でもっとも美しいものでなければいけないのだろう。そうした人にとって、あまりにも悲劇的なこの「美しい国」の物語は、納得のいかない話であるのかもしれない。
小児科医でもある著者のコルチャック自身が、
「この物語に反感を覚える人もいるだろう」と本書の前書きで述べている。
***********************
現代における最大の問題は、実のところは、既に大人であるはずの、
「私達の夢」や「理想」が本当に成熟したものではないという点にある。
むしろ、年齢を問わず、悪い意味での「子どものままの夢」を実現するために生きている大人があまりにも多いのではないだろうか?
もうそろそろ、私達の誰もが「大人としての理想」を心に抱いて人生を歩んでもおかしくはない時なのではないのかと思う。
自分たちが変化せずして、何を次世代に伝えようというのであろうか?
しかし、そうした「理想」を実現するためには、本書の次の言葉を忘れないように歩んでいかなければいけない。
−マットは、「大人の治める」諸外国を訪問したときに、その国の王の政治に反対する暴徒を目撃して驚く−
「あの王さまがそんなにいい人だったとしたら、なぜ“国王をたおせ”なんていう者がいるんでしょう?」
「ある人たちは、けっして満足しないのです。王さまにしろ、大臣にしろ、すべての人間からよくいわれるような人なんて、一人もいませんよ」
(“子どものための美しい国” より引用)
私達は、「何かいいこと」をしたからといって、誰かに受け入れてもらえるとは限らないのだ。
この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!
元祖ブログランキング ほかのブログも見てみたい!
「やはり僕の判断は正しかったのだ。」
―いままでは、子供として、皆のいいなりになってきたが、これからは国王なのだから、自分の好きなようにやりたい。そして国中を改革して、自分の好きな国を創り上げるのだ―
マットはそういう理想を掲げて、思うとおりの政治を行なうことにする。
「マット改革王」
それが彼の新しい呼び名であった。
マット改革王は、これからは子供が自分のことを自分で決めることの出来る国を創ろうと決心する。
大人たちによって一日のスケジュールを決められ、勉強ばかりさせられていた束縛だらけの毎日を、彼はまず第一に改革しようとする。
そしてマットの考えた具体的な「子どもたちを幸せにするための政策」は、すべて自分の願望を次々に実現することから成り立っていた。
−子供たちにキャンディやチョコレートを配り、教科書には美しい絵を載せる、全ての学校にシーソーやジャングルジムをつくる、子供は毎夏キャンプに連れて行ってもらえる−
そのようにして、マットは、王の権限によって、これらの自分の今までの子どもらしい「夢」を次々と現実のものとしていく。
***********************
次に彼は、大人中心の政治のしくみの改革に取り組む。
国会も大人の国会と子供の国会の二つを開催することを決定し、大臣も大人の大臣と子供の大臣の二本立てで任命することにしたのだ。
その「子どもの議会」で、子どもの国会議員たちは、色々な意見を述べる。
「すべての子どもは、毎日、サーカスを見るべきです」
「毎日をハローウィンにしてほしい」
「すべての子どもはラッパをもつべきです」
「それから拳銃も」
「女の子をみんな、なくしたい」
「小さな子をなくしたい」
「すべての子どもは、車をもつべきです」
「船も」「家も」「鉄道も」
「子どもも好きなだけお金をもち、ほしいものはなんでも買えるといい」
子どもたちの意見は、「自分の欲しいものを手に入れ、自分の不快に思うものを抹殺する」ということに次第に、集約していくのであった。
力をもった子どもたちにとって、すべての自分の欲求は、「正しさ」と同義語となりつつあった。
そして、それを導く大人たちは、この国にはもはや存在しないのだ。
これらのあまりにも身勝手な子どもたちの意見を、王であるマット自身もまずいと思い始めるが、一旦「法律」で決まった国会と国会議員の力を抑えるのは、極めて困難なのであった。
********************
大人はもはや、子供のことに何も口出しすることは出来ない。
気に入らない頭の古い「大人の大臣」は、何かあると解任されたり禁固刑に処されてしまうので、うかつに何も進言することは出来なくなってしまった。
ところで、マットは、ただの利己主義で我儘な少年ではない。
いつでもどこでも、「皆を幸せにするにはどうしたら良いか?」
ということを考え続けているのだ。
彼は彼なりに、純粋な気持ちで「本当に良いと思うこと」を実行しようとしているのだ。
彼はあくまで、「正直」な少年であった。
そのような日々の中、マットの心には、以前に訪問した隣国の王様から聞いた次のような言葉がふとよぎるのであった。
「改革者の道はけわしいといったことや、改革者はしばしばみじめな最期をとげるといったこと、改革者が死んだあとではじめて人びとは、かれの言葉が正しかったと気づき、彼を立てる記念碑をたてる」
(“子どものための美しい国”より引用)
しかし、マットは、そうした不安を振り払うかのように、こう考えていた。
−でも、ぼくの場合は何もかもとんとん拍子に運んでいるー
彼には、物事をどうしても「別の側面」から見てしまいがちな大人たちは決して持ち得ない、揺るぎない自信があった。
**************************
今や、新聞も、ふたつにわかれていた。
勿論、子どものための新聞をつくったのはマットだ。
「子どもの読みたい新聞をつくるのだ。」
というのが彼の考えである。
頭の古い旧来のマスコミではなく、
「自分が手中に収められるマスコミをつくりたい」
というのがマットの考えであった。
今や、この国には、マットを褒め称える子どものための新聞と、マットの政策を厳しく批判する大人のための新聞が存在した。
そして勿論、マットの読むのは、自分にとって心地よい意見だけが書かれた、「子どものための新聞」だけである。
***********************
そして、ある日、暴動と他国との戦争が勃発する。
そして初めて大臣たちは、マットに批判で固められた「大人の新聞」を彼に見せる。
「子どものための新聞は嘘ばかりなのです。こちらを御覧なさい!」
しかしマットは
「こちらの新聞の方が、嘘で固められているのです!」
と叫び、記事を信じようとしない。
「子どものための美しい国」をつくるはずだったマットの政治は、どのような結末を迎えるのであろうか?
結末は、本書をお読みいただければ幸いである。
****************************
「理想を追いかける」
誰にも反論できない、素晴らしい考えである。
しかし、理想とは何であろうか?
理想は美しく、現実は薄汚れているのであろうか?
現実とは、すべての人の理想を、何とかすり合わせようとした結果生じた苦肉の策である。
従って、誰の心を満たすことも出来ないという側面をもつのは間違いがない。
しかし、「誰かの理想」だけを特化して築き上げた世界は、恐らく別の人にとっては理想的ではない。
「理想」と極めてパーソナルな「欲望」は、私達の心の中で混同されがちな事柄である。
それらの区別をつけていくことこそが、私達にとっての成長の過程なのであろう。
しかし、個人の「欲望」を是とするこの世の中でその成長が可能であるかは、難しいところである。
「個人の理想」は、普通は、学習や人間的な成長によって年月と共に成熟を果たすのだ。
勿論、「幼い頃の夢」が純粋なものである場合もありうる。
私達の願いとしては、「子どもの夢」こそがこの世でもっとも美しいものでなければいけないのだろう。そうした人にとって、あまりにも悲劇的なこの「美しい国」の物語は、納得のいかない話であるのかもしれない。
小児科医でもある著者のコルチャック自身が、
「この物語に反感を覚える人もいるだろう」と本書の前書きで述べている。
***********************
現代における最大の問題は、実のところは、既に大人であるはずの、
「私達の夢」や「理想」が本当に成熟したものではないという点にある。
むしろ、年齢を問わず、悪い意味での「子どものままの夢」を実現するために生きている大人があまりにも多いのではないだろうか?
もうそろそろ、私達の誰もが「大人としての理想」を心に抱いて人生を歩んでもおかしくはない時なのではないのかと思う。
自分たちが変化せずして、何を次世代に伝えようというのであろうか?
しかし、そうした「理想」を実現するためには、本書の次の言葉を忘れないように歩んでいかなければいけない。
−マットは、「大人の治める」諸外国を訪問したときに、その国の王の政治に反対する暴徒を目撃して驚く−
「あの王さまがそんなにいい人だったとしたら、なぜ“国王をたおせ”なんていう者がいるんでしょう?」
「ある人たちは、けっして満足しないのです。王さまにしろ、大臣にしろ、すべての人間からよくいわれるような人なんて、一人もいませんよ」
(“子どものための美しい国” より引用)
私達は、「何かいいこと」をしたからといって、誰かに受け入れてもらえるとは限らないのだ。
この書評が面白かった方はここをクリックして人気blogランキングへ投票よろしくおねがいいたします!
元祖ブログランキング ほかのブログも見てみたい!
コメント